民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』を読むー2

2019-07-23 09:38:52 | 読書

本書の著者、クリシトファー・R・ブラウニングはアメリカ人でした。記述の中から心にひっかかった部分を引用したいと思います。

ナチ党は自由な選挙で37パーセント以上の得票を得たことはなく、その得票は社会民主党、共産党の得票合計を下回っていた。ダニエル・ゴールドハーゲンはわれわれに、〔反ユダヤ主義のような〕単一争点に対する「個々人の」態度は彼らの投票結果からは推定できないと、正しく注意を促している。しかし、彼がこの点に関して、経済問題を理由として社会民主党に投票した多数のドイツ人は、にもかかわらずユダヤ人問題に関してはヒトラーやナチ党と心を一つにしていたと断定するのであれば、それはきわめて疑わしいと言わざるを得ない。

翻訳であることと、ゴールドハーゲンへの反論であることから、なかなかわかりにくい文脈だが、要するにドイツ国民の全てがナチ党のユダヤ人殲滅作戦に賛成していたのではなく、ナチ党は37パーセントの指示しかなく、また社会民主党に投票した人々がユダヤ人問題に関してはナチ党を指示していたとは考えにくいというのである。逆にいえば、ナチ党は外交と経済で人気を博したが、ユダヤ人問題で大多数の国民の支持を受けたわけではないというのである。その結果、以下のような事態が生じた。

一般住民は喧噪で暴力的な反ユダヤ主義に動員されはしなかったが、ユダヤ人の運命に対して、徐々に「冷淡に」、「消極的に」、「無関心に」なっていった。反ユダヤ政策は―規律正しく合法的に実行されたものであれば、二つの理由から広く受け入れられていった。第一に、規律ある合法的な政策は、ほとんどのドイツ人が不快に感じたユダヤ人に対する暴力を抑制するのに役立つと期待されたからである。そして第二に、大多数のドイツ人が、ドイツ社会におけるユダヤ人の役割を制限し、さらに終わらせようという目標を受け入れるようになったからである。これはナチ体制が達成した重要な変化であった。

そして、最終的には、

「アウシュヴィッツへの道は憎悪によって建設されたが、それを舗装したのは無関心であった。」という。

経済を前面に出して支持を集め、人々の無関心に付け込んで人心を操作する。言い古された言葉ですが、「歴史は繰り返す」といいます。私たちは、恐ろしい道を既に歩んでいるのでしょうか。


普通の人が虐殺者になる

2019-07-22 17:52:58 | 読書

最近、悲惨な大量殺人事件が相次いでいます。殺人事件自体は減少しているといいますから、余計に世間の耳目を集めます。ところが、数百人を平然として殺しながら、その後は一般人として一生を過ごした人たちがいます。ホロコーストに関与した人々です。この人たちは、戦後に取調は受けています。ところが、自分がやったといわない限り、そこに自分がいて関与したという証拠がなければ、人は必ずしらを切ります。南京大虐殺では、取調すら受けていません。そもそも、そんな事実はなかったと言い放つ人もいます。そもそも、どんな状況でどんな理由で、人は丸腰の無抵抗な多数の人間を、平然と殺すことができるのでしょうか。おまけに、殺人者は特別な訓練を受けて殺人者に仕立てられたのではなく、ただ召集されてたまたまそこに遭遇しただけだとしたら、恐ろしいことです。誰もが狂気の殺人者となりうることになります。

