民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

江戸から明治へ

2013-09-30 15:02:26 | 民俗学

エドワード・S・モースの『日本 その日その日』を読んでいます。しかも、初めて有料で購入した電子書籍として。読むほどに、モースの人柄の良さと、江戸時代人の人間的すばらしさに心をうたれます。

田舎の旅には楽しみが多いが、その1つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の綺麗に掃かれた歩道、家内にある物がすべてこざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶呑茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これ等の美しい品物はすべて、あたり前の百姓家にあるのである。
この国の人々の芸術的性情は、いろいろな方法-極めて些細なことにでも-で示されている。子供が誤って障子に穴をあけたとすると、鹿喰紙片をはりつけずに、桜の花の形に切った紙をはる。この、綺麗な、障子のつくろい方を見た時、私は我が国ではこわれた窓硝子を古い帽子や何かをつめ込んだ袋でつくろうのであることを思い出した。

モースは当時の日本の人々の情緒ある暮らし方、外国人への差別のない接し方、子育ての細やかさ、治安の良さなどをイギリスと比べて褒めちぎってくれます。それはもう、なにもそこまでと思われるほどで、恥ずかしくなります。また、当時の人々が男も女も、人前で肌を平気で露出していたことがわかります。 混浴も当然で、上半身肌脱ぎになっても、平気であいさつができる。そうすると、恥ずかしいと感ずるこちらがをの受け止め方のほうが恥ずかしくなるようなのです。人前で裸になるなとか、混浴を禁止した明治政府のお達しがどこまで効力を発揮したのか、いつのまにか現代の私たちのような羞恥心ができあがったわけです。羞恥心の歴史というのも、研究してみると面白いと思います。で、丁髷の形なども細かく図解してあります。モースが日本にいたころは、丁髷など庶民は普通に結っていたもののようです。それで思うのですが、柳田が育ち学問を形成するころには、江戸生まれの人々が身の回りにたくさんいたはずです。自分が聞き書きを始めたころの話者は、明治時代の後半の生まれの人がまだ存命でした。今から思えば、その人たちに江戸時代の生まれの年寄りのことを、ちゃんと聞いておけばよかったと思います。先日、小諸の懐古園に行き藤村館で見た藤村の家族写真に、丁髷をしたおじいさんが写っていました。江戸時代と明治時代がごちゃまぜにくらしていた頃に思いがいきます。モースを読んでしまったらと思い、『逝きし世の面影』を買ってあります。こちらは、紙の本で求めました。『日本 その日その日』を電子書籍で読むところに、自分自身に時代の移ろいを感じます。


今考え書くべきこと

2013-09-23 22:21:11 | その他

退職して、どんな生活してるんですか。やることなくて困りませんか。まあ、現職の皆さんからかけられる言葉、あるいは表情はそういってます。誰が困るんですか。皆さん、自分で働いてるんじゃないんですか。それとも、いわれることだけやってるんですか。言われなければ、何もできないんですか。おかげさまで、読みたい本読まなければいけない本は増えるばかりですし、考えなければならないこと書かなければならないことも山ほどあります。たとえ、それが無駄でありどうにもならなことであるにしても、自分が自分であり続けるためには必要なことです。秘密保護法・消費税増税・半沢直樹の最終回・彼岸花。今思いつくのは、こんなこと。それぞれ何かいいたい。でも、いうには準備が必要です。やみくもにいえるのは、とりあえず半沢直樹。視聴者の予測を裏切ることで視聴率をあげてきたから、ああいう結末はありかと予測はしたものの、実際そうなると、原作どおりかもしれないけど、それはないでしょうと思いませんか。続編を意識した終わり方かもしれませんが。ますますフラストレーションがたまってしまいます。中国でも人気ドラマらしいですが、中国でのフラストレーションのたまりかたは、半端ではないと思います。でも、だからといって朝日新聞で唐突に、中国では公開処刑で銃殺をしているという報道は、意味がわかりません。受け狙いとしか、自分には思えませんが。


