民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

女帝再論

2005-12-30 10:27:22 | 民俗学
 どうやら女性天皇容認が、大方の賛同を得られたような状況である。両性の平等といった観点から、女性天皇を認めないのは差別である。などという庶民の感情を考慮したとは、おかしなことだ。そもそも、血筋による天皇家の系譜という考えが、民主主義とは相容れないものであり、存在そのものが基本的人権に反している天皇家に、両性の平等と言う考えを持ち込むことが矛盾しているのだ。天皇制を存続させようとするなら、側室をたてようとも父系の男性天皇を原則にする以外にない。しかし、父系の血筋を唱える勢力よりも、両性の平等から結果として双系を認める勢力が勝ることは、この国の民主主義がだんだん地に着いてきたことを示しているだろう。
 双系を認める天皇制が100年ほどたてば、いったい天皇とは何だったのと、この国の人々はようやく長い間の呪縛から解き放たれることだろう。そうなって、ようやく天皇家の人々にも人権が認められるのである。現状では、本当に不幸としかいいようがない。ともあれ、見えないようでいても歴史は動いているのだ。

万引き

2005-12-12 10:49:47 | 教育
 あまり書きたくないし、書かれないないようだが、触法行為、仮に万引きをした際の対応の仕方を考えてみよう。万引きをして店の方に捕まえてもらった場合、対応は2つに分かれる。1つは、警察に連絡して引き渡すという対応がある。この場合は、警察から保護者に連絡がゆき、警察の支持にしたがって店への謝罪、商品の買取などが保護者の責任においてなされる。警察からは個人情報ということで、学校への連絡はない。したがって、保護者から学校への報告がないかぎり、どんな事案があったか学校は知らないことになる。もう一つの対応は、店の方が学校へ連絡するという対応である。連絡を受けた学校では、保護者に連絡するとともに該当の店に出向き謝罪して生徒を引き取り、指導にあたる。本来なら、もう一つの対応、店から直接保護者に連絡するという手段があってよさそうだが、これはほとんどない。そこで、学校は全くの埒外に置かれるか、保護者でもないのに当事者のような扱いをうけるかのどちらかとなる。
 本当はどれがよいかわからないが、親権者としての保護者が当事者となり学校はそれをサポートするのが筋だろう。何かというと、責任の所在を何でも持ち込まれる学校だが、それは違いますと時にはいわないと、際限も無く持ち場は増加する一方である。

思春期の君へ

2005-12-08 11:58:29 | 教育
 学校から下る細い坂道の落ち葉をはこうと、ほうきをもって下っていく私を、まるで待っていたかのように、脇へ上っていく階段の途中に君は座っていましたね。昼休みに担任の先生と何かトラブリ、一人の生徒が学校をとびだし、学年の先生方が手分けして探しているのは知っていました。
 「A君だね」というと、君ははにかむようにうなずいたね。「どうしたの、何かいやなことがあったの」といっても、君は口ごもるばかり。「一人じゃ戻れないなら、私がついていってあげるよ」というと。「いえ、もう皆に家に帰るっていってきましたから」と答えて涙ぐむ。「寒いし、いつまでもここには座っていられないよ。じゃ、私がかばんだけ持って行ってあげるから、そっともどったら」というと、「いいえ、5時間目はここにいて、部活から学校に戻ります」といいきったね。そうか、私はこのままどこかにいなくなったらどうしようという不安はあったが、君をみていると信じてみようという気になった。「そうか、じゃ男と男の約束だ、ここにいていいから必ず部活には出るんだよ」と言い残して、その場を去った。
 この日、A君が部活に出るか心配だったが、元気に出ていると聞いて一安心。そして、今朝のお母さんからの電話だ。やっぱり君は、勢いで学校とびだしたけど、誰か、とりわけ担任の先生が捜してくれるのを待っていたんだね。自立と依存が微妙に交錯するのが思春期だ。ついたり離れたりしながら、気がつけば大人になっているよA君。