民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

中尾歌舞伎ほか

2013-04-30 11:17:33 | 民俗学

伊那市高遠の建福寺で守屋貞治作の石仏を見てから、伊那市長谷中尾(旧長谷村中尾)でおこなわれた中尾歌舞伎を見てきました。むろん、歌舞伎のついでに以前も見てあった石仏を再度見学してきたのでした。

高遠石工の名を世間に知らしめた幕末の名工、守屋貞治ですが、何度みてもすばらしい作品です。石工というには職人に域をはるかに超えて、作品には高い精神性が感じられます。石が柔らかくみえるから不思議です。また、多くの作品の一覧表を自分で書き残してあるというのも、すごいことです。いずれも願をかける依頼主がいて作品となったものですが、幕末の庶民の教養の高さ、静謐な思いのようなものがうかがえます。建福寺には多くの作品が残されているので、是非見にいかれるといいです。

次に中尾歌舞伎です。中尾は山に囲まれた小さな集落でした。ここで、いったん途絶えた農村歌舞伎が20年ばかり前に復活し、今に至っています。今回の演目は御所桜堀川夜討 弁慶上使の段 舞台の中尾座には満員の観客です。私は歌舞伎を見るのは3度目(歌舞伎座・大鹿・今回)という素人なのですが、ここの観客の皆さんは声のかけどころをよくご存じで、ここぞという場所で拍手が起きたり、ハナ(おひねり)が舞台に向かってバラバラととびました。役者も熱演で、とても素人の芸とは思えません。わずか50戸の集落だといいますが、大したものだと感心しました。東北の被災地では、祭り(芸能)からまずは復興しているといいますが、地域の人々の思いが一つになっているのが地域で伝承する芸能だかなのでしょう。住んでいる皆さんには大変なこともたくさんあるのでしょうが、いつまでも伝承されてほしいと思って帰ってきました。


寺と葬式

2013-04-27 19:48:45 | 民俗学

 

相変わらず葬儀の変化にこだわりをもって、追いかけています。というのも、葬式は非常に保守的な儀礼で、なかなか変化しにくいものだとおわれています。逆にいえば、葬式が変化するということは、さまざまな儀礼が変化した後だといってもよいのです。さらに、葬式には家族や親族や近隣との関係性が如実に現れます。葬式の変化を追うことで、そうした個人をめぐる関係のありかたの変化を調べることにもなるのです。

昨日、参加者を募って模擬葬儀をおこない、葬儀のありかたについて学習会を企画した方のお寺へ聞き取りに行きました。というのは、私はお寺の葬儀に対するありかたに納得できないものを感じています。いったん檀家となれば寺を選択できないこと、戒名にランクと値段があること、住職の法話なるものの胡散臭いこと などあげればきりがありません。一方、イオンの明細を示した葬儀や、樹木葬や永代供養などの広がり、家族葬や直葬などの普及をみると檀家制度も風前の灯というのに、危機感を感じられないお寺の住職。こんなことを考えていて読んだ、高橋卓志さんの『寺よ、変われ』(岩波新書)。たまたま葬儀の聞き取りに行った方が、神宮寺の檀家で、いいお葬式をしてもらったと満足されていたので、読んだものですが、納得する部分が多かったです。そして、最近の葬儀のありかたとか、神宮寺の葬儀のやり方などについて、同じ僧籍にある方はどんな風に受け止められているのか気になっており、聞いてみました。すると、……  やはり同じようなことを感じられているようでした。自分のところのように小さな寺は何を言っても影響力がない。逆に大きな寺の住職は、今の仏教のありかたに疑問など抱いていない。本来宗教者として、檀家の方の日常の大変なこと(苦しみ)に寄り添わなければいけないのに、葬式の時だけかかわって、ルーチンワークとして葬儀を執り行っている。業者でやるより寺で葬式をとか呼びかけているが、業者がやることと寺とがなんら変わるところがない。極端に言えば、一般の人々の意識がかわって寺を必要としなくなり、つぶれる寺がでたほうが仏教界がかわってよいと思う。檀家制度で個人に寺を選択することを認めないので、本当に救いを求めている人に仏教が応えていない、一般の人が寺を選ぶようになれば寺も変わらざるをえなくなるのではないか、等の話をいただきました。ただし、ここだけの話にしてほしいとのことで、どなたに聞いたかは明らかにできません。今回の聞き取りで、こんなふうに考える僧籍の方がいることがうれしくなったし、そうした仏教の未来を憂えた話は、おおっぴらにはお坊さん仲間では話せないこともわかりました。そうしてみますと。自分の考えを出版までしてしまった、高橋卓志さんはいよいよすごい方だと思いました。


