民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

中沢新一『僕の叔父さん網野善彦』読了

2020-09-21 17:19:08 | 読書

昨年末から今年の夏にかけて、母親をはじめとして、その同世代の人々を送りました。自分が子どもたちに明日にも送られても不思議ではない年齢になっているのですから、一世代上の人々を送るのは当然です。それどころか、残るはおば一人となってしまいました。同世代として一人残されたおばは、どんなにか寂しいと思います。そんな思いでいて、ふと本棚に購入してそのままになっている新書をみつけました。中沢新一著『僕の叔父さん網野善彦』(集英社新書)です。網野さんには一度だけお会いしたことがありました。信濃史学会で講演をしていただき、そのあとの懇親会です。酒が強く談論風発だったような覚えがあります。民俗学のスーパースターが宮田登さんだったとしたら、歴史学のそれは網野さんだと思います。こうした先生方はなかなかいるものではありません。

 なかなか哲学的でありながら愛情のこもった中沢新一の追悼文でした。優秀なおじとおいの夢のような時間に、嫉妬を感じるほどでした。そして「あとがき」の部分に。自分の今の感性といたく共感する箇所を見つけました。

私がそっと襖を開けると、人のいないはずの座敷には煌々と白色電球が灯り、そこに父親や網野さんが座って私のほうを見上げているのが、見えてくるようだった。「新、どこへ行っていたんだ」と父親が話しかけてくる。「新ちゃん、今まで勉強かい。入ってきていっしょに話をしよう」と網野さんが微笑みかけてくる。死んでしまったはずの人たちが、また昔のようにそこにいるように感じられ、忘れていたはずの思い出が、つぎからつぎへと驚くほどの鮮明さでよみがえってくるのであった。

 本当にそうです。音だとか自分の動作など、何気ないことがきっかけとなって、そういえばあの時こんなふうだったと、亡き人がときどきよみがえってきます。こんな口癖があったと今になって思い出したりします。そして、中沢新一は続けてこんなことも書いています。

 墓石や記念碑を建てても、死んでしまった人たちは戻ってこない。それではかえって死んだ人たちを遠くへ追いやってしまうだけだ。リルケの詩が歌っているように、記念の石などは建てないほうがよい。それよりも、生きている者たちが歌ったり、踊ったり、語ったり、書いたりする行為をとおして、試しに彼らをよみがえらせようと努力してみることだ。

 墓じまいをしようと決めた自分の心に、真っすぐに響いてくる言葉でした。墓石など、後の代の者に供養を強いるだけのものです。記憶のある者の心に刻まれていれば十分ですし、記憶が薄れれば忘れてくれればいいのです。


お寺との別れ

2020-09-15 13:48:37 | 民俗学

昨年の暮れから今まで、多くの人との別れがありました。私の母、妻の母、おば2人とおじ1人。いずれも仏式の葬式でしたが、坊さんは自分の宗派を信仰によって選んだ信者に対する、という態度で話もしました。本当は参集した誰も、浄土宗だから、真言宗だからなどといって、その坊さんの寺を選んだわけではありません。昔からその寺の檀家だったり、たまたま手に入ったお墓が、その寺の管理墓地だったりしたのにすぎません。坊さんも、そんなことは百も承知のはずですが、信仰によって自分の寺が選ばれた、というふりをします。葬式に参列した人々は、その坊さんの属する宗派の宣伝など聞きたくありません。にもかかわらず自分の寺の宗旨がいかにすぐれているか、開祖が何をいったのかという話をしたがります。故人とのつきあいがなければ、そんな話をするしかないのかもしれません。ならば、仏教徒は、という話が聞きたいです。坊さんの話には、大概うんざりします。

私の家では、父が購入したお寺の管理墓地があります。父はその寺の宗派にひかれたのでも何でもなく、墓地区画が売りに出されたからたまたま手に入れたにすぎません。しかし、寺の管理墓地である以上、葬式は必ずその寺に依頼するしかありません。ここが共同墓地との違いです。ところが、私は自分の葬式に坊さんが関与してほしくありません。できれば仏教とは無関係に、お別れ会でもやってもらいたいと思うのです。とはいえ、今のままで寺に言わずに葬儀をしたら、お骨を墓に納めるには寺との間で、相当なトラブルが予想されます。子どもたちにそんな問題を引き受けさせるわけにはいきません。それで、とりあえず父と母のお骨を永代供養墓に移し、私の家の墓地は更地にして寺に返そうと考えています。更地にするにも永代供養墓に移すにも、かなりのお金がかかります。何をするにも、寺との間はお金がかかるのです。