民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

葛飾北斎と高井鴻山

2013-08-29 08:57:12 | Weblog

小布施の北斎館へ富嶽36景展を見に行きました。北斎は、36では描きたりず100景を描いて3冊の本にして出版していることも、展示で知りました。初めて36景全てを見ましたが、その構図たるや日本画、浮世絵の範疇ではなく、今の絵画に通ずるように思われました。また、観察が細かく、36景に描かれた江戸時代の庶民の暮らしとのテーマで、民俗の論文が書けそうな気がしました。モースの「日本その日その日」を今読んでますが、そこにでてくる暮らしぶりが絵でわかる気がしました。みんな重いものを軽々と背負ったり、褌だけで働いたり、野山に弁当持って出かけて景色を楽しんだりしています。
北斎は80過ぎて小布施に来て、多くの作品を残しています。小布施の豪商、高井鴻山がパトロンとなって創作活動を支えたのです。80になって江戸と行き来をした北斎はただものではありません。90歳ころ江戸で亡くなったのですが、死ぬまで創作意欲が絶えることはなく、絵は進化し続け、あと10年か20年あれば自分の画業も大成できるのにといったそうですから、これもすごい。江戸末期の平均寿命はおそらく60歳程度だったでしょうから、80で小布施出での画業は超高齢者のなせる技なのに、作品は龍や鳳凰ほとばしる波などエネルギーに満ちています。 自分もこれから一仕事どころか二も三もやらねばならないと、エネルギーをもらいました。

それ以上に気になったのは、高井鴻山という人です。学問芸術に通じた豪商にして北斎のパトロン。写真は彼の書斎と北斎のために作ったアトリエです。  

彼の所へは幕末の志士も多く訪れたため、もしもの時のために抜け穴も用意してあったといいます。真中の縁側の隅にありました。もう一つ、屋内の押入れと見せかけたところにも二階から一階床下に通ずる抜け穴がありました。お上にたてつくことを、豪商としてはどう考えていたのでしょうか。正しいことをしていると思わなければ、とてもこんな細工はできません。武士に庶民はペコペコして頭が上がらなかったのではないようなのです。そして、どういうことなのか理解に苦しむのは、北斎に師事して後の高井鴻山は、妖怪の絵を得意と
  

したというのです。ゲゲゲの鬼太郎を思わせる左の絵は、知り合いの子どもの誕生祝いにあげたものだそうです。これをもらった側は、どうおもったのでしょうか。解説では、彼は老荘思想に通じ、全ての自然に命があると感じてそれを妖怪の形で表現したとありますが、納得できる説明ではないように思います。商売にはからきし不熱心で、学問と放蕩につぎ込み、破産してしまう高井鴻山という人物にも興味をひかれます。誰か北斎と高井鴻山とを小説にしたら面白いだろうと思います。


歴史認識とは何か

2013-08-27 10:28:16 | 歴史

ようやく落ち込みから回復しつつあります。一気に涼しくなったみたいですが、残暑はまだまだ続くようですから、ここからまた気を取り直さなくてはと思っています。

それにしても、この夏の近隣諸国との歴史認識をめぐるやりとりは、救いようがないところまできてしまったように思います。安部総理はこれまでの自民党の公式見解を翻し、本音を微妙に見せながら行動しています。しかもこの夏は、狡猾にもそれが本音であることをどうしても表に出さないで、村山談話、河野談話を継承すると嘘をつきながら、先の戦争が侵略戦争であるとはどうしても認めようとしませんでした。にもかかわらず、いつでも外交の門戸は開いているにもかかわらず、応じて来ない相手国が悪いのだといいます。この人にとっての国益とは何でしょうか。東西冷戦に便乗して戦犯処刑を免れたおじいさんを復権し、その戦前からの思いを貫徹することにあるようですから、私たちの国益とは大きな乖離があります。帝国主義による侵略は日本ばかりでなく当時の先進諸国がとった政策だから、何も日本だけが悪いわけではないし、それらの諸国からとやかくいわれる筋合いはないというなら、戦後社会のストーリーを構築したアメリカと本気になって論争する気があるのでしょうか。韓国・中国には高飛車に出るが、アメリカには平身低頭するという姿は、国際的にもほめられたものではありません。

