民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

「研究者サバイバル時代」

2016-06-29 14:15:29 | 民俗学

表題は小熊英二が芳川弘文館のPR誌「本郷」に書いているタイトルです。この頃の雑誌『民文化人類学』に、日本人の人類学者が母国語(日本語)で自国の文化について書いた論文は海外では評価されず、海外の人類学者が英語で日本について書いた論文は評価されている。自国文化について母国語で書かれた論文が、英語でないというだけで英語圏(多くの研究者が英語圏)の研究者に正当に評価されないのは理不尽だが、それが現実で、学問の国際化といって英語で論文を発表すればいいというのは真の国際化とは言えないが、悲しいことにそれが現実だ。といった、英語資本主義に抗したくても、世界の英語圧力にはかなわないという趣旨の文がありました。それを、もう少し学会の外にいる人間にもわかりやすく書いてくれたのが、表題の小熊の文章でした。

 さらに、「英語化」の波が押し寄せている。申請を行ない、有期雇用先を探すのに、ドイツ語しか書けないのでは、選択幅が大きく狭くなる。そのため、みんな英語で論文を発表し、英語で申請書を書く。それをすれば、スイスやイタリア、アメリカやシンガポールで、契約先が見つかるかもしれない。アメリカの大学で学位をとったり、研究員生活を経験したりした人も多い。

 そこで問題がある。日本の研究者で、日本を研究対象にしている人、たとえば歴史学や民俗学の研究者には、英語ができず、理論も学んでいない人がいる。当然ながら、そうした人が、日本国外の日本研究で位置を占めるのはむずかしくなってくる。人間だけでなく、日本語で発表した論文も同様である。
 その結果、おきているのが、「日本研究におけるジャパン・パッシング(日本虫)」である。つまり、英語圏の日本研究が、日本語圏の日本研究を無視して、自己回転するようになってきているのだ。小熊英二「研究者サバイバル時代ー英語化する欧米学界ー」『本郷』№124

 何ということでしょう。学問のグローバル化とは何をもたらしてくれるのでしょうか。これからは、日本史も民俗学も英語で論文を書かないと、業績として認められない時代となるのでしょうか。私たちのような、地方で地方の民俗学をしている者とは異質の「ミンゾクガク」がそこにあるように思われます。英語を使えない負け犬の遠吠えだといわれれば、そのとおりなのですが。 


吉本隆明『全南島論』を読む

2016-06-28 11:13:12 | Weblog

その日思ったことをその日に書けばいいのですが、最近はそうしなくてその日に思ったことを何日か考えて、熟成させるというほどかっこいいものではありませんが、書いています。そうすると、話題はどうしても鮮度を失ったり、書く気がなくなったりして、話題性には欠けるテーマをブログに書く結果となります。今日書こうとするテーマもそうです。

6月22日、近くの図書館に行き資料を返却して少し本を選び、最後に読書新聞を斜め読みしていました。斜め向かいに最近入った本というのを並べてある棚がありました。そこから、なぜか一冊が目に飛び込んできました。いったい何だろうかと、近寄ってみますと、白い表紙で、吉本隆明『全南島論』とありました。吉本の新刊本なんてあるんだろうかと思いつつ、この装丁のこの分厚い本は見たことがあるな、そうそう安藤礼二です。『折口信夫』も『皇后論』も分厚い白い本でした。中を開くと、やはり安藤の編集したものでした。翌23日は沖縄慰霊の日です。この本を読みなさいと自分は招かれたような気がして、借りて帰りました。そして読み終えたらブログに書こうと思ったのですが、なかなか手ごわく読み終えることができません。それで、途中でありますが、このことについて書くことにしたのです。

