民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

安曇野と筑摩野と

2014-03-28 17:46:46 | その他

 3年ばかり前になります。穂高の碌山館で「中村屋と碌山」という企画展があり、見に行きました。帰りに、井口 喜源冶記念館も見ました。そして、相馬愛蔵と碌山、井口 喜源冶との友情、とは一口でいえないほどの人間としての結びつきに強くひかれました。さらに、ついでに臼井吉見文学館も見ました。するとそこで、今度は安曇野に碌山たちを見出した臼井吉見と古田晃との、松本中学校以来の友情にうたれました。3月のことだったように思いますが、その夏今度は塩尻市小野に古田晃記念館を尋ねました。そこでは、古田と太宰治との強い結びつきを知りました。そして、臼井吉見は碌人はいるもので、2日の日曜日に臼井吉見文学館友の会「春の講演会」で、「友 臼井吉見と古田晃と」と題して、元筑摩書社長の柏原成光氏の講演を聞くことができました。私が二人について読んでいたのは、古田晃についてばかりでした。「まあ、飲みましょ」が口癖だったとか、筑摩が大きな負債を抱えるようになってからは、それを忘れるために酒におぼれたとか、小野の私財をなげうって筑摩を支えたとか、戦時中の食糧事情の悪い時、東京から作家を小野に呼んで食べさせていたとかのことどもです。それも、経営者の古田は文を残さなかったので、評伝や周囲の人の証言などによるものでした。臼井については、実はほとんど読んでいません。柏原さんは講演と同じタイトルで、昨年本を出版されていました。講演の内容をここでたどるよりも、興味のある方にはこの本(紅書房刊)を読んでいただければと思います。1つだけ講演で学んだことを書きます。古田と臼井の友情とは、ただの仲良しなどというものではなかった。二人の先輩で筑摩に深くかかわっていた唐木順三は、二人を運命共同体ならぬ、「運命自立体」といったという。それぞれが自立しつつ運命を共にしたという意味だそうです。うらやましい限りです。


沖縄へ7 本当の話かな?

2014-03-25 17:37:56 | 民俗学

 セーファーウタキを見てバス停で那覇行きのバスを待っていました、私と妻との前には大学生とおぼしき若者が、やはりバスを待っていました。そこへ、タクシーの運転手のジイチャンが近寄ってきて、あんたらどこまで行くのかと若者に向けて話しかけ始めました。那覇までだというとそのじいちゃんは、5000円でいいから乗ってかないかと勧めます。若者は、「いやいいです」と迷惑そうに断ります。何だかぼられそうな、嫌な感じで私も相手にならないようにしていました、そうすると、「みんなで乗って行けば、バスより安い」としきりに勧めます。バス代いくらかわかると若者にききますと、830円だといいます。バスの方が安いから乗らないよなと思っていましたら、後ろからもう一人バスを待つ人が現れて、4人になりました。すると、ジイチャン運転手は「3000円でいいよ。4人で乗ったら安いよ」とまた勧めてきます。4人で3000円なら、えーと一人はいくらになるのかな?鈍い頭で計算すると、確かにバスより安いではありませんか。じゃあ乗っていきますかと、バスを待っていた人たちと合意し、那覇までその個人タクシーに乗ることにしました。それでもまだ、なんだか怪しげな雰囲気で大丈夫だろうかと、乗車してからも一抹の不安はありました。皆が車に乗ると、どこまで行くのかと皆に聞き、那覇バスセンターを終点としました。40分くらいかかるはずです。

