民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

調査資料の利用

2016-10-18 10:06:16 | 民俗学

長野県民俗の会では、『長野県中・南部の石造物』の付録につけた、「道祖神一覧」の増補改訂版として、『長野県道祖神一覧』の作成を分担して進めています。これだけ道祖神についていわれながら、あるいは観光的に利用しながら、長野県下の道祖神を一覧する資料はこれまでに作られたことはありません。むろん、前県を新たに調査して道祖神の所在を明確化するなどということは、膨大な時間が必要ですし、資料集を作るだけで息切れしてしまいます。そこで、既存の報告書を使って全県一覧にするという方法をとることにしました。この場合に、道祖神の一つ一つを確認したわけではありませんから、現実とずれていて「違う」という指摘があることが当然考えられます。そこで、どの資料に基づいているかを明確に示すことで、そうした指摘をクリアーしようと考えました。原資料に責任をかぶせてしまおうとするものですが、出典を明確にするのは研究者としてのルールです。

こうした原則のもと、分担に応じてそれぞれ既存の報告書を探し、図書館などで作業に当たっています。私は事情があって担当者がいない東信地方をやることになり、上田と佐久の図書館に出かけました。ところが、長野県内の他地区の多くの市町村が『石造文化財調査報告』を刊行しているのに、東信で報告書を出している自治体は非常に少ないことがわかりました。そのかわり、特定個人が何年もかけて調査して報告書を出しているのです。ことによると、この調査があるから改めて調査の必要はないと行政は判断したのかもわかりません。その調査はしっかりしたもので、個人による石造物の悉皆調査といえるものでした。前書きによれば、資料集を出すことに意義を感じており、考察はしていないとありました。大きな仕事であり、敬服すべきものと思いました。この資料を使わせてもらい、道祖神の部分を拾えば東信の一覧は、しっかりしたものになると確信しました。ただ、この資料集は私家版で当該地方の図書館にだけあることと、巻末に転載を禁ずると書いてあるのが気になりました。もちろん、出典を明記して引用するわけですし、学問の世界はそうやって資料が利用されて資料は価値がでるわけですから、わざわざ著者に断る必要はありません。しかし、東信の資料の多くをその方に依存することから、事前に了解をしていただいたほうが無難だろうと考え、事務局からご本人に連絡をとってもらいました。すると、あろうことか利用することは相成らんという、きつい返答がありました。出典を明記して使うことに何の問題もないし、研究者のルールに反していないとは思いましたが、相手は研究者ではなく、自分の仕事を囲い込んでおきたいという思いが強いようです。それなら何で公共の図書館になど寄贈したのかといいたくなりますが、本人がかたくなな以上何を言っても無駄だと考え、該当資料集から作った資料は全て破棄し、いろいろな資料の断片をつなぎ合わせる形で、今新たに資料一覧を作り直しています。


CDが読めない

2016-10-17 09:59:57 | その他

1週間前になりますが、長野市の湯福神社の御柱祭りを見に行きました。一眼レフの電池がもつかと心配しつつも、充電表示はまだ満杯の状態でしたので、大丈夫と判断してでかけました。ところが、祭りの行列が整うところから写真をとり、そして動き出して何枚かとっていると、電池がありませんという表示になってしまいました。やっぱりかとがっかりし、仕方なくスマホでの撮影に切り替えて、御柱立てまで撮りました。かなりな枚数をとったと思います。確認してみると、横長の画面ですので祭りの写真としては、結構現場がよくわかるいい写真がとれたと思いました。スマホも馬鹿にしたらいけないななんて考えながら帰途につきました。御柱そのものは、諏訪の御柱とは違い、祭りの行列の練り物の一つだと思われ、都市の祭りの華やかさ、てんこ盛りの派手さなんかを感じました。

家に帰って思いました。かなりの枚数とったから、スマホのハードの容量をかなりくってしまったから、アップして消さなくてはいけないなと思いました。ところが、この時点ですでにグーグルフォトの設定を、アップしたら端末からは自動的に削除するという設定にしておいたことを忘れていました。つまり、フォトを開いてみていたのは、当たり前ですがアップロードした画像だったのです。にもかかわらず、撮った写真を選択して端末から削除するつもりで、クラウドから削除してしまったのです。画像がすべてなくなり、アッと気づけば後の祭り、文字通りの後の祭りでした。

仕方なく、一緒に行った友人に画像を分けてくれるようにお願いしました。すぐにCDで郵送してくれたのですが、今度はそいつを読めないのです。もともと、PCのCDドライヴの調子があまりよくなく、CDを取り出せなくなったり、読み込めないなどの不具合が時々ありました。加えて、W10にグレードアップしたら、DVDの読み取りソフトがなくなったりして、ソフト面の不具合も重なりました。何度も入れなおしてみたり、ソフトを入れたりしてみましたが埒があかず、CDは息子のマックで読んで(ウィンドウズで作った画像がマックでも読めるんですね)ハードディスクに記録して、私のPCに入れることで読み込みました。ですが、いうことをきかないCDドライヴは直りませんので、修理に出せばそれだけで5000円かかりますから、USB接続W10対応ののドライヴを注文したという次第です。


地域一斉清掃

2016-10-16 21:15:11 | 民俗学

他地区はどうかわかりませんが、私の住んでいる市では春と秋に地域一斉清掃があります。何をやるかは、当該地域の町内会に任されています。いずれも、朝6時30分ころから指定された地域の場所を住民で清掃するのです。前に住んでいた戸建ての地域では、道路のわきの側溝の泥をさらいました。今住んでいるマンションでは、地域を流れる川の土手の草を刈ってかたつけるのです。その前に住んでいた地域は、毎月指定日に出て、河川敷の草をとらなければなりませんでした。