白井聡『永続敗戦論 戦後日本の核心』を読む

2013-09-22 14:59:01 | 歴史

最近気になっていた本である。2013年3月の刊行し、8月には5刷となっている。それだけ話題性があるということだろう。
この国では、敗戦記念日を終戦記念日と呼ぶこと。自主憲法制定を叫ぶ人が、日米同盟の堅持を口にする。かねがね、いったいなんだこりゃと思ってきました。そうした疑問に、すっきりとはいきませんが、答えを用意してくれたのがこの本でした。

 「敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、「永続敗戦」と呼ぶ。」
 「国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認すらがゆえに敗北が無期限に続くーそれが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。」

永続敗戦という概念で、ねじくれたこの国の政治状況を切ってみせてくれます。そして、今や永続敗戦にしがみつくような政治の枠組みは維持不能になっているにもかかわらず、つまり、冷戦終結後、アメリカが日本を無条件的同盟者とはみなさなくなっているにもかかわらず、一方的にしがみつき、既にこの国はアメリカにとっての収奪の対象と化していることに気づかない時代遅れの政治家が支配するこの国、その支配を許している国民と私。新聞に投書したりしてみても、この国では歴史に学んだためしがないのだから、無駄なことだと友人にいわれたりもして、落ち込んでいく気分を、あとがきで引用された次の言葉が、なんとか押しとどめてくれました。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(ガンジー)


15夜の盗み

2013-09-20 10:42:33 | Weblog

昨夜は15夜でした。晴れて静かな夜に、大きな月がかかって、お月見らしい晩でした。お月見に関連して、昨日一昨日とラジオではお月見泥棒の話題で盛り上がっていました。月に備えた団子や餅などは、子どもたちがよその家に行って勝手にもらってきてもいいという習俗が各地にあり、それをラジオはお月見泥棒といっていました。長野県ではこの習俗は今は失われてしまいましたが、かつては次のようでした。お盆にオカザリモチと葉つきの大根を並べて廊下などに供える。お膳に煮物やゆで豆を載せて供える。明治時代には若い衆が、あぜ豆を盗んで歩いた。15夜はスゲボーズといった。スゲで束ねられる豆や大根などをとってもいい日とされ、人の畑のものをとって歩いて、腹いっぱい食べて楽しんだ。15夜以外にも、盗みが許される日がありました。11月末の、タイシコーもそうです。つぶさにあたってみれば、もう少しあるかもしれませんが、1年間のある日を限って盗みを許したとは、どういうことでしょうか。神様にお供えした物を、子どもが代わって食べてくれるように盗みを許したなどと、解説本には書いてありますが、本当でしょうか。神様にお供えをする日は他にもたくさんありますが、その日の全てで盗みが許されているわけではありません。許す時と許さない時があるのはなぜでしょうか。今は答えがみつかりません。物の所有権がいつから生まれたのか。そもそも、物を所有するとはどういうことか。持ち主と物との関係はどうなっているのか。一時的に所有権が放棄される、あるいはあいまいになってしまう機会があったのか。など、歴史を遡って考えてみなければならない、根源的な問題にゆきつきます。そして、今問題となる、万引きにもかえってきます。時を限って盗みを許すことの教育的効果、もしくは心理的効果とは何か、いや、マイナス効果しかないからこんな習俗はなくしたほうがよかったとは、単純にはいえないと思うのですが、いかがなものでしょうか。


