民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

新しい物語の形

2016-02-10 20:28:37 | 文学

 かつての吟遊詩人の物語の定番は、未熟な若者が様々な苦難を経て一人前の大人、あるいは王へと成長するという物語でした。若くて未熟というのがポイントで、聞き手をハラハラドキドキさせるのです。アーサー王物語、日本では甲賀三郎伝説などがありますね。

ところが、最近のテレビドラマや小説には、年寄りを主人公として冒険をさせるという物語がでてきました。朝日新聞に連載されている、沢木耕太郎の「春に散る」という新聞小説があります。沢木耕太郎の作品は、やはり新聞小説の「一瞬の夏」を読んだだけでした。あれは、晩年の ボクサーが最後の復活を願って努力する物語でした。今度は、老ボクサー仲間が主人公の物語です。テレビでは三屋清左衛門残日録を北大路欣也が演じています。爺さんにしてはカッコよすぎるのですが、年寄りが主人公で若者にごして活躍する物語がいくつもでてきました。

物語の受け手に老人が多くなりましたから、主人公も老人にしたほうが共感を得られるのでしょう。当然です。しかし、老人を主人公にしたら結末をどうするのでしょうか。成長物語とはいきません。かといって、この物語の主人公たちは年をとってさとっているわけでも、翁さびているわけでもありません。これらの主人公、これからでてくる老人の主人公たちがどのような結末を迎えるのか。小説家の想像力が楽しみです。


牧水とは何者か

2015-03-29 20:34:58 | 文学

新年度の企画展を牧水でという声があり、昨年からしきりに牧水関係の本を読んでいます。牧水とは、もちろん若山牧水です。その牧水といえば酒。酒にまつわる短歌は数多く、中でも かんがへて 飲みはじめたる 一合の 二合の酒の 夏の夕暮れ はうなづく所が多い身につまされるような歌で自分の好きなものです。旅をし旅館に泊まり、うまいものを食べ、友と語る。牧水の紀行文を読むと、いつまでも学生をしているような、それも贅沢な学生のような気分が伝わってきます。ところが、家に残された喜志子の歌には恨みや焦り、やるせなさにあふれていて、可哀そうになってしまいます。まるで母親のように喜志子を求めた牧水は、身勝手で生活力のないどうしようもない男に思えてきます。むろん、歌を詠んでいた喜志子にも名の知れた歌人牧水と結婚することで、同世代から抜きんでたいというある種の打算もあったことでしょう。それにしても、どうしようもない貧乏生活で少し金が入ると売れもしない雑誌を創刊しては借財を作る。しかも、どうやら借財を返さないままに引っ越しを繰り返す。近くにこんなやつがいたら、友達にはなりたくないと思います。当時の作家の多くがそうであったように、客観的にみればどうしようもない暮らしをしていたようです。それでも、今に残る歌を多く残し国民歌人と呼ばれるようになったから良しとするのか。どうも牧水展というよりも、その実、喜志子展になりそうな予感がします。喜志子は塩尻市広丘出身の女流ーこうつけるのもおかしいですがー歌人です。太田水穂にすすめられ、失恋にのたうちまわっていた牧水が求婚したのです。救われたい、甘えたい思いの一心で。


近世から近代へ

2014-08-19 14:42:58 | 文学

 江戸時代から明治時代に変わった時、人々は1日で人格変容を遂げたのではなく、生活は不揃いにしかも徐々に変化したのであって、年表に表現するように一斉に変わったのではない。これは、民俗の立場から歴史屋さんたちに何度も言ってきたことです。例えば、昨日まで着物を着ていた人々が今日からは一斉に洋服を着ることがないように、である。そう頭ではわかっていても、まだまだ想像力が足りなかったのではないかと、空穂さんの随筆などを読みながら考えてしまいました。明治10年の生まれの人の大人は全て江戸時代の生まれで、江戸時代の教育を受けています、年寄りなどなおさらです。また、中には丁髷を切らない人もいたようです。筆記用具は、筆が一般的ですし、手紙は候文で書かれていました。この、書き言葉が話し言葉とは別にあったことにひっかかるのです。手紙や公的な文章は候文で筆で書かれていました。空穂の手紙はすらすらとは読めません。戦前までは普通に候文が使われていたそうですが、いったい人々はどうやって勉強したのでしょう。今となっては、墨で崩して書いてある文字は外国語のようなものです。80年ほど前まで何百年も使われてきた文字が、今の私たちには読めないという事の重大さに今頃愕然としているのです。江戸時代の文書が読めないどころか明治時代の文書も大正時代の文書も、訓練を受けないことには読めないものがあるのです。こんなことが外国にあるのでしょうか。シェークスピアの書いた文章は、現在のイギリス人でも読めるのでしょうか。古文書を自分が読めない腹立たしさもありますが、使っている文章が違うことの意味を、もっと考えてみる必要があるように思うのです。そこに、明治の文学者の革新的ところと、表現の悩みもあったのではないかと思います。というのは、現在にあっても世の中で歌人といわれる職業歌人の中でも、口語短歌への評価が分かれているようなのです。簡単に言えば、「あんなものはすぐ忘れられる」という評価と、「今を生きる人々の情をすくいあげている」という評価と2つに分かれるということです。


窪田空穂(うつぼ)とは誰か1

2014-08-18 09:14:02 | 文学

 ようやく少し落ち着いて身辺のことを考えたり、自分の立ち位置を客観的にながめられるようになってきました。今までは敷かれたレールの上をわけもわからず、脱線しないように走ることに追われていました。

 そこで、まずは今所属する施設は窪田空穂記念館ですから、空穂というのはどういう人なのか紹介し、その中でこの半年近くの間に考えたことを綴ってみたいと思います。

 窪田空穂(くぼたうつぼ)は明治10年に松本市郊外の和田村に生まれました。本名は通治といいました。そんなに広く知られているわけではありませんが、多分次の短歌は中学校の国語の教科書に載っています。 鉦ならし信濃の国を行きゆかば ありしながらの母見るらむか  空穂の母は、空穂が20歳の時に59歳で亡くなってしまいます。この歌は亡くなって4年後に発表されています。空穂は母が39歳、父が41歳の時の子どもでしたから、かなりかわいがられわがままに育ったようです。その分、母が亡くなった時にはかなりショックを受けました。逆にいえば、若くして母が亡くなったからこそ鮮烈な印象を残し、こんな短歌ができたともいえるでしょう。空穂は歌人でありますが、早稲田大学国文科の教員として古典文学を研究した学者でもありました。坪内逍遥に認められて早稲田に設けられた国文科に専任講師として招かれました。43歳のことです。それまでは新聞記者をしたり女子美の教員をしたりしています。早稲田に招かれる以前の仕事としては、読売新聞の身の上相談欄の執筆が有名です。

 空穂は昭和42年90歳で亡くなりますが、発表されているだけで14000首以上の歌を亡くなる直前まで読み続けます。亡くなったのが4月12日。次の歌は4月7日のものです。                             四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し

 遠のきつつまた戻る意識を自分が見つめていることがわかります。こう見ると、死ぬことも怖いことではないと感じさせられます。