靖国神社の遊就館を見たことがありますか。あそこの展示は、先の戦争は祖国防衛の止むに已まれぬものであり、周辺諸国を侵略しようとするどころか、救おうとするものであったとの理念に基づいたものです。あの展示をしながら、靖国は戦争で犠牲になった人々を祀るもので、お参りするのに周辺諸国からとやかく言われるのは内政干渉だとは、とてもいえるものではありません。国会議員はよほど理解力の劣った人々か、先の戦争で日本が行った行為が本当に残虐なものであることを知っているからからこそ、どうしてもそれを事実と認めたくないかのどちらかでしょう。南京で虐殺されたのが何万人かの数の違いなど論点にならず、数は違っていても軍隊が民間人を殺害したことは事実として認めざるをえないのです。殴ったほうは忘れても殴られたほうは一生どころか、何世代にもわたって忘れません。恥知らずな政治家を戴いていることが恥ずかしいです。


夏の終わりに

2013-08-24 11:19:00 | その他

秋雨前線が発生して、昨日は久しぶりの雨で今日は曇り。盆明けで夏の名残を感ずるこの時期、いつもブルーな気分になります。それは、夏休みは終わるというのに手つかずの宿題が山のように残っていて途方に暮れる、といういやな気分の連続から大人になっても抜けだせないで、この歳までなってしまったということなのです。今も覚えているのは、押し花を作るという宿題です。休み帳の宿題にそんなのがあることを、休みが明日にも終わるという日に気が付きました。いったいどうしたらいいのだ。やってませんといえばいいのに、それをいうのがいやで、なんとかならないものかと、それこそ泣きの涙でした。結局親になきついて、近所から集めてきた植物を新聞紙にはさんで板の間に置き、上から大きな重い石を乗せて、2日ほどで即席の押し花を作ってもらいました。夜中までかかってその他の宿題は終わらせ、何とか登校するという毎年の夏休み明けがトラウマとなり、今もこの時期には暗い気分になってしまうのです。では、在職中に夏休みの宿題は全廃すればよかったのですが、できるだけ家庭に返して宿題は少なくとお願いするのが関の山で、担任の先生方へのお任せでした。それどころか今は、夏期講習とかいって宿題のほかに、塾の勉強とかもやらされる子どもたちは、本当に気の毒です。

盆明けのブルーな気分の上に、落としどころがはっきりしなくて、原稿の執筆もなかなか進まないことが、落ち込む気分に拍車をかけています。ゆうべ見たNHKの、死者に会ったという番組も重いものでした。亡くなった人に思いがとどまり、どうして会いたいという心に固まってしまうことは、未来を生きる力を奪ってしまうのではないかとも思われます。しかし、精神科医が、自分たち以上に死者が生者を癒しているといっていましたので、ある時期亡くなった人を真剣に思うことが、生きるエネルギーを養うことに繋がっているのかと思います。亡くなった人が現れ、恨み言をいうのではなく自分は大丈夫だから心配しないでと告げて去ってゆくのは救われます。遠野物語にある、死んだ妻が以前につきあっていた男と海岸を歩いていくのを見た話は切ないものですが。多分、死者が「私は大丈夫」と伝えた話と同じくらい、「何で助けてくれなかったの」という話は埋もれているのかもしれません。この世とあの世とが合わせ鏡のような世界であったら、死者の想念で空間は満ちているのかもしれず、それよりは死者は仏となって全く別の世界にいく、あるいは別のものに命を与えるなどと考えた方が、生きる者の心は平安でいられるのかもしれません。