東アジアで孤立するこの国

2013-04-26 09:36:10 | 政治

 岩田慶治著作集をくってみてはありましが、自然と共生する人間について書かれているとイメージする部分がみつからず、あきらめていました。ところが、コメントで指摘していただき、このあたりだとわかりました。『草木中魚の人類学』(著作集第2巻『草木中魚のたましい』)の中の、「木も語りかけ、小川もささやく。調査者の見る川のさざ波が、同時に、調査者を見つめている。」との記述でした。ついでにいえば、学生のころは、この部分にもひかれましたが、多分その先の記述にもっと感動していた気がするのです。「文化というものは、こういうわけで操作的にその姿をあらわすものである。調査者である私ーいわば日本文化を代表するものとしての私ーの全体にたいする調査されるものとしての他者ー異なる文化ーの全体である」という部分に、民俗学は全体としての人間を明らかにするものでなければならないと考えつつあった自分の根拠を得たような思いがしたものでした。

 さて最近のこの国の対外関係が、東アジアで孤立化を深めているように思います。安倍首相は靖国神社に参拝するかどうかは個人の宗教的信条の問題であり、他国からとやかくいわれる筋合いのものではないといってるみたいです。(この対応に国際連盟を脱退した松岡洋介の外交が重なって見えてしまいます。その場は威勢よく国民にアピールしたが後の責任はとらない)首相は2重の間違いをしています。まず、靖国神社が本当に宗教施設なのでしょうか。国家が戦争で死んだ軍人を祀る(恨みをのんで死んだ人はたたるから、戦死者は慰撫する必要がありました)ために作った施設を神社としたもので、民衆の中にあった宗教ではありません。靖国の神は死者であり、しかも軍人に限られているのです。これを宗教施設だと外国に説明しようとしても、理解してはもらえないでしょう。100歩譲って靖国神社が宗教施設だとしたら、公人として1宗教施設に参ることは信教の自由を掲げる憲法に違反しています。しかも、多くの国会議員が参拝し、それが許される社会というのも、他国には説明できないものです。北朝鮮の行動の先が読めないとか、中国に国際感覚がないとかいいますが、同じことはこの国でも行われているということです。他国が遅れているとか訳がわからないとかいう前に、自らの姿をただす必要があると思います。

 若いころの私は、戦争にいった父親を代表する世代に対して、あのころは皆そうだったとか、反対なんてできなかった、仕方なかったなどの言を聞くにつけ、戦争をしたことに対する反省がないことに腹をたてていました。若い者が親の世代に反発するのは当然のことでしょう。ところが、安倍首相はお祖父さんの岸信介を尊敬し岸の理念の実現を図るのが使命だと考えているらしい。気持ちの悪い話ですが、サラブレッドとはそういうものなのでしょうか。だとすれば、妖怪岸の行動について、私たちはもっと切実感を持って知らなければなりません。岸について詳しく勉強してない今でもいえることは、満州経営に携わった岸は、戦犯訴追を免れ、もちろん戦前の行為への反省などみじんもないままに、戦後の政界に復帰し戦前の理念の実現を図ったということです。そうすると、満州から現在日本まで政治は一直線に繋がってしまいます。侵略戦争をおこなったなどという意識は岸にはなかったでしょうし、お孫さんの安倍首相にもないでしょう。そういうところを近隣諸国につかれても、当然だと思います。


