民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

牧水とは何者か

2015-03-29 20:34:58 | 文学

新年度の企画展を牧水でという声があり、昨年からしきりに牧水関係の本を読んでいます。牧水とは、もちろん若山牧水です。その牧水といえば酒。酒にまつわる短歌は数多く、中でも かんがへて 飲みはじめたる 一合の 二合の酒の 夏の夕暮れ はうなづく所が多い身につまされるような歌で自分の好きなものです。旅をし旅館に泊まり、うまいものを食べ、友と語る。牧水の紀行文を読むと、いつまでも学生をしているような、それも贅沢な学生のような気分が伝わってきます。ところが、家に残された喜志子の歌には恨みや焦り、やるせなさにあふれていて、可哀そうになってしまいます。まるで母親のように喜志子を求めた牧水は、身勝手で生活力のないどうしようもない男に思えてきます。むろん、歌を詠んでいた喜志子にも名の知れた歌人牧水と結婚することで、同世代から抜きんでたいというある種の打算もあったことでしょう。それにしても、どうしようもない貧乏生活で少し金が入ると売れもしない雑誌を創刊しては借財を作る。しかも、どうやら借財を返さないままに引っ越しを繰り返す。近くにこんなやつがいたら、友達にはなりたくないと思います。当時の作家の多くがそうであったように、客観的にみればどうしようもない暮らしをしていたようです。それでも、今に残る歌を多く残し国民歌人と呼ばれるようになったから良しとするのか。どうも牧水展というよりも、その実、喜志子展になりそうな予感がします。喜志子は塩尻市広丘出身の女流ーこうつけるのもおかしいですがー歌人です。太田水穂にすすめられ、失恋にのたうちまわっていた牧水が求婚したのです。救われたい、甘えたい思いの一心で。


甘酸っぱい季節

2015-03-29 07:23:59 | その他

3月末となりました、現役のころは卒業式、同僚の転勤や自分の転勤などに喜んだり悲しんだり、感情の起伏が激しくなる時期でした。今となってはそんな事から解放されているというのに、何だか3月になると鼻の奥がツンとするような思いとなってしまいます。関係ないとはいいながら、新聞に人事異同が掲載されると見入ってしまいます。異動した皆さんはどんな思いでいるのでしょうか。かつて同僚だった方が昇進したりしていると、報われてよかったと思ったりもします。


上海事情ー最終ー

2015-03-24 11:59:31 | 歴史

最終日の今日は雨は完全に上がって、天気になりそうでした。ところが、朝起きて外を見るとガスっています。朝曇りかと思っていましたが、どうもスモッグみたいです。こりゃ相当に空気は悪いと思います。息子が言うには、朝の空気がきたなくてジョギングする気になれないそうです。寒くて夜間の消費電力があがるため、内陸の石炭火力発電所がフル稼働するからだといいます。ともかく、朝食をとってから地下鉄で上海博物館にでかけました。旅行会社からもらった交通カードは、タクシーにも使えるため、便利です。ところが、残り度数が少なくなって地下鉄に乗ろうとした本日は、機械が読み取ってくれずに往生しました。ともかく何とか博物館へ。ここは、青銅器・陶磁器・玉器・家具を展示しています。かなり大きな博物館ですが、すばらしいことに無料です。こいつは日本の見習うべきです。

青銅器の展示量が半端ではありません。河南各地の、と言っても出土地を読んでも土地勘がないのでさっぱりわからないのですが。そうそう、展示品の解説はもちろん中国語で書いてありますが、何といっても漢字です。細かな意味は不明ながら、だいたいわかってしまいます。これは便利です。これでもかというほど青銅器がありますし、青銅器文明が長く続いたことを実感します。この間日本は何をしていたのでしょうか。こういう物を見ると、常に海の向こうを意識しながら自国の歴史を考えなければいけないことを思わされます。特に銅鐸が楽器として使用され、その音が館内に響いていたのはすごかったです。また、善光寺仏のような石造物も見ました。幻の善光寺仏とは、きっとこんな形だろうと想像したのでした。