 車が走り始めると、ジイチャンは観光客へのサービスと思ってか観光案内のような話を始めました。自分は若いころ、沖縄が日本に返還される前、トラックの運転手として働くためにパスポートを持って東京へ行った。横浜について、喉が渇いたのでコーラを飲もうと思って自動販売機で買おうとした。そうしたら何度お金を入れても、でてこない。そん時は1セントを入れたんだ。何度やってもだめだから、警察行くとどんなお金をいれたというから、これだというと、これでは使えないという。それでいくら持ってるというから1ドル出したら、親切な人で日本のお金に換えてくれたので買うことができた。それから食堂では、みそ汁って書いてあるからみそ汁食べたいと思って頼んだら、小さなお椀に顔が写りそうな汁が出てきた。俺はこんなんじゃなくて、どんぶりに入ったみそ汁が食べたいんだといったら、ここにはそんなものはないといわれた。(この話をきいているときは、大きな椀でみそ汁飲みたかったのかな程度にしか理解できませんでした。ところが、帰りの飛行機の中の雑誌に沖縄の朝ごはんの特集記事があって、そこには、沖縄のみそ汁といえば大きなどんぶりに肉や野菜がたっぷり入った汁で、ごはんもついてくるいわば定食のようなものだとあり、この時の話にがてんがいったのです)さあ、ここから先です。東京へきて沖縄の友達と一緒に、食堂に入った。友達はうどんというものが食べたかった。メニューを見ると。たぬきうどん、きつねうどんとある。二人とも、たぬきやきつねの肉は食べたことがないので、こりゃ珍しいものが食べられると、出てくるのを楽しみに待っていた。沖縄のそばは、豚肉が上にのっているので、肉がのっているのは当たり前だとおもい、タヌキやキツネの肉がうどんの上にのっていると思った。ところが、でてきたうどんをいくらひっくり返してみても、肉は一つもはいっていない。こりゃ、嘘ついてだましたなと店の人に文句を言うと、肉は入っていないのだという。それじゃ、月見うどんは月が入っているのかと、逆にねじこまれたという。こうやって書くと、何だか面白くありませんが、運転手のジイチャンが話すと、まるで落語です。また、初めてソバを食べた時、なんかおかしな味だし、第一肉が入ってない(沖縄のソバはそば粉ではないし、豚肉でだしをとった塩味で麺に肉がのってます)、これがソバかというと、日本ではこれがソバだといわれた。沖縄の人は脂っこいものが好きなのですねというので、そうだというと、テンプラのかすを入れてくれた。これにもびっくりしたといいます。

 次の話は年中行事にちなんだ、食べ物の話でした。本土では正月に餅を食べるが、沖縄の自分が生まれたあたりでは(南城市)、伝説の鬼退治に基づいて、12月7日にモチを作る。もち米を洗って一晩水につけておき、次の日粉にひいてこれを練る。砂糖を入れ、ウコンで黄色に紅いもで赤くよもぎで緑に色を付け、クバの葉に包んで蒸すのだという。後で調べてみると、ムーチー(鬼餅)というんだそうです。報告書には、なぜ鬼餅というかの伝承は記録していないのですが、この運転手のジイチャンは話してくれました。昔、鬼が里に出てきて悪さをして困った。そこで鬼を退治するために、砂糖を入れて甘くした餅に色を付け、中にガラスのかけらや瓦けのかけらをいっぱい入れた餅と、砂糖いれず色をつけない白い餅とを作って、甘い色のついた餅がいいか白い餅がいいかと鬼に選ばせた。甘い餅がいいといって食べた鬼は、ガラスなんかを食べて死んだ。それにちなんで、餅を作るのだという。道端にあったクバの葉を見ての連想から、話してくれたのでした。私が民俗に興味があるなどと一言もいわなかったのに、次々と面白い話が出てくるではありませんか。次の話は正月料理。このジイチャンは料理に詳しく、本当に自分で作ったことがあるようでした。自分の車のタクシーなんだから、家でゴロゴロしてないでいくらかでも稼いでこいをばあちゃんに追い出されるといってましたので、家事もかなりこなしているのかもしれません。沖縄の女は強いです。正月には、豚肉と豚の内臓を1時間ばかり大鍋でゆでこぼしてあくをとり、もう一度煮直したものをたくさん作っておく。客がくると小鍋にわけ、自分が好きなだけ塩とすりおろした生姜をかけて味付けして食べるのだといいます。これがメインの食事で、餅は食べないそうです。