『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』(ちくま学芸文庫)を読んで、ユダヤ人の虐殺とはいかなるものか、初めてわかりました。警察予備隊という現役の兵士になるには年をとっている一般の人が召集されて、ナチスの占領地ののための警官となり、ユダヤ人殲滅のために直接的に手を下したり、ガス室送りの列車に追い込んだというのです。歩けない人や子供は、その場で射殺して移送の手間を省いたといいます。そして、もっと恐ろしいのは、ガス室を備えた収容所ができるまでは、森に連れて行ってうつぶせにし首の後ろに銃口を当てて射殺したといいます。そんな記述が数多く出てきます。直接ユダヤ人と相対する射殺はいやだから、機械的にできて良心が痛まないガス室を作ったようです。そして、それに携わった人々は、自分はそんなことが行われているとは知らなかったといい逃れています。子どもでも、老人でも、女でも、全く無抵抗な者に銃口を当てて頭蓋骨が飛び散るように射殺したのにです。もっとひどいのは、中国を侵略したこの国の軍隊です。戦争犯罪と向き合ったのは、捕虜となった人たちだけで、帰国した日本兵は固く口を閉ざしました。

なぜ人は人を虐殺できるのか。ナチの行為を研究し続けている研究者がいることが尊いことと思います。


「大嘗祭の本義」再考ー6

2019-07-18 09:00:38 | 民俗学

そろそろ、終わりに近づいた。今年の大嘗祭は11月14~15日が予定されているようである。王権の交代儀礼、王の擬制的死と復活儀礼ではないかと考察してきたが、それが現代社会で執行されることを、どうとらえればいいのだろう。文化財として、伝統芸能として、保存会が会費を集めて行う行事ではない、象徴天皇制として現実の政治に何らかの影響を与えることを、民主主義社会で許してよいのだろうか。天皇家の家儀礼として行うのが正しい選択ではないか。時の政権の宣伝となるようなことは、天皇家も望んではいないだろう。政権と近しくなるほどに、政権が転覆した時に天皇制も同時に転覆する可能性が高くなる。天皇家にとって絶対命題は、天皇制の存続であるから、権力からはできるだけ遠い位置をとろうとするだろう。


「大嘗祭の本義」再考ー5

2019-07-15 10:52:51 | 民俗学

折口は「貴種誕生と産湯の進行と」(『國學院雑誌』昭和2年10月号)で、貴人の誕生について以下のように述べている。

貴人について、そのみあれといふのも、うまれるといふことではなく、あらはれる・出現・甦生・復活に近い意味を現はしてゐる。永劫不滅の神格からいふと、人格の死滅は、ただ時々中休みと言ふことになるだけである。皇子・皇女の誕生が、それであって、このみあれがあったのち、更にみあれがあることが、即、天位に即かれる意味に外ならないのである。つまり、天子になられる貴人は、二回のみあれが必要であるといふ事になる。

つまり、貴人が改めて天皇として生まれる(現れる)儀礼が、「大嘗祭」だといいたいわけである。赤坂憲雄は『象徴天皇という物語』(ちくまライブラリー46 1990)で折口のいうところの「天皇霊」をとりあげ、詳しく考察している。そして、岡田荘司の折口批判について、「大嘗祭が一世一大の、天皇が天皇になるための王位継承の祭儀であるのだとしたら、そこには王としての神性ないし聖性を賦与する儀礼のメカニズムが、いかなる形であれ組み込まれていなければならないはずだ。岡田の解釈からは、それがすっぽり欠落している。岡田説が王位継承祭儀としての大嘗祭の解読という意味合いにおいて、かぎりなく平板で貧しい印象しか与えないのは、むろんそのためだ。たんなる稲の収穫儀礼に還元することでは、大嘗祭の基層はまるで解明されたことにはならない。」と批判する。全く同感である。岡田の王権についての無理解な結論は、悪しき文献至上主義だといわざるを得ないだろう。

折口説をもっと敷衍するならば、「大嘗祭」を、新天皇の擬制的死と復活の儀礼だとも大雑把にはいえまいか。すると、新たな妄想が浮かぶ。悠紀殿・主基殿で同じ儀礼が繰り返されるようにみえるが、原初には死の儀礼と誕生の儀礼だったのではないかと想像するのである。2度の湯あみは、湯かんと産湯にあたるのではないか。こんなことは具体的な儀式の中からは実証できないことはわかっているが、折口がマナという民族学的知から「天皇霊」なる用語を探しだしたとするなら、「死と再生」という民族学的知から、儀式の中にその痕跡でも探すことはできないだろうか。