上海事情3-蘇州へー

2015-03-22 20:45:08 | 歴史

蘇州には蘇州の言葉があるのだという。クリークに沿った道がへこむような場所に作られた2階の望楼で、二胡の伴奏に合わせておばあさんが歌うのは蘇州語の歌だという。若者は蘇語を話せないという。この歌もいずれなくなるのだろうか。

 3日目の今日は、1日蘇州にやってきた。水の都である。世界遺産になったとかで、古い街並がそのまま残り、そこで普通に生活が営まれている場所が、観光地となっている。普通の生活といっても、観光客相手の商売がほとんどだろう。そうした街並の裏側にある水路を船は行く。下水道を整備して水路の水質浄化に努めてはいるのだろうが、まだかなりの生活雑排水が流れ込んでいるのが見える。住居の裏側だから、洗濯ものだっていっぱい干してある。そこを船は行くのである。日本も中国も変わらないが、生活しながら街並を保存することの難しさがある。それにしても、よくここまで整備したといえる。

 拙政園という、なんとも自虐的な名前をつけて、役人が作ったという巨大な庭を見る。入口は狭くして中を見せないようにし、入って歩くに従って、目の前の景色を堪能するように作ってあるのだという。どこからでも見れるから、順路はない。回廊、池、東屋すべてに贅が尽くされている。庭のところどころにある建物内部の柱には、何やら漢詩のようなものが書かれていて、そこから見える四方の景色に意味づけしている。すばらしい庭を作ったら見る人の想像力に任せればいいものを、どんな意味をもたせてこの風景を造形したか文字でも示してある。漢字の国である。


上海事情2

2015-03-21 21:34:21 | その他

2日目は息子に任せた見学地をまわりました。ホテルまで迎えに来てもらい、まずは彼の住むマンションへ。会社の借り上げてくれたという家族向け高層マンションです。広いとは聞いていたのですが、思ったよりも広く意外にきれい。週1回そうじと食器洗いにおばさんを頼んでいるからだといいます。小さなスーツケース一杯に詰めて日本から持っていったインスタント食品類を納めて出発。まずは会社へ。これも高層ビルのワンフロアでした。こんなモダンな所に勤めている息子はといえば、着ている服は卒業して何年もたつのに学生時代のままです。もう少しコザッパリトとは思うものの、そんなことは口にできません。超近代的な高層ビルとムサイかっこうのアンバランスが、またいいのかもしれません。ビルを見上げてすぐ近くの新天地という路地街へ。倉庫群を再開発したものだそうで、土産物屋や飲食店が軒を連ねていました。昼はそこの小龍包の有名店で食べました。お土産を買うのに歩き回ってから、上海タワーに向かいました。最上階までは結構な料金でした。曇ってもいました。それでもせっかくだからと上りましたが、雲に隠れていた最上階は、全くの雲の中で何も見えなかったのです。夕方のタワーのライトアップまで見てまた新天地に戻り、上海料理の夕食を食べました。甘辛い豚の角煮なんかが特色だといいましたが、全体としてやさしい味で口にあいました。中国ワインもおいしく、満足でした。そして、異国の地でしっかり働いている息子に感心したのでした。今日は曇りでしたが、曇りなのかスモッグなのか何だかよくわかりません。


上海事情 1

2015-03-20 21:45:29 | その他

 長男が昨年の夏から上海に赴任していますので、様子を見に行ってきました。私の見た上海の様子について書いてみます。

 

上海には空港が2つあります。羽田と成田みたいなものです。その遠い空港で発着しました。 まず、入国審査でかなり厳しいなと感じました。現地のガイドさんに言わせれば、中国では大きな声ではっきりとしゃべることを学校で教育されるので、中国人は怒っているように思われるがそうではないということです。でも、中国語で語気鋭くいわれても、そればベルトを外せだとはわからなかったですよ。世界中が中国語を話せると思っているかもしれません。ともかく入獄ゲートを通過して、現地で迎えに来てくれたガイドさんと合流して宿泊ホテルへ。