 このジイチャンこんなこともいってました。今、基地反対とかいってるけど、基地がなくなったら沖縄は食べていけない。基地が先にあってそこに人が集まってきたのに、基地に反対するなんておかしい。知り合いは、結婚した奥さんの家では基地に土地をたくさん貸していて、貸し賃ががたくさんはいってくるものだから仕事やめちゃって、毎日左うちわでゴルフして暮らしているよ。南城市には米軍基地はないのか、あっても少ないのです。自衛隊の基地とカントリークラブが目につきました。直接的に米軍基地に接しないから、きっとこのジイチャンはこう考えるのでしょう。そんな話をきいているうちに、あっという間にバスセンターに到着しました。すると、どこのホテルに泊まるのかといいますので、近くのどこどこだといいますと、乗せてってやるといわれ、結局ホテルの玄関まで送ってくれました。胡散臭いジイチャンが、降りるときには親切な沖縄のおじいさんにかわりました。思い切り感謝の言葉を述べて、チップもやらずにお別れしたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

始めました


沖縄へ6 セーファーウタキ

2014-03-22 20:26:09 | 民俗学

 日常に紛れてウダウダしていると、いつまでたっても沖縄の記録かが終わりません。本当はその日のことはその日になのですが、なかなかそうはいきません。沖縄のことを書く前に、最近のことを少し記録しておきましょう。まず、XPのアップデートがなくなり消費税が上がるという事で、時流に乗ったわけでもありませんが、PCの新しいやつを買いました。タブレットにもなるのがいいと思い、小さめのノート&タブレットパソを。おかげで、ウィンドウズ8の勉強をしなくてはなりません。それから春ですね。友人が、イカナゴの佃煮を作って送ってくれました。それから、大ニュースですが、震災後三陸かき復興のためわずかの出資をしました。そしたら、牡蠣が出荷できるまでに育ったと、20個も生で送ってくれました。こんな大きな牡蠣になるほど養殖は復興してきているのを、おいしい味と共にいただきました。三陸の皆さんありがとう、頑張りましょう。

    

 さて、久高島から戻るとゆうべ泊まったペンションの方が、荷物を載せた車で待っていてくれました。そして、セーファーウタキの入場券を売っている道の駅のような場所までおくっていただきました。そこに荷物を預け、入場券を買ってセーファーウタキ(斎場御嶽)に向かいました。そこは琉球王国最高のウタキとされ、国家最高の神職である聞得大君(きこえのおおきみ)王の姉妹か妻が管理し、祈願をする場所でした。庶民は、入口である御門口(ウジョーグチ)までしか入ることを許されず、王も女装しないと入ることができない、女性が支配する神聖な拝所でした。上中の写真は御門口から久高島を拝する場所からとった写真です。この聖なるウタキから聖なる久高島を拝し、そのまた東の会場には遥かにニライカナイを臨んだのでした。そこから、奥へ進みむといくつかの拝所があり、最後に大きな岩が2つ合掌するように向かい合い、その間を人が通れるようになった何とも荘厳な場所に行き着きます。上右は岩の手前の貴人のお休み処と説明されていた場所です。そこを突きあたって右に曲がると、下の左のように人が通り抜けられる通路があり、その向こうに最高の拝所があります。下右がその拝所です。この場所もすごいのですが、ここにくるまでに、何か神を感ずるような場所がいくつもあり、最後にこの大きな岩の前に立つと、知らず知らず神が降りてくるような気がします。まさに神とは形としてあるものではなく、「感ずるもの」だとここへきて実感しました。しかも、この神は天皇家とはまったく別個な神なのです。天皇家とは全く別個な神をもつ人々がいるということを、天皇フェチの人々は知るべきだと強く思いました。

 セーファーウタキから道の駅に戻り、荷物を受け取って定期バスで那覇に戻るべく、バス停でバスを待ちました。そしたら、胡散臭そうな個人タクシーの運転手に声をかけられました。ここから抱腹絶倒のガイド(?)をしてもらったのですが、それは次回。

 