原発汚染水漏れと危機管理

2013-08-22 16:08:03 | 政治

福島第一原発からの地下水と貯蔵水との、2種類の汚染水の海への流失が連日報道されている。東電は多分早くからこのことには気づいていたか、そんな事態が生ずることは、どこかで予想していたことだろう。予想しつつも、実際問題として知らないうちに汚染水が海に流れ込んでいてくれれば、そのほうが知らなかったで済んで好都合と思っているだろう。なぜなら、大量の地下水の流入は止まることはないし、地上に保管される汚染水も留まるところを知らない。汚染水もれがなくて、汚染水の地上貯蔵が続けば、廃炉のめどがつかないように汚染水の貯蔵の終結のめどもたたず、日本中が汚染水のタンクでいっぱいになってしまうだろう。これはブラックジョークではなく、現実の問題である。東電はそれがわかっている。だからこそ、汚染水を何が何でも陸地でくいとめて海への流出を防ごうとはしない。いくらかでも海に流れてしまえば、地上での処理にお金をかけなくてすむし、ぐずぐずしていれば、国際的信用を失うことを恐れた政府が直接に介入してきて税金が投入されるだろうから、企業として保障や廃炉といった利益を生まない汚れ仕事に手をつけなくてすむ。こんなことを考えているだろうとは、素人にもわかる。ならば、東電は国有化すべきであるし、この国を挙げて廃炉に向け、そして公海を汚染させるという人類にとってとりかえしのつかない事態を一刻も早く終わらせるために、全力を傾けるべきなのだ。そうすることが、戦後処理云々などといったアナクロニズムに拘泥し独りよがりの論理を振りかざすよりも、はるかに緊急性を要することなのだ。集団的自衛権などよりも事態ははるかに先をゆき、この国は周辺諸国と人類の全てを道ずれに、海という広大な資源を全く手を付けられない地獄へとかえつつあるのだ。アメリカが太平洋の向こうでなくこちらにあったら、日本の施政権を奪って周辺諸国と共に原発の処理に自ら手をつけるだろう。ことはそこまで深刻だというのに、日本の政治家どもは、この危機に対してなんら反応していない。あたかも、国体護持を叫んで敗戦を先送りし続けたあの時と、事態の進行具合は同じではないか。

世界1安全な日本の原発を輸出するなどといった首相の現実認識のなさにあきれてしまう。原発推進派の政治家は、まずは家族をあげて福島に移住すべきである。


学問と生き方

2013-08-21 15:30:49 | その他

ゆうべ何気なくテレビをつけると、BSで島田裕巳と井上治代が出演して、墓のあり方についてインタビューに答えていた。二人とも、墓についても個別化が進み、家族や個人の考え方が多様化する中で、様々な形態が考えられてきており、それぞれが認められるべきだというような話をされた。そして最後に、これからはどうなっていくだろうか答えてくれという問いかけに対して、島田は「0」というキーワードで答え、井上は「自然」と「継承」というキーワードでこたえた。島田のいう0とは、骨の始末もなにもなくなって焼いたらそれで何もなくお終いとなっていくだろうといい、井上は人間も自然の1部としてそこに帰っていくだろうし、継承を前提とする墓はなくなっていくだろうというようなまとめを述べた。島田の、ゼロという答えにはアナウンサーもいささかムッとして、自分が亡くなったらどうしてもらいたいですかと、島田は自分自身としてはどうしてもらいたいと考えているのかと問うた。すると、腰の抜けるような答えが返された。「私には何の考えもありません。どうせ死んでしまっているのだから、子どもの思うとおりにやってもらえばいい。昔どおりに丁寧にといえばそれでもいい。自分の考えをいったところで、どうせその通りにはならないのだから」これってなんだろう。墓などいらない。葬式など資本主義の論理で、業者や寺がもうけるのにやっているものだから意味がない、と述べておきながら、自分についてはどうでも好きに葬ってもらえばそれでいいと平然と述べる。自分の学問と自分の生き方とは違います、といったある研究者の発言を聞いたことがあるが、それでいいのだろうか。確かに職業として学問をするということはある。だからといって、自分の生き方と自分の研究とは全く別のものだといえるのだろうか。そもそも該当する学問、特に人文科学へのモチベーションや問題意識は、直接的か間接的かはあるにしても、日常の自分の生き方の中から発見されるものだと思われる。島田というひとはオウム事件の時、オウムの擁護にまわった人である。時流にのらず、世間の風向きで何も考えず批判にまわった人よりましだという評価もあるだろうが、オウムの場合常識的判断のほうが勝っていたのだ。宗教学者として訳知り顔で述べた言葉は、どれだけ彼の心の言葉だったのだろうか。


