民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

読み捨てたら大変なことになる

2017-01-29 14:13:02 | その他

 50歳を過ぎたころから老眼が始まり、60過ぎたら老眼鏡なしでは本が読めなくなりました。当然ながら、スマホの文字だって眼鏡なしでははっきり読めません。ところが、もともと目が悪くて眼鏡をかけるという生活をしてこなかったため、つまり老眼になる前は眼鏡などかけなかったため、会議などへ老眼鏡を忘れて出席してしまうようなことは、ままあります。そうしたときは、およその意味が取れる程度でも、見えているふりをしてやり過ごします。大体はそうやってごまかしてきましたが、そんなことをしていた結果ひどい目にあいました。

 上海から帰ってきて東京にマンションを借りて住んでいる息子から、1週間ほどまえに月末に帰りたいが家にいるかというラインがありました。正月に帰ってきたのに珍しいことです。大体がズボラな息子で、メールしても自分に利害関係のない内容だとすごく遅くなって返事をくれればよいほうで、返事なしのことが多く、彼へのメールは届くのに時間がかかっていると親戚の者からも言われている始末なのです。その息子からのラインでしたから、まあ大したことではないだろうし、最近母親の具合がよくないといっておきましたので、心配してみにくるのか、などと思って、何やら書いてあったことを読み飛ばしたようなのです。それに、続けて届いて画面からはずれた文章をスクロールしたりすると、一気に画面が前進したり後退したりしますよね。そして、前に読んでいた所にすぐ戻れない、おまけに老眼鏡かけていなくて音がしてその場でラインのチェックなんかしてしまうと、自分がどこ読んでいたのかはっきりせず、会話と会話の間にある文を読み飛ばしたようなのです。後から考えると。

 夕方、薄暗くなってから駅まで息子を迎えに行きました。ワンセグを見ながら車の中で息子を待っていて、ふっと見るとドアの外に息子がいました。それでも突然でしたからびっくりしましたが、本当の驚きはその後にありました。息子の後ろに若い女性がいるではありませんか。そして、息子に続いて「こんばんわ」とかいって、車に乗り込んでくるではありませんか。えー、そんなの聞いてないよ。夕食の準備も一人増える予定なんてしてない。家の中だって、しっかり掃除してない。しばらくは頭の中が真っ白でした。

 家に入り、妻ももちろんうろたえるのですが。妻は思わず、「そんなこと突然に聞いてないわ」といってしまいましたが、息子がいうには「お父さんにはメールでいったじゃん」というではありませんか。エーそんな、読んだ覚えがないよ。いや、既読になってるよ。ラインを開いて確認してみますと、確かに「もう一人連れていきます」と書いてあります。そういえば、「泊ってもいいですか」と、おかしなメールがくるなと思い、自分の家に帰ってくるんだから「もちろんいいです」と訳のわからない返事をした覚えがありました。てなことで、大至急テーブルを片付けてもうひと席用意しました。そして落ち着いて話をきくと、上海でお付き合いしていた日本に留学経験のある中国の女性が、春節の休みを利用して息子に会いに来たのだということが判明したのです。

 はてさて、いい加減にメールを流し読んでいたおかげで肝を冷やしたのですが、一方でこのハプニングのおかげで、大掃除、おお片付けをしないで、何の用意もしてなくてごめんなさいと謝ってすますことができました。これから先、このお付き合いはどうなるのでしょうか。親としてはなるようになれと、見守るだけです。


真実とは何かートランプ現象

2017-01-27 14:40:22 | 政治
もちろんトランプ現象などという用語はありませんが、自分に都合のよい事しか聞かない、言わないという態度を、そう名付けてみると、トランプ氏に限った態度ではありません。この国の首相にも、同じ態度がみられます。客観的な事実をあえて見ようとせず、指摘した相手を徹底的に攻撃する人は、学校にも社会にもいますが、誰も相手にしなくなります。今回困るのは、そんな人が指導的役割を果たしていることです。誤った事実であっても声高に叫び続けて、真実かと思わせてしまう。こんな風潮が世間にはびこったら、教育は成り立ちません。集団の一人一人が、自分に都合よいことばかりいいあったら、収拾がつきません。国際関係がそうなったら、力で押し切った国の勝という、野蛮な時代への逆戻りです。アメリカ国民はこれから、どんな選択をするのでしょうか。同じ事はアメリカだけの問題ではありません。あの悲惨な戦争と敗戦を、まるでなかったことにして、明治憲法を復活させようとする勢力に、誤りを認めさせなければなりません。