沖縄へ5 神の島久高島2

2014-03-18 09:08:56 | Weblog

 まずは久高島の紹介をしましょう。人口は200人で50パーセント以上が65歳以上の年寄りだといいます。島では40代が若者だそうです。村人のうち20人程が漁業で暮らしていて、船のある物はサンゴ礁の外海にでかけて、カツオやマグロをとって本当の市場にだしているが、船のないものはサンゴ礁の浅瀬で素潜りや追い込みで魚をとっています。浅瀬で捕った魚は、本当の市場へ持って行ってもキロいくらという安い値段で商売にならないので、自分で食べたり島内で消費されています。島内の土地は、「総有地」で、個人の所有地はありません。ガイドの方は、一旦本島に出て生活していたが9年前に島に帰ってきたそうです。そして、島から林野を分けてもらい、そこを切り拓いて家を作ったそうです。島の生まれでない人が島に移住しようと思ったら、空き家をみつけてそこに3年住めば島の住人と認められるのだそうです。畑も家族の人数に応じて、「地割」して分割して栽培しています。年を取って自分で畑が作れない人は、隣の人に耕作権を譲って、隣の人が2軒分を栽培していることもあるそうです。畑はきれいに短冊形に分割され、境界には石が並べてありました。畑の作物といっても自給用で、売るために栽培することはない、というより本島にフェリーで出荷しても採算がとれないということでしょう。それにしても、神の島のこの制度、皆さんはどう思いますか。今はどこの国もない共産制が、小さなこの島、神への祈りを怠らないこの島にはあるのです。そして、誰もそのことを不思議にも思っていません。

  

イシキ浜の次に案内してもらったのは、島の北の端、カベール岬。人類の始祖、アマミキヨが天孫降臨した場所です。昨日、豊漁を願って神役4名の女性が祈願したという場所です。3か所の岬の突端で神役たちは祈願し、持ってきた重箱で会食したのだそうです。ガイドの方はピクニックだといってました。しか、男は見ることが許されていないのですが、白装束の女性が太平洋から打ちつける波しぶきに向かって祈願する姿を想像すると、鳥肌がたちます。今は神女は4人になってしまいましたが、過去の写真をみると10人も20人もいます。現在の神役は4名で、その内3名は島に住んでいるが4名は本島に住んでいるといいます。本島に住んでいない人も島で生まれた、あるいは島に出自をもつ女性で、嫁に行っても島に神事があると帰ってくるのだそうです。どういう人が神役になるんですか、若い人はいるんですかと、ガイドの方に質問すると、いい質問ですといわれました。神役には先祖代々、セジダカイ(霊力が高い)女性がなるのだといいます。だんだんそうした女性がいなくなったが、3年前島のある行事の時、参加していた28歳の若い女性が震えだし、神が降りたことがわかった。それで、神役たちが相談して神役に引き上げたのだという。この方が一番若いが、本島に住んでいるという。嫁に行っても島を出ても、神事があると島に帰ってこなければならないというのは、大変なことです。他家には嫁がないこと、島からでないことが前提のような制度に思われます。そうして女性が男性のことを祈った。祈られる男性は幸せですね。

 次に案内されたのは、島最高の聖地、フボーウタキ。ウタキの中へは島の住人でも男性は入れません。掃除のとき、ウタキの円形広場の草刈りはオバーだけの仕事で、男性は広場(拝所)までの道作りだといいます。このウタキで行われた最大の神事は、イザイホーでした。イザイホーは午年に行われ、今年を含めて3度やられていないといいます。おそらく今後も行われることはない幻の祭りです。イザイホーとは、比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』 (集英社新書)によれば、こうあります。

 久高島では、シマで生まれ育ち、一定年齢(丑年の三十歳から寅年の四十一歳)になった主婦は全員神女になることになっており、七十歳までつとめなければならない。この神職者の就任式が十二年ごとの午年、旧暦十一月の満月の日から十八日までの四日間にわたっておこなわれるイザイホーなのである。
 イザイホーの語意に定説はない。神歌に見ると、神女の別の呼び方になっている。イザイホーの歴史は古く、五百年ほど前に「ノロ制度」が施行されたときに神職者組織を編成するためにおこなわれるようになったと思われる。ここで神職者に就任した神女は、祖母霊を守護神として家に祀り、この祖母霊を背景に家の祭祀をおこなうことになる。そして、やがてノロの祭祀に参加することになる。