やられたらやりかえす、じゃなくて、もらったら必ず返す

2013-09-19 17:35:24 | 民俗学

このところ葬式の変化についてずっと考えています。ところが現実の方が激しく変化し、マスコミなどでは取り上げられない週はないくらいになってしまいました。こんなに話題になってしまいますと、研究として何を突いていけばいいのか、かえって迷います。最近考えているのは、義理に対する考え方、まあ義理そのものといってもいいんですが、それが変化してしまった、あるいは葬式が変化した結果、義理が変化したのかもしれませんが、ともかく義理が変わったんではないかと思います。そこで、そもそも「義理」とは何か。広辞苑によりますと、①物事の正しい筋道。道理。②わけ。意味。③人のふみ行うべき正しい道。④特に江戸時代以後、人が他に対し、交際上のいろいろな関係から、いやでも務めなければならない行為やものごと。体面。面目。情誼。⑤血族でないものが血族と同じ関係を結ぶこと。とあります。このうち、葬式などでいうところの義理とは、④に当たるものですね。本人がたとえいやだと思っていても、務めなければならないものごとで、そうしないと体面を欠いてしまう。なぜ務めなければならないものごとであるかといえば、互酬性の原理が働くからなのです。

今テレビドラマでは、「半沢直樹」が話題です。やられたら、「倍返しだ」とか「100倍返しだ」というセリフ、そしてそのとおり耐えた主人公がやり返していくことに、視聴者は胸のすく思いをするのでしょう。この、やられたらやりかえすにある面似ていますが、贈り物はもらったら必ず返すというのが、世界の常識です。世の中には、贈り物競争をして、相手が絶対返せないほどの贈り物をして相手の面目をつぶす、そんなことをしていた民族もいました。ただ、身分の上下関係があらかじめありますと、目下から献上した物とは比べ物にならないほどを目上からは与えなければなりませんでした。日本と中国との国家間の貿易は、かつてそうしたものでした。このことを逆に考えると、人から多大な物をもらいながら、お返しが少なければ私はあなたの僕ですと表明したようなことになってしまいます。ましてや、もらっておきながらお返しをしなかったら、社会的には大変なことになり、面目丸つぶれということになりました。そこで、何の機会にどこの家から何をもらった、ということを細かにつけておいて、自分がもらった家には同程度を必ず忘れず返すということを続けてきました。長いスパンでのお返しの持続といってもよいでしょう。ここで注意しなければいけないのは、こうした行為はイエを単位として行われてきたということです。そのイエからもらったからそのイエに返すのです。前提は、イエの継続です。ところが、現代のように基本は夫婦で一代限りというようなイエの考え方になってきますと、義理も変わらざるをえません。もらった義理は、その場でのお返し物で済とする、という考え方に大方が変わりつつあるのではないでしょうか。


生徒指導とこの国の政治

2013-09-14 22:06:56 | 政治

・ええ、俺が殴ったなんて証拠があるのかよ。先生見てたのかい。みてねーだろ。自分で見てもいねーのに何で俺たちだってわかるんだよ。

・何、あいつが俺たちだっていった。何でそれがほんとだってわかるんだよ。嘘ついてやがるんだよ。

・いつだってそうだ。何か悪いことがあると、いつでも俺たちのせいにする。 あいつの言い分ばかり聞いて、何で俺たちに聞いてからいわねえんだよ。俺たちの事なんか全然信用してねじゃねーか。

○どうしてうちの息子からは話をきいてくれないんです。いつだって学校は、息子ばかり悪いものにする。それって差別じゃないですか。教育委員会にいいますから。

・そうだよ。そんなにいうんなら、俺がなぐったよ。だけど、あいつのほうが俺にひでーこといったんだ。あんなこと言う方が悪い。何で俺ばっか呼び出されるんだ。

○そうです。家の息子が殴ったかもしれませんが、殴るにはなぐるだけの理由があるんです。殴らせるようなことをするほうが悪いんです。それを、何で学校はうちの子どもばかり悪者にするんです。もう今までに何回謝ったかわかりません。何度謝っても、また殴らせるようなことするんだから、相手の方が悪いんです。学校はどうしてわからないんですか。