「大嘗祭の本義」再考ー4

2019-07-14 16:30:57 | 民俗学

前回落としたが、折口が「大嘗祭の本義」で取り上げていることが、もう一つある。大嘗祭を執行するにあたり厳重な物忌みをした天皇が廻立殿で湯あみして悠紀殿に入るのだが、湯あみすることで物忌みから解放され、性も解放されて中宮(律令以前は高級巫女とだろう)と聖なるセックスをするというのである。このことは、かなり詳しく折口は解説している。柳田なら絶対に書かない話題であるが、今回は詳しく立ちいらない。

さて、折口の大嘗祭の理解に対して、岡田荘司は文献史学から完全否定の立場をとる。「私の理解する大嘗(新嘗・月次の神今食を含めて)の祭儀の本旨は天皇親祭による神膳の御供進と共食にあり、いわゆる”真床覆衾”にくるまる秘儀はまったくなかったと考えている。秘儀とは前者のみをさしていう。」(岡田荘司『大嘗の祭り』 学生社 平成2年)と述べ、天皇家先祖の霊を祭り、共に食事をすることが大嘗祭だというのである。確かに文献上では、新天皇が寝具に包まるような所作は確認できないとしても、折口説を根も葉もない幻想だと言い切ることができるだろうか。

古いムラの地主クラスの通婚関係を調べると、共通していることがある。それは、村内婚は決してしないでかなり遠くのムラの、やはり地主クラスの家と婚姻を結んでいることである。村内で婚姻すると、その家と同程度の家格となってしまい、村内の秩序を保つ上で具合が悪かったのである。だから、村外の同程度の家格(価格は結局、所有する土地の広さによる)の家と婚姻を結ぶことになる。所有する土地が広くなるほどに、はるか遠くから嫁をもらう、あるいは嫁に行くことになる。人が天皇という絶対者になるとき、階段を順番に上るように天皇位につくことで、納得できるだろうか。AがなれなくてBがなる。あるいはCがなるかもしれない。ある範疇の中の有力者であるAとBとCとにはいかほどの違いがあるのか、という疑問がどうしても生じてしまう。だから、地主が村内では婚姻相手を選ばないように、天皇になろうとする者は、ある範疇の中でその位を争っても、力でねじ伏せることはできても説得力のある説明でその位につくことはできない。つまり、天皇を絶対者としたら、その力の源泉は人間界の外に求めないと、その地位の説明ができない事になってしまう。中国ではそれを天といったが、支配者が支配者たるにはそうした論理が必ず必要だと私は考える。祖先神である天照大神を自ら祀ることで、天皇で無い者が「天皇」になるというのは、いかにも近代以降の者が考える論理である。岡田が、「代替わりごとに、古代の形式のままに生活空間を再現して天皇親祭が斎行されてきたことは、ここに祖霊の来臨を仰ぐ農民の家の進行とも共通点が認められ、天皇祭祀の本源的形態は祖霊との結びつきを意識したものであった。」と結論づけるのは、王権についてあまりにも無知な考えである。家々で祖霊を祀るのと同じように、天皇家でも祖霊を祀るのであるとするなら、違いはどこにあるのか。天皇家の力の源泉はどこにあるというのか。

折口が「大嘗祭の本義」で次のように述べる。

天日に身体を当てると、魂が駄目になる、という信仰である。天子様となるための資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得るためには、この物忌みをせねばならぬ。(中略)大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちゃんと御寝所が設けられてあって、褥・衾がる。褥を置いて、掛け布団や、枕も備えられてある。これは、日の皇子となられる御方が、資格完成のために、この御寝所に引き籠って、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂の行事である。ここに設けられている衾は、魂が身体へはいるまで、引き籠っているためのものである。裳というのは、裾を長く引いたもので、今のような短いもののみをいうてはいない。敷裳などというて、着物の形に造って置いたのもある。この期間中を「裳」というのである。