盆と魂の交流と赤羽王郎

2013-08-19 17:57:35 | 教育

様々な人々に会って話して、今年の盆もあわただしく終わりました。その中でも、初任で担任したクラスの同級会と自分の小学校の同窓会が連日であったことが、印象的でしたし考えさせられることが多かったです。おまけに、同時に読んでいたのが、今井信雄『この道を往く 漂泊の教師 赤羽王郎』でしたから、尚更でした。

担任したクラスの同級会については書きましたので、同窓会について主に書きましょう。私のクラスは50名の級友がいました。50人もいたことを、改めて確認しました。そのうち半分くらいが出席しました。

「横に並んだ席になったときに、勉強を教えてもらってありがたかった」「体育館で親指のツメをはいでしまったとき、おんぶして保健室に連れて行ってくれてうれしかった」「勉強はきらいでやらなかったけど、いつも一緒に遊んでくれていい想い出が残ってる」「小学校の時から先生みたいで、先生になると思ってた」等々、気恥ずかしくなるような言葉を何人もがかけてくれました。小学校のころの自分は、運動が苦手なことに大変なコンプレックスがありました。その上、自閉症気味なところがあり、フランクに誰とも話すことができませんでした。勉強したのは、その反動のようなものでした。にもかかわらず、自分が思っている以上に周囲の友達は頼りにし、信頼していてくれたことが今回わかりました。今更何のお礼もできませんが、うれしくなりました。悲しいこともありました。小学校のころ一番仲がよかった友人が、3年ほど前に喉頭がんで亡くなってしまいました。夏休みに彼がたくさんのカブトムシをとって、私に届けてくれたことが今でも思い出されます。彼は、中央大で数学の先生をしていました。まさか、そんなに早く亡くなるとは思っていなかったので、ショックをうけました。ところが、残された奥さんがうつ病を患って、後を追ってしまったというのです。高校生の息子さんがいたというのに、何とかならなかったものでしょうか。合掌

なつかしい人に会ったり、盆に帰った仏様の供養にでかけて縁者の方と思い出話をしたりしながら読んでいたのは、『この道を往く  漂泊の教師 赤羽王郎』でした。30年も前に刊行された本ですが、積読状態で、今回の蔵書整理の中で出てきたので読み始めました。白樺派教師の代表赤羽王郎については知っていましたが、なぜ遠く鹿児島まで行って教師をしたのか不思議に思っていましたが、今回ようやくわかりました。長野県の教育界に赤羽を迎えるほどの度量がなかったし、赤羽にも安定を嫌う漂泊の心性があったのです。赤羽は短期間の講師をくりかえしながら教師業をかろうじて続けていくのですが、先々で強烈な印象を児童生徒に残したようです。また、見せかけの権威や因習や常識を嫌い、常に本物を求めて取り繕うことを知りませんでした。それでトラブルとなり、直ぐ辞表提出をくりかえしたのですが、授業は子ども中心でグループ学習や探求型の指導をしたようです。戦前のことですから驚きですし、師範学校で学んだわけでもない、王郎流の学習指導が抜きんでていました。そうした王郎の指導は、鹿児島で多くの教員に伝授されました。しかし、あれほど帰郷を願った信州では、ついに陽の当たる日が訪れることはなかったのです。

純粋だけれども世渡りの下手な王郎を心配し、終生にわたって援助を惜しまない友人が何人かいました。中でも高津作吉が気になります。時間をみつけて調べてみようと思います。