高木仁三郎のこと 2

2013-04-24 09:57:20 | 民俗学

 高木仁三郎は反原発の科学評論家だと思っていました。ところが、前回書いたようにテレビと見ることで、第一線の放射線科学者である(あった)ことを知りました。三里塚へ行ったことで象牙の塔の大学の中に籠っていていいのか、自分の科学が市民の求めるものなのか疑問をもって、大学を去ったというのです。60年安保、70年安保を契機に大学を去って社会運動家となった何人かの研究者の一人でした。前から関心を持っている花崎皋平もその一人ですが、最近は大学にいれば平穏無事だったのに、自分はあえてそこを飛び出したのだと、そのことを自分の論の根拠に使うのは醜いと批判されているようですが、自慢してるかどうかは知りませんが、あえて茨の道(といえるかどうか)を選んだことは、素直にすごいと思います。高木は科学と市民とをつないだ功績により、国際的な賞も受賞したとのこと。あまり報道されていないので知りませんでした。マスコミの報道にも問題があります。
 もともとアカデミズムに席のなかった民俗学は、初めっから市民の学でした。それを野の学というのかはわかりませんが、素人の学問というなら皆民俗学に携わる人は素人だったわけです。今この民俗学の低迷の状況の中で、大学に籍のある研究者は、方法論の厳密化とグローバルスタンダード化を図ることで、居心地の悪いアカデミズムの中で居場所を見つけようとしています。好事家のたわごとといわれかねない学問だと、肩身の狭い思いをしている研究者の主張もわからんわけではありませんが、それで痩せ細ったこの学問に活力を与えることができるのでしょうか。民俗学の研究者から、野の人々を排除していったら強靭な民俗学が形成されるのでしょうか。私はむしろ逆ではないかと思います。この学問のすそ野を広げるにはどうしたらよいか、そのことを考えるべきではないかと思うのです。それこそ、市民のための学問、己とは何かを明らかにする開かれた学問として民俗学はあらねばならないし、他の学問が市民のためにと意識して開いていかなければならないとすれば、民俗学は即自的に開かれていることを自覚し、そのことを強みにすべきだと思います。

なぜかポイント字間などの設定が途中でかわり、読みにくいです。このまま書いてもよくないですので、本日は終了。


東浩紀と梅原猛と高木仁三郎 1

2013-04-20 20:28:45 | その他

 何という表題の取り合わせだろう。でも、多分わかる人はわかる。昨日から今日にかけてとりためた録画を見る。東浩紀が梅原猛に会いに行くというのを見る。正直東は、『思想地図』で読んだくらいしか知らない。表層文化論をやる哲学者だろうか。録画で見ると、高校生から社会人まで集めて勉強会をしている。うん、こいつはいい。学問は野から始まるのだ。いや、野にこそ学問はあるのだ。その講座の何人かを引き連れ、東が梅原先生に3.11後の人の生き方について教えを乞いに行くというもの。3.11を庶民はどう捉えているのだろうか。自分はどう生き方に反映させなければならないのだろうか。昨年こうした問題意識のもとに講演会を催したが、主催した側の意図を感じてくれた参加者は一握りもいたかどうか。人のことはともかく、自分はどう内在化できるのか。集中的に3.11関連の書物を読んできたが、答えはいまだみつからない。そうこうしているうちに、この国の人々は、あの負け戦の後でそうしたようにきれいに水に流して、まるで悲惨な現実がなかったがごとき顔をして、原発稼働を含めて、かわらない日常を続けようとしている。かくいう自分だって、何ができているのかと問われれば、うつむくしかないのであるが、少なくとも考え続けようとしている。
 梅原先生は、西洋哲学が限界にきたことを理解し、日本人固有の哲学に帰らなければならない、それは仏教の「草木国土悉皆成仏」という言葉に表現されているように、生きとし生けるものに命があるとした、縄文以来の思想であるというのでる。梅原先生、それはまずいですよ、それは同じ京大にいた岩田慶治先生が、ずっと前から言ってることですから、名前くらいだしておかないと、盗作になりますよ。ということで、学生時代に山口昌男とともに傾倒した岩田慶治先生を思い、確かタイの調査で、川のせせらぎ、鳥の鳴き声、木漏れ日などの1つ1つに神を感ずる人々の記述を探そうと、著作集を繰ってみるも探し出せず残念。ともかく、自然と人間とが共存するという思想は、なにもこの国に限ったものではありません。自然との共存で思うのですが、3.11以後唱歌「故郷」を歌うと以前にもまして、心にしみてしまう1節があります。「山は青きふるさと 水は清きふるさと」の部分です。原発周辺の福島の山はいくら青くとも触れることはできませんし、いくら清くとも水を飲むことはできません。故郷を追われた皆さんがこの歌を歌う時を思うと、胸がつまります。
 完全に操作できるものとしての自然という考え方を変えなければならないのは事実ですし、梅原先生はそれをいいたかったのだと思います。東もそのことは十分わかり、そうした思想はアニメのキャラクターを人格あるものとしてとらえる若者の心に生きていると述べていました。こいつは民俗学です。いい勉強をしていると思いましたが、東について京都へ行ったのが皆男だったし、東の講座に集まっていたのも映像で見る限り男ばかりでした。こいつはどういうことだ。現代思想を語るのは男だけで、女はそんなウザったいことはしないというのだろうか。どうしてなのか、誰かに聞いてみたい。