大嘗祭で新天皇が寝具にくるまるような記録はなかったというので、民俗例から物忌みはどんなことか少しあげてみたい。長野県の中信地方では、新生児は初外出の日を定め、それまでは一定期間外出してはいけないといわれた。新生児の魂は不安定で、むやみに外出すると魂がどこかに行ってしまうのである。初外出は清吾33日前後に、産土神へのオミヤマイリだとしている所が多い。安曇野市梓川村下角では、「オミヤマイリまではヒノメに当たってはいけない」といい、太陽に当てることを避けた。それ以前に外出するときは、おしめを頭にかぶせたりして太陽の光を直接あてないようにしたという。折口のいう深い物忌みとは、これではないか。また、場所を忘れてしまったが確か南信地方で、葬列に参加する女性が嫁入りに着た白い着物を袖をはずし、物忌みの印として頭にかぶった。これも深い物忌みの印として、日光に当たることを避けたものだろう。大嘗祭に臨む天皇が、深い物忌みとして裳にくるまる事が、どうしてしなかったといえるだろうか。


「大嘗祭の本義」再考ー3

2019-07-12 15:01:02 | 民俗学

 

 

 

前回書き落としたが、折口自身は『古代研究』民俗学篇2の「追い書き」で、『古代研究』に入れた論文には、「口だての筆記文が大分ゐる」と書いている。次々と類似の連想が浮かぶ折口にの思考に、自分で文字化する時間が追い付かなかったと思われる。そのために、実証を緻密に積み上げて結論を導くような論文ではない。いきなり結論が提示されたり、根拠が示されなかったりする。口述で連想の赴くままに問題について語ったものが、論文となる。だから、「大嘗祭の本義」にも、数字で項立てがあるだけで項目の表題はなく、どう読み込むか読者の力量に任されている。そうした点では、文学作品あるいは評論といってもよいかもしれない。(こんなことは既にいいふるされているが)

そして、筆記者について「近いところでは、袖山富吉さん・小池元男さん・小林謹一さん・向山武男さん・岡本佐氐さん等の講演のうとも貸して貰うた。」と書いているが、個別に誰かは不明である。

さて、「大嘗祭の本義」の内容の分析に入ろう。知りたいのは、「大嘗祭の本義」の核心部分とは何かである。安藤礼二は、大著『折口信夫』において、「そのポイントは二つに絞られる。一つは天皇の権威の源とされた「天皇霊」という存在であり、もう一つは、その「天皇霊」を身体に受け入れ、新たな天皇として死から復活してくるための装置となる、つまりは王権が更新されるための装置となる「眞床襲衾」という存在である。「大嘗祭の本義」は霊魂論にして王権論だった。」(安藤礼二『折口信夫』258頁 講談社 2014)と述べる。いきなりそこに行く前に、全体を少し見通したい。

「大嘗祭の本義」は、15の項からなっている。番号ばかりであるので、内容が知れない。そこで、全く私の個人的な感覚で、キーワードと思しきものを以下のように抜き出してみた。

まつりごと、御言持、大嘗祭、新嘗、神嘗祭、秋祭り、冬祭り、まなあ、天皇霊、たまふり、すめみまの命、真床襲衾、高御座、中天皇、寿詞、風俗歌、東歌、みそぎとはらえ、廻立殿、物忌みの褌、直会、五節の舞い