 ホテルでは午後は勝手に外出し、夕方から夕食食べて雑技見学のツアーを組んでいました。午後はゆっくりですが、ともかくホテルではWIFI無料接続というので、スマホから息子にメールを打とうとしますが、どうしてもG-メールに接続できません。仕方なく携帯メールから打ち、通じました。その後も何回かグーグルにアクセスしようとするも、どうしてもつながりません。よく考えてみました。自分の手順が悪いのか。いや、ヤフーはつながる。ということは、ア、そうだ。中国でグーグルはトラブったのだ。と遅まきながら気づきました。息子に確認したら、やはりだめだと。そうなると、グーグルドライヴに保存してあって見せようとした写真も見せられませんでした。でも逆に、知らないところで、というか気が付かないうちに、グーグルに情報を支配されていることにきがつきました。もしかしたら、中国のやっていることは国としてある面正しいのかも、なんてことも思ってしまったのです。

 午後はホテルの近所の市内を散策し、表通りは現代、路地裏は近代かそれ以前という中国の姿を見ました。歩道に倒れている人もいましたが、街はよく手入れされお掃除も行き届いていました。夕食は上海海鮮料理を食べ、雑技を堪能しました。サーカスですね。夕方からの雨は本降りになっていました。


第4種郵便

2015-03-12 18:35:29 | その他

 信濃史学会という地方史の研究団体(だと思っていたのですが)があります。毎月論文を掲載した雑誌を発行していますが、郵送料の重さの境目に当たるということで、雑誌のページ数を80ページ以下と制限されています。なかなか厳しい制限なため、なんとかならないかと研究して、第4種郵便の申請をしたら100グラムまで36円だと調べてくれた役員がいました。これまで誰もそんなうまい制度があるなどと気がつかなかったので、すぐにでも申請しようと事務局で対応してくれました。ところが、そこから腹の立つことがわかったのです。

 まず、第4種郵便の指定学術刊行物とは、以下のような規定になっています。 

 学術に関する団体がその目的達成するため継続して年一回以上発行する学術に関する刊行物(総務省令で定める基準に従会社が指定するものに限る。)を内容とする郵便物で、発行人又は売りさばき人から郵便約款の定めるところにより差し出されるもの

 そして、「学術に関する団体」の要件は下記のものです。 

1 学術に関する団体の要件 次の基準を具備する「学術研究団体」又は「学術研究団体の連合体」であることを原則とする。 (1) 学術研究の向上発達を図ることを主たる目的とし、かつその目的とする分野における学術研究団 体として活動しているものであること。 (2) 研究者の自主的な集まりで、研究者自身の運営によるものであること。 (3) 「学術研究団体」の場合は、その構成員(個人会員)の数が 100 人以上であること。 (4) 「学術研究団体の連合体」の場合は、3 つ以上の協力学術研究団体を含むものであること。

 

 私たちは信濃史学会は当然押しも押されもしない学術団体だと思っていました。ところが(2)にある研究者の定義でつまづきました。研究者とは大学もしくは指定研究機関に在籍する者だけをいうのだそうです。それなら大学の先生だけ抜き出して二重名簿を作って出したらよかったという声もありました。実際そうやって許可を得ている刊行物もあるみたいです。正直に申請したところ役員は皆研究者ではない(みんな別の生業をもって頑張っている)ことになりました。それで、第4種郵便の申請は頓挫したのです。しかし、研究者をそうした者しか認めないという規定には腹がたちます。在野で研究している団体こそが優遇されてしかるべきなのに、大学で禄をはむ者にだけ優遇措置をするというそもそもの考え方が間違っています。この国には学問を大事にする姿勢がありません。


川崎の事件をめぐって

2015-03-11 18:23:33 | 教育

 川崎の事件の報道も、新しい事実が明らかにならないことで鎮静化しつつある。救いのない事件だが、いくつか予想していたような背景が明らかになり、やはりそうかと思っている教育関係者は多いと思われる。それでも、加害者が無職少年、被害者が中学生という構図で学校関係者の責任問題が問われることが少なく、ほっとしている。学校に来ない生徒の動向にも詳しく目を配って学校が把握せよといわれても、非現実的である。