これって、生徒指導でよくある話です。でもこの話、何かと似ていませんかね。証拠がないからやってないとか、手出しをさせたほうが悪いとか、いつも俺たちばかり悪者にするとか。当事者はしきりと自己弁護するのですが、客観的に見れば、言っていることが見苦しい。そうです。この国の一部の政治家は、問題行動を繰り返す子どもたちといっていることは同じです。かれらは発展途上の未成年だから許されますが、大人があまりに未熟なことをいっていたら、成熟した大人からは相手にしてもらえなくなります。


オリンピック考

2013-09-13 19:21:04 | 政治

オリンピックが東京となったことをどう考えるか。なかなか難しい問題で、書きあぐねていました。しかし、書かなくては、今のこの時点での意思を表明できません。書いてみます。
まず、あの陸前高田をはじめとする被災地を見、福島に思いをはせる者としては、税金をこれ以上東京という大都市に投入する意味があるのかということが疑問に思います。加えて、オリンピック開催中に巨大地震が起こったら、世界に対してどんな釈明をするのでしょう、想定外だったとか、全てコントロールされていると聞いていたなどという嘘八百、いやみえすいた内部にだけ通ずる言い訳をいってみても、世界は納得してくれません。オリンピック費用には、臨海部の地震対策など当然組み込まれていないでしょうが、そちらを重点に整備することを招致の効果と考えているなら、よくやったといえますが、頻発する災害への目くらましと更なる東京への税金の投入とインフラ整備、合わせて地方切り捨てのための招致なら、反対です。今更反対もないですが、国民は騙されてはいけません。マスコミは、これで視聴率など稼げますから鋭く問題点の指摘などしません。希望は、大して影響がないだろうラジオの対応です。

とはいえ、小学生だった東京オリンピックの夢をもう一度といわれれば、反対しつつ隠れて見たいという軟弱な自分もいます。そんな自分を鞭打ち、被災された皆さんを打ち捨てて予算が意味もない所に使われていかないよう、しっかり見て行かなければいけないとは、肝に銘じています。ですが、それからどうするか。皆が東京への予算投入をよしとしているとき、一般市民として何か抗う手立てがあるでしょうか。次の選挙までは長いです。 


死へのケガレ観はなくなったのか

2013-09-12 13:25:32 | 民俗学

10年以上も前から葬式の変化が気になり、追い続けています。当時は、葬儀社が自前のホールを建設し、寺や公民館から葬儀社のホールへと会場が変わっているときでした。自分は、婚礼がそうだったように葬式も葬儀場でやるようになるし、坊さんも会場専属の人になるだろう、婚礼の会場専属の牧師や神官がいるように、と予想しました。変化は思ったよりも早く、今や「終活」定番化 本も人気 などという新聞の見出しがでたり、テレビ番組でも頻繁に取り上げられるようになり、人々は普通に死と向き合うようになった、かのように思われます。しかし、それは本当でしょうか。自分の死に装束を自分で選んで着てみたり、棺桶に入ってみたり、エンディングのテーマ曲を選んだりしても、それは自分のことですし、所詮は架空のことであり、現実の死と向き合うものではありません。現実の死と接したとき、ケガレ観はなくなったのでしょうか。

3年ほど前に塩尻市の中心部、本当の市街地に葬儀場がオープンしました。これまでの葬儀場は、比較的目立たない場所や、住宅街の中ではないような場所に立地していましたから、市街地の真ん中にというのは大胆な立地でした。建設計画が持ち上がると、近隣住民は反対署名をしました。こんな町の真ん中で毎日葬式なんて縁起でもないということです。この反対運動は新聞にも取り上げられました。しかし、反対運動といっても温度差があったようです。すぐ近くの町会は全員反対だが、遠くなるにしたがって、あってもいいじゃないかと。大手スーパーが撤退した跡地で立地的には申し分ないから、同種の飲食店などの施設をと市も考えたようですが、人口が少なく商売として成り立たないようなのです。広い土地が更地で残ることは、見た目も治安上も悪くて、ぜいたくはいってられないということになります。何回かの説明会の後、葬儀場は建設されました。