これでは、かえってわからないかもしれない。安藤礼二に倣っていうなら、この中でも重要なのは「天皇霊」と「眞床襲衾」である。折口がいつからこれらの用語を使い始めたか、『國學院雑誌』掲載の論文から拾ってみると、「眞床襲衾」は昭和2年10月号の「貴種誕生と産湯の信仰と」であり、「天皇霊」については『古代研究』の「大嘗祭の本義」まで使われず、それ以前は、「外来魂」とか「まなあ」と呼んでいる。外来魂とそれを身体に憑けるタマフリとは、昭和3年8月号の「大嘗祭の風俗歌」から使われる。王権の源泉として、外来魂つまりマレビトを想定したのは、師である柳田から離反する論理である。柳田にいわせれば、天皇の力の源泉は祖先神とそれを祀ることができる権利だから。昭和の初めに、天皇の力は血統ではなく外来魂を身体に憑けることだといった折口は、かなりな勇気がいったことと思われる。ミコトモチ、つまり神の言葉を伝える人は、それができるならば、誰でもいいことになるのだから。


「大嘗祭の本義」再考ー2

2019-07-11 14:43:06 | 民俗学

前回書いたように、「大嘗祭の本義」は2つの出典を示してある。まず、『國學院雑誌』34巻8号を見ると、「大嘗祭の風俗歌」が掲載されているが、末尾が(續)となっているものの、わずか2ページという短いものであるものの、『古代研究』「大嘗祭の本義」におけるキーワードの「外来魂」について述べている。とはいえ、「大嘗祭の本義」という長い論文の出典としてはいかにも短く尻切れとんぼである。「大嘗祭の本義」のエッセンスとでもいえる論文は、出典にはあげてないが『國學院雑誌』34巻10号の、「大嘗祭の本義ならびに風俗歌と眞床襲衾」である。この論文の最後に、「とぢめ」として、折口は次のようにまとめている。「私は大嘗祭に於ける御衾が、神代紀に見えた眞床襲衾で、これにお籠りになる聖なる御方が、新しい悠紀・主基の外来魂をとりこんで、立ち直られることを中心として、大嘗祭の御儀を、ほのかながら、御観察申しあげたいのである。(談)」とあり、折口が大嘗祭を「死と再生」の儀礼と考えていたことがわかるのである。これについて否定的な見解もあることから、折口説の検討も必要だが、まずは出典である。

もう一つ上げている、信濃教育会東部部会講演筆記とは何か。信濃教育会に東部部会というものはなく、この部分は誤りであることがはっきりしている。今井武志の『折口信夫と信濃』(信濃毎日新聞社 昭和48年)の年譜によれば、これは昭和3年6月29~30日に、東筑摩教育会中央部支会での講演だという。ただ、どこの学校でおこなわれたのかははっきりしない。そこで、東筑摩教育会事務局と当時の中央部支会に属する小学校に、折口の講演筆録はないか探してもらっているものの、現在も発見できないでいる。では、筆記者は誰だったのかが気になる。先にあげた今居武志は「大嘗祭の本義」を、「主として小池元男、小林勤一の整理したもの。」(前掲145ページ)としているが、その根拠としては、次のような記述がある。「彼(小池元男)の在学時代、卒業後にかけての頃は、松本地方で、折口信夫の講習がひんぱんにもたれた年代であった。そうした中で彼の手によって整理されたノートの筆記も幾つかある。「伊勢物語」「年中行事」「大嘗祭の本義」など」(今居武志81ページ)今井はこのノートを見ていたのではないかと思われる。

ところが、角川文庫版『古代研究』に「解説 折口信夫研究」を書いた加藤守雄は、「袖山富吉氏の筆記であったこともわかっているので」(『古代研究』Ⅲ民俗学篇3 角川ソフィア文庫 平成29年)と、別の筆記者の名前をあげている。さらに、「ともあれ、筆記原稿の発見されるまでは、『古代研究』の中にある「大嘗祭の本義」と、信州の「大嘗祭の本義」という講演とを、同一のものと見做す根拠ははないのである。」と述べ、『古代研究』の「大嘗祭の本義」と東筑摩教育会での講演の「大嘗祭の本義」とは、同じ物とは限らないとしている。