 続いて見ていたら、次に核物理学者の高木仁三郎さんの生き方をたどる番組となった。こいつも重くて、思うところ大でしたが、話があちこちになってしまうので、次回に書きます。


善光寺道を歩く 1

2013-04-19 15:33:27 | 民俗学

 善光寺道を踏破したいとかねてから思っていましたが、いよいよ始めました。善光寺道(北国西街道)は、塩尻市洗馬で中山道から分かれます。今回は手始めとして、洗馬から広丘まで歩きました。
 洗馬の分かれ道は何度も車で通っていたのですが、今回初めて歩いて見学し、自分が今まで分岐点と思っていた場所は、新道ができてから移動した追分であることがわかりました。では本当の追分はといえば、善光寺道に入って50メートルばかりの場所に、常夜灯がある場所でした。

           

  この常夜灯は大変優美なものです。近くの家の方の話によれば、この宿場のK家という山持ちの裕福な家で、子供が病気になったか死んでしまったかして、その子のために造ったものだといいます。安政四年と彫られています。石を刻んでほぞを作り、組み合わせてありました。同じよう常夜灯を、会田宿のはずれでも見たので、追って紹介することになりましょう。このことから、常夜灯というものは強い祈願の念をもって献上されたものであることがわかります。今そうした石造物を見ても、なかなか献上した人の思いは伝わらないのですが(といっても、裕福な者のしたことだといわれるかもしれませんが、お金さえあれば誰もがやろうと思っていた。つまり価値観を共有していたものと思います。だから、その後現在に至るまで、本棟造りの家が作られている)、過去に作られた物を見るときは、当時の価値観を見る側も共有しないと、その価値には迫れないと思います。
 途中の郷原宿は、何度もきていたのですが、美しい街並みです。古い家としては、本棟造りの家が何軒かあるのですが、

これは一部の上層の家に限られるはずですから、一般の家の造りが気になるところでした。

 


川島芳子

2013-04-17 10:55:38 | その他

 花見に出かける途中の墓地に、岡正雄の墓があるような話を以前にきいていたので、探してみようと思いたちました。岡正雄は松本市に生まれ、成城の柳田邸で住み込みの書生をし、柳田との間が気まずくなってウィーンに留学し、日本の民族学の草分けとなった人です。日本文化の古層について刺激的な説を唱えた学者ですが、戦時中は満州で怪しい動きをしたりしています。探してはみたものの、墓域がかなり広く、端から全部確認したらすごく時間がかかりそうでした。それで、あきらめようかと思ったら別の墓をみつけてしまいました。男装の麗人とかいわれた川島芳子の墓です。

   

 満州つながりなのですが、岡正雄と川島芳子に接点があったとはだれも書いてないから、ないでしょうね。でも、岡正雄は満州で軍部と結びつき、はっきりしない動きがあるのです。もっとも、国内では自由に研究できない民俗学者・民族学者が、多数満州へ行ってますから、怪しい動きと言ったら皆そうかもしれませんが。


蒲郡に行ってきました

2013-04-12 17:26:57 | 民俗学

   

蒲郡に春の海を見に行ってきました。漁村の姿も見たかったのです。寒かったのですが、春の三河湾は穏やかでキラキラと光っていました。そして沖合に見える渥美半島の先端は、柳田国男が「海上の道」の着想を流れ着いたヤシの実から得た、伊良子岬です。近くの漁村を歩いてみると、多くの家が玄関にしめ縄を飾ってあり、ああここも伊勢の神域なんだと感じました。博物館にも行きましたが、畑作・養蚕・綿作関連の展示はありましたが、漁具はなく海が近いといっても、漁業は一部の人だけで行われていたものかと思わされました。ガン封じ寺というのがありましたので行ってみると、1枚500円の絵馬が大量に掛けられていました。少し読んでみると、転移しませんようにとか、手術が成功しますようにとか、切実な願いが書かれていました。この寺は、上手に現代の人々の祈願をすくいあげたものです。