 わたしたちは、琉球・沖縄の存在理由を、弥生式文化の成立以前の縄文的、あるいはそれ以前の古層をあらゆる意味で保存しているというところにもとめたいとかんがえてきた。そしてこれが可能なことが立証されれば、弥生式文化=稲作農耕社会=その支配者としての天皇(制)勢力=その支配する〈国家〉としての統一部族国家、といった本土の天皇制国家の優位性を誇示するのに役立ってきた連鎖的な等式を、寸断することができるとみなしてきたのである。いうまでもなく、このことは弥生式文化の成立期から古墳時代にかけて、統一的な部族国家を成立させた大和王権を中心とした本土の歴史を、琉球・沖縄の存在の重みによって相対化することを意味している。
 政治的にみれば、島全体のアメリカ軍事基地化、東南アジアや中国大陸をうかがうアメリカの戦略拠点化、それにともなう住民の不断の脅威と生活の畸型化という切実な課題にくらべれば、そんなことは迂遠な問題にしかすぎないとみなされるかもしれない。しかし思想的には、この問題の提起とねばり強い探究なしには、本土に復帰しようと、米軍を追い出そうと、琉球・沖縄はたんなる本土の場末、辺境の貧しいひとつの行政区として無視されつづけるほかはないのである。そして、わたしには、本土中心の国家の歴史を覆滅するだけの起爆力と伝統を抱えこんでいながら、それをみずから発掘しようともしないで、たんに辺境の一つの県として本土に復帰しようなどとかんがえるのは、このうえもない愚行としかおもえない。琉球・沖縄は現状のままでも地獄、本土復帰しても、米軍基地をとりはらっても、地獄にきまっている。ただ、本土の弥生式以後の国家の歴史的な根拠を、みずからの存在理由によって根底から覆えしえたとき、はじめていくばくかの曙光が琉球・沖縄をおとずれるにすぎない。「異族の論理」 1969年『文藝』12月号

 吉本が沖縄復帰以前に書いたこの文章が、今になっても新しさを保っています。本土にいながら沖縄を特権的に論じているようにも思いますが、沖縄の文化的独立性をもって本土に対峙する以外に、現在も沖縄の人々の誇りを保ち続ける道はないでしょう。沖縄の独自性をつきつけることで天皇制を相対化してほしいというのは、本土の人間の虫のいい願いですね。それにしても、見渡す限り戦死者の名前を刻んだ摩文仁の平和の礎の前で、安部総理はどう思ったのでしょうか。沖縄をアメリカに売りわたしてこの国の平和を確保するということでしょうか。 


クリーピー 偽りの隣人 を観る

2016-06-27 09:14:25 | その他

外出して時間があいたので、久しぶりに映画を見ました。調べてみて、時間的にも合った「クリーピー 偽りの隣人」です。話題になっていることは知っていましたが、あんなに恐ろしい映画だとは思いませんでした。西島秀俊扮する犯罪心理学者の主人公が引っ越した先の、香川照之扮する隣人が大変な人間だったという話です。脚本がしっかりしていて、2時間というもの映画に集中させられました。とっても疲れたし、見終わった後も映画の内容に寝るまで引きずられました。ビニール袋に入った多くの死体が衝撃的でした。

もう少し内容に踏み込むと、隣人は名前と人物が実は違っていて、香川照之扮する男がある家族を乗っ取って食いつぶしているのでした。その家の娘は当然ながらそのことを知りながら、恐怖からか支配されていて誰にも本当のことを話せないのです。ここで、原作にあったってはいないのですが、尼崎の連続家族失踪事件、そう、主犯の女が拘置所で自殺してしまい、真実が闇葬られてしまったあの事件を思い出しました。映画では、覚せい剤を打つことで反抗的な人物は支配することになっていましたが、現実では覚せい剤など使わず、言葉だけで精神をコントロールされていましたね。そうしてみると、映画も怖かったが現実のほうがもっと怖いじゃありませんか。何気ない日常の中にスルリと入り込み、いつの間にか香川照之に支配されている竹内結子の役割が恐怖をあおりましたし、現実にはいくつもの家族を食いつぶした犯人の女は、どうやって日常に入り込んだのか、考えるとこれも怖くなりました。自分では何も手を下さずに、妄想を吹き込むことで周囲の者に汚れ仕事をさせる。オームの手口に通ずるものがあるとも感じました。

その後の尼崎事件の審理はどうなっているのか。真実はいくらかでも明らかになったのか、知りたくなりました。それがわからないと、人はいつでもモンスターになるのだというザワザワとした思いにつきまとわれます。


憑依する

2016-06-20 14:39:50 | 民俗学

来月塩尻で話を依頼されています。桔梗が原の狐の話をしようと、図書館で関連文献をあたったところ、いやな話にはまってしまいました。自分は狐に化かされる話をしようと思っているのですが、文献にあたって出てくるのは「狐憑き」の話です。動物が人に憑くなどということは、今では想像もつかないことですから、相当に昔のことかと思ってみるのですが、記憶の底をさらってみると、自分の子どものころに、どこそこの人に狐がついて、寝床に狐の毛があったとかいう話がささやかれていたような気がします。調べると、狐憑きは世情不安な明治維新前後や、敗戦後に流行ったようなのです。敗戦後というのには驚きます。つい先ごろといってもいいじゃないですか。それに、合理的な考え方を学校で教えられてもいたはずなのに、動物が人に憑くなどということが、まじめに語られ信じられていなのです。そういえば、もっと最近に、憑き物を落とすといって親族が痛めつけて死んでしまった人がいたような。カルト教団のしていることも、ある面憑き物に通ずるような気がします。そして、根も葉もない最近のヘイトスピーチも、誰かに不満の原因を集団で押し付けようとするのは、憑き物と同じではないでしょうか。~~に狐が憑いた、といって排斥し攻撃すれば弁解する余地がありません。最近の不倫騒動や舛添問題も、根っこは通じているようなきがします。SNSという噂話がふくらむと攻撃性を帯びていくのです。昔はムラの噂話は恐ろしかったのですが、今はネット村の噂話が本当に怖くなっています。そんなものに乗って相手を攻撃する国会議員もいます。