さらにややこしいことに、「大嘗祭の本義」と題された折口の論文がもう1篇存在するのである。この論文は、『折口博士記念古代研究所紀要・第3輯』掲載のものが、『マージナル』vol.2(1988.11)に転載され、さらに安藤編『折口信夫 天皇論集』(講談社文芸文庫 2011)に入っている。岡野弘彦の註によれば、原稿の筆跡は16枚4行目までは鈴木金太郎氏、以後は牛島軍平氏のものだという。表題は「大嘗祭の本義」とあり、左わきに、昭和3年10月9ー拾日稿と書いてあるという。

折口信夫がいつの時点で、『古代研究』掲載の「大嘗祭の本義」の決定版原稿を書き上げたのかはっきりしない。原大嘗祭の本義と別稿大嘗祭の本義は、多少の内容の違いはあるものの、かなり似通った内容となっている。

さて、もとに戻ろう。東筑摩教育会での講演筆記なる原稿の所在はわからないが、おそらく教育会の関係者の筆記ではなく、折口の話を聞きなれた弟子筋の人によるものだろうと推測できる。


折口信夫「大嘗祭の本義」再考ー1

2019-07-07 16:33:44 | 民俗学

さて、資料を集めたり別の仕事をしたりしていて、なかなか取り掛かれなかった「大嘗祭の本義」の再考にとりかかります。このブログは、再考メモといったもので、後日ブログに書いた発想を別にまとめるつもりです。よって、話があちこちと跳んでしまうかもしれませんが、ご了解ください。ただ、このところ折口の書いた(口述筆記が多いといいますが)ものを読み込んでいますと、折口という人の文章は思いつくままに、発想の赴くままに書いているので、論理の整合性とか緻密性には欠けていると思います。それが折口なのだといえます。

折口がその主著である『古代研究』全3冊を刊行したのは、昭和4年から5年にかけてです。第1部『民俗学篇1』を刊行したのは、昭和4年の4月10日、第2部『国文学篇』は4月25日、第1部『民俗学篇2』は、翌年の6月20日です。角川ソフィア文庫版『古代研究』の加藤守雄の解説によれば、当初は民俗学篇と国文学篇の各1冊の予定が、民族学篇の原稿が多すぎて2冊としたが、2冊としては原稿が不足していたので書き継いだ結果、1年以上も遅れて『民俗学篇2』が刊行されたという事情のようです。「大嘗祭の本義」は,『民俗学篇2』に掲載されているのです。

『民俗学篇2』の巻末には、「追ひ書き」と「著作年月一覧」があります。追い書きの必要な箇所には後ほど触れるとして、著作年月一覧から「大嘗祭の本義」を見て行きます。著作年月一覧があることからわかりますが、『古代研究』は書下ろしはなく、大部分(草稿とあるのは書下ろしといっていいのかもわかりませんが)は、一度発表ないしは講演したものなのです。「大嘗祭の本義」には、2つの出典があります。國學院雑誌 第34巻第8号  昭和三年九月 信濃教育会東部部会講演筆記 となっています。ここで一つ問題にしたいのは、信濃教育会の講演筆記が元になっているとありますが、その原典はあるのかということです。もう一つは、後で述べるように折口はこの時期に大嘗祭を含めて天皇制に関する論文を多数書いています。『古代研究』掲載の「大嘗祭の本義」はいかにして成立していったのか、大きな興味がわきます。というのは、「大嘗祭の本義」を読み込んでみますと、折口の発想の根源は王権における死と再生であるということができるからです。折口の王権論は、実証性がなく想像に過ぎないと文献史家からは批判もされていますが、文字が残らなければ真実ではないのかと思います。折口の説を傍証する民俗事例も、後ほどあげてみたいと思います。

今回ひとまずここまでで、次回は信濃教育会での講演筆録を追求してみます。