 

 

 


中沢新一 『古代から来た未来人 折口信夫』 ちくまプリマー新書

2013-04-08 18:02:18 | 民俗学

 職場の自分の部屋に、折口の書を飾り、根方に古代研究を並べて置き、時々開いて拾い読みなどして、いつか理解したいものだとため息をつく。いつか使ってやろうと思いつつも、どうにも文脈が理解できない、どうしてそんなこといきなりいえるの折口先生となって、また飾りと化す。そんなことを繰り返していました。今日たまたま息子の本棚を見ると、中沢新一の書いた折口が目につき、さっそく読みました。折口が古代人だということがよくわかりました。しかし、折口がなぜ現実世界から疎外され、いや疎外感を持ち、古代に耽溺していったかが書かれていません。つまり、誰もが知る折口の性癖について。今やゲイ能人にもたくさんいるのですから、個性としてとりあげないのが不思議です。誰かが書いてましたが、どうせオカマがいってることだからと軽く受け流されるから、きついことでも遠慮なくいえると。だからテレビでもコメンテーターとして重宝がられているし、危険で周縁的で日常を超えていて等、という現代に在って存在そのものが芸能の本義を体現している貴重な人々だと思います。折口の屈折したメンタリティーが、古代人の感覚をそのまま感じてしまうという特異な才能を作りだしたと思うのです。そんな折口に比べてみれば、失礼ながら柳田は凡庸だと感じてしまいます。結論いえば、この本読んでも折口を使えるようにはなりません。


川井訓導事件から二・四事件によせて

2013-04-05 18:06:11 | Weblog

  1924(大正13)年、川井訓導事件が起こります。これは、大正デモクラシーの中で自由な教育を推進する長野県下教育会を快く思わない行政当局が、県外から視学をよんできて県下の授業を参観し、国定教科書を使用せず副教材で修身の授業をおこなった川井訓導を、みせしめとして処分したものでした。行政の教育への介入に対して信濃教育会は反対の雑誌『信濃教育』で反対の論陣を張り、岩波茂雄ら著名人の原稿をのせました。これに抗議して、辞職した校長もいました。まさに信州教育の面目をほどこしたものといえます。このころから、昭和10年ころまで、柳田国男は足しげく長野県に通ってきます。長野県の教員が求めるものが大きかったのです。それから約10年後の1933(昭和8)年、二・四事件がおこりました。当時は世界恐慌のあおりで、長野県は養蚕不況に陥り、弁当を持参できない欠食児童がたくさんいました。家庭の厳しい状況を見て、共産主義に賛同する教員が現れました。これを密かに内偵していた県当局は、共産党に属する教員ばかりなく、自由な教育を志す教員も行政に従わない不逞の輩として、多数検挙したものでした。戦争へ向かうためには、文部省の通達に素直に従わない信州教育をまず叩いておこうという意図だったと思います。長野県史では、次のように記述しています。「石垣倉治知事が事件の原因の一つとして、県下には教育の自由独立の伝統があり、校長が部下の統率・監督に「不干渉主義」をとっていることをあげたのをはじめ、論議でも「教権独立」への非難があいついだ。愛国勤労党南信支部の中原謹司議員は、信濃教育会が「従来ノ自由主義的ナ考ヘカラ蟬脱」し、県の人事に干与することを猛省すべきだと主張した」

 川井訓導事件を契機とする行政の干渉ははねつけた信濃教育会でありましたが、二・四事件以後は自由主義的教育の旗をおろして行政へとすりより、むしろそのお先棒をかついで、率先して満蒙開拓義勇軍を送出していくのです。信州教育といって誇れるのは、1933年以前だといってもよいでしょう。そして、あれほど信州に通ってきた柳田がピタッと足を運ばなくなるのは、教育界の変節をきらったからだともいいます。多数の検挙者をだして、文部省・県当局に従わざるをえない地点に追い込まれたともいえます。

 戦前のひどく昔の話のようですが、治安維持法違反をコンプライアンス違反と読み替えたら、最近の話とつながるのではないでしょうか。