 加害少年の首謀者をA、配下をB・Cとし、被害少年をDとしよう。今警察で慎重に取り調べているようだが、私は真相は明らかにならないと思う。過去の経験からいって、加害少年たちは自分が不利になるようなことはめったに話さないし、平気で仲間を売り嘘をつく。そうしてこなければ生きてこれなかった生活歴の中で培われた性格は、取調室であっても簡単に変わるものではない。彼らを差別しているのではなく、そう育ててしまった周囲の責任なのである。Aは一旦嘘をついたら自分でそれを本当だと思ってしまい、嘘と現実の区別が難しいだろう。また一旦激昂したら分別がなくなってしまうだろう。愛着障害の症状である。保護者はだんだん手に負えなくなる息子に、そのご機嫌をとるという対応しかできなかったと思われる。おそらく、幼いころにはしつけと称して虐待のような暴力的子育てで押さえつけていただろう。そして、いじめられっ子だったに違いない。体が大きくなるに従って、鬱屈した思いが逆転したと思われる。

 被害少年Dは、田舎の濃密な人間関係で育って都市に転入し、物足りなさ、満たされない思いを抱えているところ、ABCらが、いかにもフレンドリーにつけいり、仲間に誘いこんだのだろう。行くあてもない彼らは、友人の家に寝泊まりしたりして、四六時中一緒にいて、あたかも親友のようにみえる。しかし、実は自分のためには平気で仲間を売る連中なのに。Dの空疎な心を埋める何かがあったらと思われる。特に放課後だろう。母が帰るまでの時間を、夜遊びが常態化する前にはどのように過ごしていたのか。この段階ならSSW(スクールソーシャルワーカー)がかかわれる余地があったと思う。毎日夜遊びし登校しなくなってからでは、SSWが関わることはできないだろう。SSWの使い方について、新聞も行政もわかっていない。 


ペットの不思議

2015-03-10 18:03:01 | その他

 7年ばかり前のこと、同じ職場の方の池で卵から育ったという金魚を10尾ばかりいただいた。白と赤で、いずれも尾びれが開いて、コメットとかいう種類の雑種のようでした。水槽で育ててきましたが、だんだん減り特に去年からは次々と死んでしまいました。かなり大きくなりましたから、水槽が小さくなって適正な数以上に飼っているいるせいなのかとか、何か病気かとか思っていましたが、去年から亡くなるやつはみんな背骨が曲がって、体を九の字にして死にました。そして、1週間ほど前に白い5センチほどもあった奴が、体を折り曲げてしんでしまうと、残りは白と赤の金魚となりました。ところが、今度は残された赤い金魚が背骨をまげて横たわってしまいました。そうすると、赤が死んでしまうと1ぴきとなる白い金魚が、横たわった赤い金魚に寄り添い、尾びれやむなびれでそっと触れて、まるで励ましているかのようです。

 親戚の家では屋内でマメ柴を飼っています。息子が大学受験で付き添うために、ペットショップに2回一泊で預けたといいます。すると、一切飲食せずトイレも」しなかったために大層弱ってしまい、うちに連れ帰るとはいたり下痢したために、点滴をしたりして医者にかかったそうです。飼い主に捨てられたと思ったようなのです。今日も私が行ってなでてあげると、頭を座っている私の体にくっつけて離れません。安心できる人間なら誰にでもくっついていたいみたいなのです。

 震災でペットの心が傷つき、あるいは飼い主を捜してケアが大変だというようなテレビを見ました。そんなことがと思っていましたが、こうしたペットの姿を見るとそういうことってあるんだと納得します。


再開します

2015-03-09 15:40:03 | 民俗学

 長らく課題としてあたため続けていたいた石仏関連原稿の編集が、『長野県中・南部の石造物』として結実したので、中断していたブログを再開します。1年以上編集に専念して何も書いていなかったので、どこから、何から描いたものかと、やや途方に暮れています。
 そこで、まずは今関心をもって考えていることどもを、まずは整理しておこうと思います。