狐の資料探しもひと段落したので、借りてきた狐関連の本を返却し、背表紙だけを見て借りた「鬼神の狂乱」という本を家に帰って開いてみると、江戸時代の土佐の狗神憑きの話でした。しばらくは、「憑く」というのを考えなさいということでしょうか。


ムラを出ること

2016-06-19 10:43:55 | 民俗学

昨日民俗の会の例会があり、早い時期に廃村となった旧美麻村(現大町市)の高地地区についてフィールドにしている会員や、旧村民の方、分校の先生だった方などに話をきいたり、現地を巡検したりしました。また、事前の学習では鬼無里や白馬の地震に伴う文化財レスキューも話題となりました。考えるべき要素がいくつもあり、なかなか言葉を探せずに1日過ごしました。

 

高地地区は山々に囲まれた地域に、3軒5軒と小さな集落が100戸ほど散在する山中のムラだったようです。水田はなく雑穀を食べて米は行事食として購入したといいます。生業といえば薪炭の生産、養蚕、麻栽培、平地への貸し出し用の馬飼育などだったようです。この山のムラは昭和50年代の初めには全戸が離村してしまいました。全国的にも過疎のはしりとして、マスコミなどでも取り上げられたといいます。最初にムラを去る人々は、全く内密にしていて家財道具もそのままに、こっそりと出たそうです。それだけムラの人々の結びつきが強く、自分だけ山を出るとは言えなかったからだといいます。そうやってポツポツと山を去る人々がでてくると、ある時期になると我も我もと次々に出て行ったといいます。しかも、出ていくのに使った道は、県に陳情しても道路整備が進まないのに業を煮やした村人が、それぞれの身銭を切って整えたものだったのだそうです。

そうやって山を出た人々の全部がといってもよいほど、大町市の王子神社の周辺に居を構えたそうです。村を去った人々のすべてが働き者で、家を新築したといいます。山の者の反骨心が、平地の者には負けない、馬鹿にさせないという頑張りをうんだのでしょう。こうした説明を聞いていて、同行した倉石先生が、私が以前に書いた「ヤマとムラとマチ」の通りだから、もう一度あの論文をまとめなおしたらどうかといわれました。その論文に書いた趣旨は、ヤマは何でも売らなければ生活できなかったから、経済的に機を見ることに長けていた。貨幣経済に依存して生きるという点で、ヤマはマチなのだということです。高地の家では、大町の平地に水田を1~2反所有して出作りしていたといいます。出作りは大変で、星を仰いで家を出て、星を仰いで家に帰らなければならなかったそうです。とはいえ、水田を購入するお金はあったということです。

離村する気持ちはどんなものだったか。山の中で生活が立ちいかなくなってではなく、平場におりて一旗上げようという元気がある人からでていったろう、というのが私の近くにいる参加者の声でした。村を捨てるというと何だか都落ちみたいな暗いイメージになるのですが、平地で頑張ると考えれば、前向きな感じです。今、限界集落が問題になり、そこで暮らす人々にとって限界と呼ばれるのはどうか。まるで切り捨てるようではないかといわれます。村がなくなるというのは切ないのですが、そこから別の場所での生活を選び取ったとすれば、明るい話となります。

震災で避難している皆さんは、自ら選び取ったわけではなくて、移転をせざるをえなかったわけですから、村を去るときの気持ちはまた別のものがあろうと思われます。


松くい虫

2016-06-17 11:22:28 | その他

しばらく書く意欲がわいてこなくて、ご無沙汰でした。2、3か月ほど前から体調が悪くて困っていました。というのは、夜間の頻尿でして、5回も6回も起きてトイレにいくのですが、排尿までに時間がかかる上に量も出ません。夜しっかり眠れないので、昼間に眠いという腹立たしいことでした。医者に行って検査をしたりして、薬をもらって飲み始めましたが、なかなか効果がみえません。それが、3週目に入った今週から、結構きいてきたみたいです。全く年寄りの男の病に悩まされていたのです。少し元気になりました。おまけに、中国勤務を終えた息子が帰国し、また家から通勤となりましたので、めんどくさいことも増えましたが、にぎやかにもなりました。