葬儀場では、客は来ては帰っていくだけで地域の活性化につながらないから、皆の集まれる場所をという地域の要望をいれて、敷地の一角にレストランもオープンしました。そして、施設は塀などで目隠しされることなく、周囲の道路からよく見えるように設計されています。あえてオープンにしたように自分には思われました。そして、月に1度は広い駐車場を使って朝市をやり、その日は施設も解放されて、参加者は中に招かれ職員がお茶などをふるまってくれるそうです。そうなれば、近隣の人はもう何とも思っていないかといえば、この件について住民の方に聞き取りを試みると、皆さん口が重いのです。差しさわりがあるので、話せないという人もいます。マスコミがいうほど、人々が日常的に死と向き合うようなったなんていうのは、ほんの一部のことで、まだまだ死ほケガレ観は根強いものがあります。


過去への旅の終わり

2013-09-09 09:39:40 | その他

秋雨前線が通り過ぎると、めっきりと涼しくなりました。肌寒いくらいで、長そでの衣服を用意したくらいです。本当に夏が終わったと思わされました。今年の夏は、まさに還暦後の夏を過ごしました。還暦は、民俗学的にいうならば死と再生を模擬的に行い、生まれ変わる機会だろうと思います。恥多きこれまでの人生にごめんなさいを言って、新しく出発する、そんなことです。大学の研究会の仲間との再会、以前の職場の先輩の先生との再会、亡くなった先輩の先生の墓参り、民俗研究を指導していただいた先生との再会、自分の小学校の同窓会、最初の教え子の同級会ときて、最後の最後は昨日でした。

それは土曜の新聞を読むことから始まりました。伝承文学研究会の25年度の大会が土日に県短期大学であり、福田晃先生が「諏訪の中世神話」なる基調講演をするとありました。私は2年ほど説話文学研究会に所属し、昔話調査の手ほどきをしてもらいました。中世説話を輪読するのに耐えきれなくて脱会したのですが、指導していただいたのが福田晃先生でした。自分は若く、調査することの意味などを先生に問い詰める、おそそ非文学的な学生でした。あれから40年です。福田先生がこの地にきているならば、会うのは今しかないと強く思いました。それで、日曜日の午後、公開講演を聞きに県短期大学へでかけました。福田先生の確かな歳は知りませんが、80歳はゆうに超えているはずです。おまけに年賀状など読ませていただいた範囲では、かなり体力も弱っていることが想像されました。会場受付で先生が会場内にいることを確認して、中に入りました。そんなに多くの参加者ではなかったのですが、見渡しても、といっても後ろからですが、40年ぶりに見る福田先生は、どこにお見えになるかわかりません。とりあえず後ろの方の席に座り、研究発表を聞くことにしました。しばらくすると休憩時間になり、3列ほど前で熱心にレジュメを読んでいた老人が、後ろへ歩いてゆきました。40年前の記憶とすりあわせ、おそらくその方だろうと見当をつけました。とはいえ、間違っては恥ずかしいと思い、うかつに声をかけることはしませんでした。閉会の言葉を福田先生が述べることになっていましたので、そこまで待とうと思いました。そして、二人の講演を聞きました。初めが「七不思議の中世伝承ー諏訪と四天王寺を中心にー」学習院女子大 徳田和夫 次が「善光寺信仰tp磯長聖徳太子廟」早稲田大学 吉原浩人の2本の講演でした。七不思議では、不思議が中世の神仏の霊威譚から怪異譚へと鎌倉期に変わったという趣旨の話でしたが、どこからそう判断されるのかが示されず、結論が先にあって多くの七不思議譚を文献で集めたという話しでした。次は、善光寺如来と聖徳太子が5回も手紙のやりとりをしていて、その文書がこれだと、その他の膨大な文献も示しながら話してくれました。文献マニアだと感心したのですが、なぜ手紙のやり取りをしたのか、どうして人々はそれを期待し信じたのかなど、肝心なことと自分には思われる当時の人々の胸の内は、話を聞いていてもわからなかったのです。やはり、学生のころに感じた文献第一主義の伝承文学研究は、今になっても違和感があるなと、改めて思った次第です。