  

 左はフボーウタキへの入り口。ここから先は、真ん中のような立札があり、進入禁止です。右は内部の配置を示した図です。説明をききゆっくり見学できたのは、イシキ浜にいたときガイドの方に電話が入り、午後のフェリーが欠航ではなくなったためでした。島の風景を見たり、イザイホーの写真展を見たりして、そうそう山村留学の話や子どもたちが泊まっている施設をながめたりしてから、シマの食材で作ったお昼を食べ、予定通り1時のフェリーに乗って本島に戻ったのでした。次回はセイファーウタキです。


沖縄へ4 神の島久高島

2014-03-17 08:43:02 | 民俗学

 沖縄本島の東の海上に、久高島はあります。琉球の神話によれば、人類の始祖アマミキヨが天から初めて地上に降り立った地であり、五穀発祥の地としても知られ、歴代の琉球王朝から深く尊崇されてきたウタキのある神の島です。この島に渡るため、高速フェリーののでる知念安座真港に近いペンションに前日は泊まりました。朝9時のフェリーで島に渡り、依頼してあるガイドさんに島を案内してもらう予定をたてていました。戦跡見学を終えてペンションに着くと、明日の予定を話して港まで車で送っていただくよう依頼しました。ペンションは海岸の斜面を下りた海に面した所にありましたか、一旦上の道まで戻って港へ行かなければならなかったのです。合わせて、1時に帰ってきたら港に近いという沖縄第一の聖地、セーファーウタキに行きたいとお話しすると、朝は送ってくれ車に荷物を預かっておいて帰ってきたら迎えに行き、セーファーウタキの入場券を買う場所まで車で送ってくれるという話になりました。ありがたいことですので、お願いしました。
 さて、5日の朝です。天気は曇り。晴れていないのが残念でしたが、贅沢はいえません。と、7時頃でしたか、久高島観光協会から電話があり、海が荒れそうなので午後の船は欠航となるが、どうするかという。せっかくここまで来たのだから、短縮で案内してもらってでも島に渡りたいとお願いしました。朝食をいただきながらペンションの方に話すと、島との間の海は流れが速く、ここまできても船が欠航で島に渡れないことがママある。でも、神の島だから神様が来るなといってるんだから無理しないで、またこの次と皆さん思われるんですよ、といわれました。ともかく半日でも島にいられるということで、豪華な朝食をそそくさと食べ、港に向かいました。

  

 

確かに波は荒いのですが、高速船はその波を切って進んでいきます。30分弱で久高島に着くと、ガイドな方が待っていてくれました。最初に案内してもらったのは、島の第2の聖地だというイシキ浜でした。ここでは、2月中旬と12月末に大きな行事であるウプヌシガナシーが行われるそうです。昨日も祭りが行われたということで、昨日なら、イシキハマより北へは観光客はいけなかったといわれました。ウプヌシガナシーとは、神女が男性の健康祈願と五穀豊穣を祈るものだといいます。女性の健康祈願をしなくていいかといえば、女性は生まれながらに男性の家族を守る力を備えているのだといいます。(今回は写真中心の説明とし、次回もう1回島の信仰についてついて書きます。)