てなことで、今日は最近緑が濃くなってきた周囲の山々を眺めて気になることを書きます。それは、緑の中にうっすらと茶色がかった部分が、山のあちこちに見えることです。それは、松くい虫の被害で、枯れてしまった松なのです。松本市はそれほどでもないと今まで思っていましたが、被害が北から押し寄せてきています。高速道路で長野方面へ向かうとよくわかりますが、松本市の北の境界にある四賀地区の山は、ほとんど枯れてしまいました。ここから、南へと被害が及んできているのです。一時は枯れた松を伐採して、その木から松くい虫が飛散しないようにビニールでくるんだり、ヘリコプターで農薬の空中散布などもしましたが思うような効果があがらず、今は予算がなくて枯れるに任せています。一山全部枯れているのは、無残な光景です。このままでは、全ての松が枯れて何年かが経過しなければ、この地に松は育たないでしょう。今となっては誰も何も言わないのですが、これって仕方ないのでしょうか。どうしても守りたい松の木には、樹幹注入の薬を入れるくらいしか、方法はないようです。そして、枯れた木は放置され朽ちるのを待っているみたいです。無残な山の景観としかいいようがありません。日本中で同じことが起きているんでしょうか。


皇居前広場とアフガニスタン展

2016-06-05 15:14:39 | 歴史

天皇のパフォーマンスを考えるうえで、皇居前広場というものがずっと気になっていました。見たからってどうなるものではありませんが、今回いろいろ兼ねて見に行ってきました。その前に、11月には移転してしまうという築地を見て、場内の寿司屋で昼を食べるという目的も果たしました。ネットで調べた大和という寿司屋で、戸外に1時間も並んでようやく寿司にありつけました。普通なら並んでまで食べようとは思いませんが、これも築地の自分にとっての最初で最後だと思い並んだのです。並んでいるのは国際色豊かな人々でした。日本人のほうが少なかったかもしれません。寿司を食べながら聞くともなくきいた話では、移転先の店の場所はくじ引きで決められたとのこと。この店は、今は3代で切り盛りしているといいます。食べるのを見計らいながら握ってくれる寿司の味は、並んだだけの甲斐がありました。

  

それから大手町をへて皇居に行ったのですが、まあ江戸城ですね。二重橋がどれをさしているのか、厳密には広場に近い石の橋ではないようですが、いずれにしても明治政府が作った天皇制の象徴のようなものです。広場に人々は集まり、橋という境界を隔てた向こう側の天皇世界を遥拝するというしくみになっています。江戸城の権威を天皇の権威につなぐにはどうしたらいいか、明治の高官たちはよく考えたものです。皇居前広場で自分の印象にあるのは、敗戦を知った人々が宮城を向いて深く額づく写真です。今そこは砂利をしきつめた何もない空間となっています。宮城から街を見るとビルが並んでいるのです。娘夫婦が働いているビルも近くにあるのですが、何も考えずに毎日風景の一つとして見ているといっていましたので、多くの人々はこの場所の象徴的な意味など今は知らないでしょう。東御苑に入りたかったのですが、あいにく休園で江戸城の郭をながめるだけでした。

翌日は国立博物館で「黄金のアフガニスタン」という、博物館関係者が命がけでタリバンの手から守った秘宝展を見て、隣の藝大美術館でバーミヤンの石窟の天井絵の復元されたものを見ました。博物館では撮影禁止でしたので写真はないですが、金で作った様々な装飾品が展示してありました。紀元前2000年くらいから紀元前後くらいまで、ものすごい金の量です。

“A NATION STAYS ALIVE WHEN ITS CULTURE STAYS ALIVE"
(自らの文化が生き続ける限り、その国は生きながらえる)

戦火から文化財を守り抜いた、といっても保管したのは貴重品だけで多くの遺物は破壊されたのですが、関係者の理念だそうです。文化を失うことは民族が滅びることなのですね。だから朝鮮で行った日本語の強要は大変な破壊行為でしたし、英語を公用語にするなどという動きはとんでもないことだと改めて感じました。写真は芸大で撮影したものです。芸大で収集したアフガニスタンの文化財は、近いうちに返還されるのだそうです。日々の生活と文化財。直接的なつながりで考えれば、タリバンが破壊しあるいは奪って売るのもわかるような気がしますが、長い目で見れば民族のアイデンティティーの破壊ですから、ひどいことをしたと思います。