30年ぶりの同級会

2013-08-15 00:01:34 | 教育

初任で担任した人たちが、私の退職を記念して同級会を開催してくれ、本日行ってきました。行く前に、当時とったさまざまな写真をフィルムスキャナーでデジタル化してスライドショーで見れるようにしました。たまたま出てきた文集も用意しました。そして、名簿を確認したところ43名もいてびっくりしました。新卒がもつには大変な人数です。多かったとは思いましたが、改めて勘定してもみてびっくりしました。ここからは自慢のような話になりますが、お許しください。同級会の幹事は、同じクラスで結婚した二人が務めてくれました。そして、参加者は20名と約半数もになりました。先生が出るならと参加してくれた人もあったことを、酒間の話で知りました。そして、当時1年末に保護者が亡くなって隣町に引っ越して行き、転校してしまったT君も、連絡すると2次会から参加しました。T君が転校してかわりに転入したHさんは教員になりました。転入したのがこのクラスで良かったと泣きました。いかにクラスの結びつきが強かったかと思わされました。しかし、初めて担任する私は、むしろ生徒の自主性を重んじ、何でも一緒にそろえてやらなければいけないということを嫌っていました。いや、そうした信念をもっていました。今夜きた一人が、小学校では先生が怖くて学校が好きになれなかったけど、私が担任となって学校へ行けるようになったと語ってくれました。あのころ未熟なままに思っていたことが、間違ってなかったと思いました。加えて、私のクラスでは当時不良のなせる技といわれていたバンドを組んでいました。クラスで発表会などしたのですが、そればかりか新譜をレコーディングまでしていたというのです。初めて聞いた話でした。それから、自分は忘れてしまっていますが、卒業文集に苦労しないと一人前にならないと私に書かれた女生徒が、なかなか自分のやるべきことが見つからなかったが、遅くに結婚して障害のある子を授かり、先生のいっていたことがやっとわかりましたといってくれました。ただただ一生懸命生徒とともに生きようとしてきただけなのですが、彼らも50を迎えようとする今になって、そんなことを言ってもらうとうれしくなります。還暦のちゃんちゃんこを贈ってもらい、着なさいといわれて着て参加者と写真を撮りました。宝物です。


ハレとケと教員の不祥事ー山口昌男コレクションを読むー

2013-08-09 16:48:45 | 民俗学

山口昌男が亡くなってしまいましたが、彼のエッセンスを集めたような文庫が編まれました。学生時代、山口昌男が次々に発表する著書は刺激的で、いつも楽しみに読みました。中でも『文化と両義性』は、これを使って何かできるかもしれないと、ワクワクしたのを覚えています。と同時に、この博覧強記と創造力には歯が立たないと感じたのも事実です。話題が西へ東へと軽やかに跳び、跳んだところで深く掘り下げ、どうしてこんなに幅広く読書ができるのだろうと思いました。今回文庫が出版されましたので、改めて読み直している次第です。そしてまた、構造主義的思考に浸っているのです。

たとえば「文化と狂気」。人は狂気を囲い込むことで、正常を正常たらしめ日常の秩序を保っています。ですが、我等の内側に狂気はないのか。祭りの熱狂、中座の神降ろし、ユタの神がかり、いずれも向こうの世界に当事者は一旦行って、帰ってくるのです。日々の繰り返しの日常を日常たらしめるため、簡単に言えば、鬱陶しい日々を時には忘れるため、ハレ=祭りの熱狂=混沌が必要なのです。杓子定規な日常を強制されるばかりでは、個人的に狂ってしまう者が現れても不思議ではありません。一人だけで向こうの世界に勝手に行ってしまえば、犯罪か発狂かといわれます。集団であるいは社会のシステムとして規範を一時的に崩せば、それがルールになります。今の社会に、ハメをはずすことを公に認められた時間が少なすぎるのではないでしょうか。規範をいったん解体することで、文化を再構築し活力を呼び覚ます。学校という場所は、ますます規範にとらわれがんじがらめになっています。そして、ますます規範を厳しくすることで、不祥事をなくそう・不祥事がなくなると行政は考えているようです。それ、本気で思っているんでしょうか。いたちごっこで、どんどん首にしていったら現役で勤める先生はいなくなるかもしれません。つまり、厳罰化では不祥事はなくならないと思います。規範を強化されればされるほど、日常は活力をなくし狂気に走る者がでてくるのが道理です。無礼講で酒をのむことを奨励するわけではありませんが、一時的な混沌、熱狂を意図的に設定することが、構造論的に言えば不祥事をなくすための手立てだと考えますが、頭の固い行政にこんな話をしても、きっと通じないでしょうね。