 真ん中の写真は、イシキ浜に出る小道の脇にしつらえられた拝所です。1畳ほどの土地に白いサンゴのかけらを敷き、その周りを黒い石で囲んであります。その海と反対方向に香炉が置かれてあります。何でもないような四角な石が香炉です。島以外のあちこちの拝所でも見ることができました。この香炉にヒラウコウという平べったい線香を、6枚あるいは12枚と酒を供えて、神女は祈願するのだといいます。ウプヌシガナシーでは、各家では2月に浜で一人3個ずつ家族の人数分の石を拾い、神役に祈願してもらって家に持ち帰り祀っておく。この石はサンゴの白い石ではなく、黒く硬い物を選ぶ。神役は、東方の海に向かって白い石を前にして並び、海に向かって祈願する。下左の写真の小さな黒い石がのっているいる石です。この白い石は、イシキ浜に出る道からまっすぐ海に向かう浜辺に置かれていました。拾った黒い石は、石の手前つまり陸側に置かれました。神役が祈願する東方海上にはニライカナイがあり、祈願するとニライカナイの神が海を伝ってやってきて、浜に上陸するのだといいます。上の右が、ニライカナイを臨む海です。ここで私は感激のあまり泣きそうになりました。2月に借りて行った石を、12月には浜に戻すといいます。だから、この浜からは石ころ一つ持ち去ってはいけないのだそうです。イシキ浜には、こんな神話があるそうです。昔、黄金の壺が浜に流れ着いた。少年が拾って母と持ち帰り、開けてみると5つの種が入っていた。麦と粟と稗と大豆と小豆である。これは神のおぼしめしだといって、島の中央部でまいて育てて島にひろめ、それが本島にも伝わって穀物を栽培するようになったという。だから、久高島は穀物発祥の島ともいわれる。多分もっと長い話の断片でしょうが、穀物起源神話が伝承されているってすごいことです。


沖縄へ3 戦跡を巡る

2014-03-14 14:17:26 | Weblog

 3月4日はタクシでのガイドをお願いして、1日かけて中部から南部へ、米軍の侵攻、それはとりもなおさず日本軍の敗走ルートであり日米の激戦地を見ていきました。ネットで探して依頼したのは、幸運タクシーの上原幸典さんでした。検索してみるといくつもヒットしてくるので、実名をあげてしまいます。たまたま頼んだ平和ガイド上原さんは、素晴らしい方でした。見学ルートは、米軍上陸地を臨む座喜味城跡→激戦地嘉数高地・普天間飛行場→南風原文化センター・米軍基地車窓から見学→糸数アブチラガマ見学→沖縄平和祈念資料館・平和の礎→ひめゆり資料館見学 というもので、強行軍でした。見学終了は6時近くだったでしょうか。

   

左は座喜味城跡の石垣です。首里の中山城の出城であったようです。首里城は偽物だが、これこそ人の手の加わらない本物の歴史遺産だと上原さんは強調されました。また、小高い城跡から見える読谷村について、面白い話をうかがいました。読谷村は大部分の土地を米軍に接収されてしまった基地の村ですが、したたかな手段で役場を立て周辺を返還させたというのです。以下に、読谷村役場 小橋川清弘さんの「軍用地の跡地利用と平和村づくり」という論文の1部を引用します。

 沖縄戦では、読谷村は米軍の上陸地点であり、その後たくさんの基地がつくられ、村民生活の障害となった。こうしたことから村民は基地を取り戻し、そこに生活の場・生産の場・憩いの場をつくる跡地利用を進めてきた。村民のねばり強いたたかいがついに実り、米軍基地(読谷補助飛行場)の中に、運動広場、多目的広場、野球場、大型駐車場をつくることに成功し、さらに1997年には待望の役場庁舎が、1999年には文化センターが同じ基地内に建った。
 なぜ、基地の中に体育施設や庁舎などが建ったのか、それは、日米地位協定第2条4(a)「合衆国軍隊が施設及び区域を一時的に使用していないときは、日本国政府は、臨時にそのような施設及び区域をみずから使用し、又は日本国民に使用させることができる。ただし、この使用が、合衆国軍隊による当該施設及び区域の正規の使用目的にとって有害でないことが合同委員会を通じて両政府間に合意された場合に限る。」という規定による。そして2006年7月31日、庁舎や文化センターが建った部分を含め読谷飛行場の一部約140ヘクタールが返還された。読谷村民の長年の返還運動が、日米両政府を動かしたのである。