1 今後の民俗学の方法について
 最近の日本民俗学会の動向や、年会での雰囲気もあって、多少「これからの民俗学」と題して書き散らしています。主として触発されているのは、福田アジオ氏の最近の仕事です。福田氏が所長をされている伊奈民俗学研究会から原稿依頼があって、見開き文の原稿を送りました。すると、そうした配列になるとは全く考えなかったのですが、野本寛一氏、福田アジオ氏、私の順に原稿が並び、私は福田氏の著書や仕事から多くを引用させてもらったのですが、野本氏が私の差し上げた年賀状での問いかけ「これから民俗学はどこへ向かおうとしているのか」を枕にふって、書き始めていました。あたかも、3人が気脈を通じて書いたような内容になったことに驚きました。
 何ら自分としての結論はでておらず、考え続けていかなければならないテーマと思っています。
2 折口信夫の仕事
 高校時代に1年間担任をしてもらい、3年間古典を教わった石上順という先生がいます。この先生の語る古代は、何か高校の授業というものの域を超えている、当時はそれが何かはわからなかったのですが、ように感じ、楽しみにしていました。また、ダンディーな先生の姿にもあこがれていました。先生は、授業の始めに「今日はどこからだっけ」みたいなことを、前列の生徒にいつも尋ねました。後にそれは、折口信夫が講義を始めるときの口癖だったこと、全国の豪族の子女を集めて教育して采女とし、諸国に配置して神聖支配した、膝枕は耳から出入りする魂の交流であるなど、折口説を高校生に向けてわかりやすく興味深く説いたものであると知りました。つまりは、石上先生は折口の弟子をもって任じていたのでしょう。石上先生の話が、自分が民俗学に興味を抱くきっかけになりました。それで、折口を少し読んだこともありましたが、参考文献もなく最初から結論を決めつける文章は歯が立たないものでありましたし、警戒を要すると思わせるものでもありました。ところが安藤礼二の仕事を知り、もう一度折口に取り組んでみようかと思っています。
3 神の声を聞くこと
 一昨年に沖縄へ行き、「聞大君」という存在が気になっています。神を中心とした神聖王朝である琉球王国を、この国はにべもなく滅ぼしてしまい、今また恥ずかしげもなく踏み台にし使い捨てようとしています。本土の天皇制が、あまりにも理念的な支配の体制になり下がり、おそらくそのために存続があやうく、皇族の人々に何のために生きるのかという根源的苦しみを与え続けているのをみると、このまま天皇制が先細って廃止でもいいのですが(琉球の最後の王は東京へ移住させられたといいますが、その末裔がどうなっているかは話題にもならない。そうした終わり方だっていい)、明治のシステムとしての天皇制になる以前の姿、もしくは残影を見ようとしている、原武史氏の最新の仕事が気になります。安倍政権は、都合良く支配の道具としてまた天皇を使おうとしているように思われてならないこともあります。
4 河野家のこと
 学芸員のOさんから、河野齢蔵について相談されましたが、恥ずかしいことにどんな人か知りませんでした。いつものことで、教育史に詳しいT先生にお伺いをたてたところ、様々な資料を送ってくれました。教育者、登山家、植物学者、鉱物学者など並々ならぬ才能の持ち主であったことがわかってきました。
河野家は、あの松本サリン事件で冤罪被害をうけた河野さんの家でした。河野家からは、北海道史を書いた人や、アナキストとして知られる山本飼山などがでていることも知りました。また、河野家の近くに松本サリン事件を映画化した熊井啓監督の家があったこと、熊井監督夫人の家も近くにあったことなどを知りました。何だか曼荼羅のような話です。こいつは、ずっと先の話ですが、このあたりの人間の関わりをかいてみたら面白いだろうなと思っています。あまりに専門外ですから、本当に暇になったらということになるでしょうが。