やはり目を付けた方が閉会の挨拶をされました。もっと声のトーンは高かったとか、おなかはあんなに出ていなかったとか思いましたが、ともかく名乗って(学生時代にお世話になったといってもすぐには思い出していただけず)感謝を申し上げました。予想以上にお元気で、まだまだこれからも研究を続けるといったエネルギーを感じさせられました。これで、思いつく限りの、過去への旅は本当に終わりました。いくらなんでも、1区切りをつけ新しいテーマに向かっていかなくてはなりません。


深志神社の舞台

2013-09-07 20:58:28 | 民俗学

松本近辺では、祭りにくりだされる山車をブタイ・ブテン、安曇野影響の強い所ではフネなどと呼びます。祇園祭りが地方の町場にも及んできて、ヤマホコをブタイと呼んだものと思われます。なぜ舞台かといえば、中で子どもたちの祭囃子が演奏されることから、これなブタイだと言い慣わされたのではないでしょうか。そのブタイの話を今日は、深志神社の神官の方から聞いてきました。旧松本市内は、南側を深志神社、北側を岡宮神社の氏子としています。深志神社は一般にテンジン(祭神の1つが天神様だから)といい、7月24・25日が例大祭でビョウブマツリともいいます。これは、市内の商家で所有する自慢の屏風を表に出して飾り、道行く人々に見てもらったことに由来するものです。各町内会で所有するブタイは、その町の力量を示すものとして豪華さを競い、江戸時代以来今に伝わっています。ただし、今回の発表でわかったのは、50~60年ほどすると周辺郡部に売却され、新しい意匠をこらした舞台が作られました。現存するブタイは新しいもので、江戸時代に作られたものは、売却された周辺のムラに残っています。ブタイを新築するのは並大抵ではなく、2~3年もかけて町内でこつこつを積み立てて、ようやく制作となりました。そこまでして新しくするのはなぜか不思議に思われます。ブタイで客を呼ぶという戦略もあったのでしょうか。舞台の上では、子どもたちが太鼓とチャンチャンをたたいて、お囃子を演奏しました。ただ、メロディーを奏でる横笛は、フエシといわれる大人が演奏したのです。フエシのリードで子どもたちはお囃子を演奏しました。ブタイには町内の子どもが乗って演奏するのが大事なことで、子どもが乗らない舞台をひくことは、「カラグルマヲヒク」といって、地元の人には屈辱的なことだったそうです。
お囃子はフエシが指導しました。ところが、フエシは地元の町の人ではなかったのです。フエシは町内を流れる薄側上流の、山辺の人でした。山辺にも立派なブタイがあり、村の中を練り歩きます。ところがそれは5月ですので、地元の祭りを終えた笛の上手なフエシが、着流しで夕涼みを兼ねてマチに下ってきて、子どもたちに指導してくれたのだといいます。これについては、巻山さんが松本市史に書いていることですが、今日の発表を聞いていた参加者の方が、ブタイに乗った自分の子どもの頃を思い出したと言って、こんなことを語ってくれました。山辺からくるフエシの人は、自分で持ってきた酒を笛の中を通して洗い、生卵を飲むと、「さあやるぞ」と子どもたちをうながして、練習が始まったといいます。田舎の大人がマチの子どもを指導することで、マチの祭りが初めて成り立つというところに、私はウキウキとした思いを感じます。その山辺からは、地元の小学校に通わせることを保護者が嫌って、マチの小学校に入学者が流れています。こいつはどうなんでしょうか。山辺のフエシはマチで子どもたちへの指導が終わると、笛を吹きながら帰っていったといいます。何と風情のある光景ではありませんか。