共同利用しましょうとかいって役場を作り、演習だからと役場は閉鎖できないといって変換させたのだといいます。大したもんです。以後、同じ手をつかった自治体がいくつかあるそうです。現在も、時々米軍から用地が返還されるが、いずれも崖の部分だとかで返還されても利用価値のない土地なのだそうです。真ん中は、米軍基地の入り口ゲート。どういうわけか、米軍は鳥居を作りたがるそうです。そして以前は鳥居の上に、富士山の絵が掲げてあったといいます。鳥居の中は聖域ですから、日本人を遠ざけるには鳥居が最適だと米軍は考えたのでしょうか。米軍基地で多くを占めるのは海兵隊だそうです。敵の陣地へ真っ先に攻め込み橋頭堡を築くのが海兵隊です。彼らが教えられるのは、いかに躊躇なく敵を殺せるかです。殺すか殺されるかの訓練を受けている兵士が、街の中に休暇で出てくるわけですから、一般人とは道徳的に相いれなくて当然です。表ざたになっているレイプ事件はほんの一部で、泣き寝入りあるいは隠蔽されている数は多数あるということでした。右は嘉手納基地です。通常の法では建設できない住宅密集地にある基地です。

 

左はいくつかあるガマの入り口です。公開されているガマは少ないそうです。糸数アブチラガマはNPOによって管理されているので、中に入ることができました。ガマの中は広く長く、川も流れていました。もちろん真っ暗です。こうしたガマの中に避難した住民が集団自決したり、日本軍によって追い出されたり、スパイ容疑で虐殺されたりしました。日本軍によって殺されたことがわかっている遺族も、そうはいわなくて米軍の攻撃で死んだと役場には申請したそうです。そうしないと援護法の適用にならなかったからです。証言している人の数は少なく、それも年を取って自分が死んだら真実が伝わらないと考えた人が、意を決してのものだそうです。また、集団自決といっても村人が互いに殺しあったわけですから、戦後生き残った人によって、誰が誰を殺したという事が明らかになっても普段は口をつぐんでいる人が選挙の際に明らかにし、訴訟にまでなった例があったそうです。地上戦を住民がまきこまれて行ったということは、本当に恐ろしいことです。何のための軍隊なのか、軍は民を守ったためしがないと思います。右は平和の礎。沖縄戦でなくなった全ての人命が刻まれた石が、数多く並んでいます。亡くなった全ての人命といいましたが、強制連行されてきて亡くなった韓国朝鮮の皆さんは、同等に名前を刻まれることを拒んでいるそうです。それは当然と思います。


沖縄へ2 首里城にて

2014-03-13 13:57:12 | 歴史

   

3日午後、羽田から那覇に12:50到着。ホテルでチェックインをすませてから、首里城に向かいました。首里城は国宝でありましたが、沖縄戦で日本軍の陣地が置かれたために徹底した攻撃を受け、建物は破壊しつくされてしまいました。それが、復元されて、といっても薩摩によって占領されて日本文化の影響を受けて造られた江戸期の姿に似せて作ったものです。本土の城の大手門にあたるのが、守礼の門ですが門に掲げられた扁額には「守礼之邦」と書かれていました。私たちは、守礼の邦に無礼をはたらいているのです。建物の中の展示に沖縄サミットが、ここで行われた際の会食の写真がありました。森元首相がごきげんで酒をつぐ写真もありました。復元された建物ですから中で宴会もできるのですが、本土防衛のためといって琉球のアイデンティティーともいえる文化財を粉々に破壊させ、それを税金で復元させたのは政治の力だ、(もしかしたら俺の力だ)と有頂天になっていたのだとしたら、何と恥知らずなおこないでしょう。
いくつもの門をくぐりたどりついた建物は、正面が政庁で左右は、日本の使節と清朝の使節とを迎えるための施設が別々に作られていました。大きな広場は、王の前で全ての役人が拝謁する場所です。規模は小さいですが、中国の王城と同じ作りです。琉球王は代替わりすると、清朝の皇帝からの任命書を受けたといいます。建物は、中国風ですが一部、破風の部分や室内の造りに和風も感じました。

  