朝早くからの仕事ですから、勘弁してほしいと思います。毎月あった河川敷の草取りの時など、6時半からの指定なのに6時少し過ぎると、まるで競い合うように人々は出ていました。時間通りにいけば遅れたみたいでいやな思いをするなんていうのは、何だかおかしなことでした。それだけ同調圧力が強いのです。ところが今はマンション住まいです。マンションだって町会に属し、組もあります。組ごとに何をするか町会から指定があります。私の組は、近くを流れる川の河川敷の草刈りです。マンションは管理費を納め管理人さんを雇っていますから、公用区域は管理人さんが清掃してくれます。そのためか、マンション住人にはオテンマ(御伝馬=公用としての労力奉仕)の意識は、ないか薄いかだと思います。推計ですが、このマンションから河川清掃に参加する人は、20%もいないと思います。近所付き合いはありませんが、私は差支えがない限り年に2回の清掃に参加していますが、一緒にマンションに帰る人は数えるほどしかいません。特別出席をとるわけではありませんが、地域の河川は何らかの世話になっていますし、災害などあれば最悪地域の避難所で世話になるかもしれません。平時にできる労力奉仕は許される限り参加しなければと、私は思います。とはいえ、地域のわずらわしいつきあいを避けてマンション住まいを選んだのも事実です。

一斉清掃に出なさいとは私の口から言えませんしいうべき筋合いでもありませんが、マンションはいずれかの地域に属していながら、住民には地域への帰属意識は非常に薄いという現実は、どうしたものでしょうか。


民俗学を学ぶという事

2016-10-14 09:00:46 | 民俗学

先週の土曜日に、松本にやってきた神奈川大学で民俗学を学ぶ大学院生に、松本の民俗について何か話をしてほしいと依頼され、話をしました。この件についてすぐにアップしたかったのですが、私の属する研究会の今年度の『会報』の編集時期と重なって忙殺されていたため、といっても締め切りに遅れてやってくる原稿を待ったり、来た原稿の手直しをお願いしたりしていたのですが、今日になってしまいました。

院生に話すということで、大きく2つの内容を考えました。一つは、今の時代に院を出たといっても研究職にはなかなかつけるものではありませんから、他に生業を持ちながら民俗学を続けるというのが本来のこの学問をする者の姿であるということ。だから、これから先も民俗学を続けてほしい。もう一つは、長野県という場所が民俗学にとって特別な場所であり、そこで初期に民俗学を始めた竹内利美の仕事をとりあげ、彼が担任した児童の調査をまとめた「本郷村の民俗」を80年後の現在と比較してみること。この2つを話そうと準備しました。

院生たちを前にして、その人員構成にいささか驚きました。20人くらいのうち、四分の一はリタイア後の社会人院生、残りの半分もしくは半分以上が中国人を主体にした留学生、その残りが日本人です。どこの院でもこんな構成なのか、民俗学だからこんな構成なのかわかりませんが、外国人が民俗学を学べば、民族学とどう違うんだろうとか、考え出したらきりがありませんが、日本の民俗学に外国人が興味をもってくれるのはうれしいことです。いったい留学生たちはどうやって授業をうけているのか、そもそも私が日本語で話すことがわかってもらえるか不安でしたが、私の話すことは日本語のわかる留学生が通訳して伝えてくれていました。その講座の先生に聞いてみると、最初は全く日本語がわからない学生が2年もすると、皆わかるようになるといいます。それはすごい学習力ですね。古代に中国に渡った日本人も、同じようにして中国語を習得して中国文化を吸収し、帰ってきたのでしょう。一人、狐憑きについて研究しているという日本語の上手な学生がいました。中国という広い土地で狐の研究したら面白いだろうなと話しました。

社会人の人たち。今本当に学ぶことができると、生き生きとしていました。都市で暮らすという楽しみですね。


日本民俗学会年会参加

2016-10-04 13:30:54 | 民俗学

土日に千葉商科大学で年会があり、仲間と参加してきました。詳しい報告は後日別の場所に書きますが、期待して参加したわけではないので、懇親会で久しぶりに会う皆さんと酒を飲みに行ったようなものでした。

行政との積極的な関係をどう構築するかは大事なことですし、これからの民俗学の生きる道だとは思いますが、学問としての面白さがありません。2日目の研究発表は数は多いのですが、私の聞いた範囲では事例報告ばかりで、そうですかとはいえても、だからどうなんですかと聞きたくなります。考察がないのです。事例報告ばかりでしたが、奄美出身の霊能者の高校時代の経験談は面白いものでした。話者本人のHPもありましたから、これから読むのが楽しみです。

総会では、学会誌の『日本民俗学』への論文投稿が少なく編集に苦慮しているとの報告がありました。こんなにも年会での発表者は数多いのに、そこから生み出される論文が少ないとはどういうことでしょうか。学会での談話会や年会での発表が、発表者本人にとってもつまらないものだという現れではないでしょうか。面白いと思って発表したら、書かずにはいられないはずです。少なくとも、私ならそうです。研究業績の項目にあげるためだけの研究発表なら、こんなつまらないものはありません。あと、わずか1冊800円で民俗の会会報も、信濃民俗特集号も販売したのに、ほんのわずかしか売れないというのはどういうことでしょう。若者の研究分野や関心は針の穴ほど狭く、力もないとしたら嘆かわしいことです。