井上治代著『墓と家族の変容』 岩波書店 読了

2013-08-05 15:48:30 | 民俗学

 家族形態の変化が墓の形態を変化させるとは、当たり前ながら予想できることで、予想が当然のごとく思われていたでしょう。その予想を、アンケート調査や聞き取り調査によって実証したのが本書です。その結論をいってしまえば、戦後の墓祭祀は「家的先祖祭祀から近親追憶的祭祀への移行」という過程をたどり、墓地は継承を前提とする家墓から、脱家的墓として継承が可能な墓と継承が不要の墓とに変わってきているというのです。

現実の問題として、一人っ子同士の結婚や、女姉妹と男一人だけの兄弟姉妹との組み合わせの結婚はいくつもあり、天皇家ではありませんが誰がアトトリとなるかは、悩ましいはなしです。というより、アトトリなどということにこだわっていたら、これからは結婚できないでしょう。アトトリなどということを無視して結婚した場合、まずは姓をどうするかが問題になり、次は相続をどうするかが問題になります。そして最後に、墓をどうするか、もっといえば自分が死んだ後、どこの墓地に入るかが問われます。墓を守るまでは、夫と妻双方に同等にかかわるとしても、自分が死して後はどうなるのか。「家」が崩れて夫婦が中心となる双系家族に変わったとしても、父系単系相続を前提とした墓祭祀はかわっておらず、現実との間に矛盾が生ずる、井上はそこをついたのです。それにしても、夫とは別の永代供養墓を個人で購入した女性の話した、夫という人の身勝手さ理不尽さはすざましいものがあります。同じ男ながら、そんなことってありかよ、と思ってしまいます。

「義弟、小姑二人や職人を抱え、忙しいときには娘三人の子育てだけでも大変なのに、下の子をおぶって深夜二時頃まで仕事をしたこともあった。子どもが病気を患って大変な時期でも、夫がそばにいても子どもを車には乗せてはくれなかった。」「家の商売と三人の子どもの育児・家事をこなす私の知らないところで、やっと買った土地の売買が勝手に行われていた。私を一人前の人間としてみていない。夫は四五歳のとき脳溢血で倒れた。一命を取り止めたが後遺症が残った。それでも夫は仕事を続けた。しかし、家に生活費を入れなくなったので、しかたなく私は外で働いた。パンの耳を齧っておなかの足しにしたこともあった。倒れて十年が経った年、夫は五十六歳で死亡した。遊びと取引先にだまされてつくった借金が一千数百万円残った」

葬式と墓が今後どうなっていくのかが、今の自分に与えられた課題です。葬儀が近親追憶的祭祀に変わっているのは実感としてわかります。死者が安心して三途の川を渡って成仏できるように、といった要素は今の葬儀からは感じられませんし、お坊さんもそうした話はあまりしません。そのかわりに、孫などが亡くなった人の思い出を語る場面が多くなりました。死者ではなく、残された遺族のために葬式はあると一般に認められてきていると思います。これは、葬儀のプログラムの調整でどうでもなることです。問題は墓地です。これから墓地はどうなるのでしょう。そして、継承されることを前提に墓地を営み葬儀にかかわる寺方は、あまりにも変化する現実に無頓着です。


浜田省吾

2013-08-02 23:24:42 | その他

BSで浜田省吾のコンサートツアーの映像を見ました。浜省が年をとらないこと、いつの時代に聞いても同じ歌詞が色あせないことに胸が熱くなりました。本来ロックは反社会的なものであるべきですが、社会問題とエンターテイメントをうまく組み合わせて見せてくれることに、感心しました。J boyとfather's son のアルバムは何度もそして今も聞き続けているアルバムですが、今の社会状況にまたマッチしてきました。浜省は子どもがいないと明言していますが、だからこそ子どもたちに語りたいことがたくさんあるのだと、改めて感じました。本当にこの国の人たちは、何を学び、何を子どもたちに語ってきたのでしょうか。焼け跡からは遠く離れてしまいました。

関係ないことですが、バックバンドのリードギターの人が、何だか面白くなさそうにしていたのが気になりました。ギターのソロをもっとやらせてやればよかったのに。