上は玉座です。小さいながらも、王は王としての風格と威厳とを備えていたことでしょう。内部のいくつかの展示をみても、琉球国というものの存在を感じ、すくなくとも江戸時代までは薩摩の植民地にされたとはいえ独立国であったし、あえて宗主国というなら清がそうであったと感じました。琉球が古来よりの日本固有の領土などとは、軽々しく口に出せないと思いました。だとするなら、琉球国には琉球国の独自の歴史があります。翌日案内していただいたタクシーの運転手さんは、首里城なんてありますか?そんなものはありません、あれは中山城なのですと、嫌味をこめていわれました。観光に向けての耳触りの良さなのです。中学校の社会科教科書では、ほんの少し琉球王国に触れますが、本土の藩のような扱いです。そうではないとようやくわかりました。独立国が、明治政府によって占領され、滅んだのでした。沖縄では、琉球国史を正史として学ぶべきだと思いますが、本土と同じ教科書を使い、幕藩体制を学ぶばかりのようです。

 首里城の見学を終えて行ったのは玉陵(たまうどぅん)で、1501年に作られた王家の代々の墓です。当時の宮殿を石で作ってあるということですが、何だか不思議な感じです。3室からなっていて、中央に遺体を納め、何年かしたら洗骨して壺に入れ、左右の室に置いたといいます。石造りの塀で囲まれています。こんなのを見ると、『ゲド戦記』の影との戦いの場面をイメージしてしまいます。


沖縄へ1 -東北と沖縄ー

2014-03-11 10:19:42 | 政治

 3日から7日まで、沖縄へ行ってきました。せっかくだからと、かなり無理して行程を詰め込み、脳みそもフル回転で歩いたため、随分疲れた気がして、ようやくまとめにかかった次第です。これから何回か、見たこと学んだことを書いていきたいと思います。
 今朝の朝日新聞に、「東北を「植民地」にするな」という主張が、赤坂憲雄の言葉をひいて述べられていました。東北が植民地(本文中にはありませんが、大和が蝦夷の国を植民地としたように、東京=中央が東北=地方を植民地としているということ)かと思われる理由は、1原発被災地が結果的に切り捨てられていること。2未来の縮図のような過疎地だからこそ期待された「創造的復興」が進まない。3約10万人がプレハブ仮設住宅にいる事実がもうニュースにならず、震災が風化している。の3点だという。同じ現実、そしてそれが早くから日常化してしまった所が沖縄だと私は思います。普天間基地の移設問題、竹富島の公民教科書問題等、1度報じられれば遠い島の出来事として忘れられています。あれだけひどい地上戦を本土を守るための時間稼ぎとして戦わせ、一般住民に集団自決を強いたばかりか、国を守るためといって壕から追い出しスパイ容疑で惨殺した。そんな過去には一切口をつぐみ、何もなかったのごとく謝罪どころか名誉棄損で訴えまで起こす。こんな仕打ちは、植民地主義の最たるものではありませんか。

 どんどんと右傾化する政治にノーを突きつけられるのは、福島からの反原発と沖縄からの反基地の声しかないのではないか、そんなことから沖縄を見たいという思いが強くなりました。もう一つ、こういう言い方は今は流行らないのですが、民俗文化の原郷ともいえる地です。なくなってしまったこの国の古代の姿を髣髴とさせる伝承が、ついこの間まで残されていた地です。日本人の原郷の地を鉄の暴風雨で粉々にしたにもかかわらず、戦後「格段の高配」もすることなく、今も基地負担を平気で押し付けておきながら、魂の故郷、癒しの島などとノー天気なことを言うのは気がひけるのですが。

 こんなスタンスでの沖縄の行程は次のようなものでした。3日 首里城見学 4日 タクシーをチャーターして、米軍が上陸した中部から日本軍の敗走ルートに従い南部のひめゆりの塔まで、戦跡見学 5日 フェリーで久高島にわたりガイドに聖地を案内してもらう 本土に戻りセーファーウタキ(沖縄第一のウタキ)見学 6日 石垣島見学と親族との会食 7日羽田へ この間、ステレオタイプの自分の思い込みではいけない。10人いれば、10人の事情と思いがあると随所で教えられることがありました。行程に従いながら、連載します。