PC環境

2017-01-26 19:27:48 | その他
スマホに替えてから、パソコンを開かないで、スマホで済ます事が多くなりました。ブログはパソコンで書いていましたが、スマホで書いたら便利かと思いました。何しろ文学賞をもらった小説すら、スマホで書いているという時代です。
そしたら、アプリがあるではないですか。よって今初めてスマホでブログを書いています。これからは、調査地でブログがアップできることになりました。しかし、その分本文は短くなると思います。短い分だけ頻繁にアップしたいと思います。

知の巨人ー山口昌男

2017-01-21 17:12:52 | 読書

 学生の頃、民俗学・人類学のブームのような時期でした。古い物がどんどん切り捨てられモダンな建物が建って景観が急激に変化していく中で、これでいいのかという問いかけが生まれたのだと思います。人類学は、マルキシズムに代わる人間を総体として考える学問として、思想界でももてはやされました。その中心にいたのが山口昌男でしたし、民俗学では宮田登でした。山口昌男の著作では何といっても『文化と両義性』が強烈なインパクトを与えました。そして、『人類学的思考』もバイブルみたいに読みました。そして、構造主義、構造言語学、象徴論、現象学などを知り、レヴィストロースの上澄み、英語もフランス語も理解できませんから原書で読むなどということは不可能でしたから、日本語訳が出た著作に限られるのですが、を読んでその新しい考え方に熱狂しました。その頃は、民俗事例の分析はこれから大きく変化していくだろうと思ったものです。その思いを温めて学会誌に書いたのが、「病と他界」でした。

 文化と両義性からは、「中心」と「周縁」という見方を学びました。道祖神が何なのかということが、この本を読んではっきりわかりました。今回図書館でたまたま、『回想の人類学』(川村伸秀による山口昌男の聞き書き 晶文社)を見つけて読んだのです。あんなに熱心に山口昌男を読みながら、山口についてはまるで知らなかったのです。今回読んでみてわかったのは、山口昌男は人類学者になるよりも、漫画家か演劇評論家になりたかったんだろうということ。イラストが何とも上手く、民俗学者・人類学者は絵がうまくないと本物ではないのだと思ったのです。向山先生も民具など上手な絵を描いています。また語学の天才、対談の天才でもあるとわかりました。気になるひとがいると、どこまででも出かけていって対談を申し込んでしまう。そして、どこへでも泊まってしまう。宮本常一はもちろん国内だけですが、コメを担いで行ってどこへでも泊まらせてもらったとか。人に会うこと、知らない土地にも平気で出かけてしまうことができる、これが人類学者の素養のように思います。とにかく、世界中へ出かけてしまう。一時代前の著名な人類学者とは、もちろんレヴィストロースを含めて、面識があるというのもすごいです。ただ、ある種、躁的とでもいえる程世界各地、各大学へ出かけて英語などで講義をしています。それだけに一つの大学の研究室で講義して学生を育てるといった静的な仕事は、性に合っていなかったのですね。だから、人類学の講座のある大学には勤務しなかったのかな、と思います。

 知らない町に家族と出かけて、妻子と一緒に来たことを忘れて自分だけどっかに行ってしまう、何てことが何度もあったようです。天才の天才たるゆえんですね。まじめに勉強すれば学者になることは可能でしょうが、いくら勉強しても、誰も山口昌男にはなれないと感じさせてくれた本でした。


民間病院を行政が支援できないのか

2017-01-20 11:26:46 | 政治

 今日の新聞に、福島県広野町の高野病院は原発事故以後も、高野英男院長の強い意志により、地域医療の中核を担ってきたという。ところが、火災により院長が死亡するという事故にみまわれてしまいました。考えてみれば亡くなられた院長は81歳といいますから、火災という不慮の事故がなかったとしても、病院の存続は難しい局面にあったともいえます。その高野医院が県に譲渡を提案したとあります。

病院を運営する医療法人「養高会」の高野己保理事長が18日、朝日新聞の取材に、3月末にも養高会を解散し、福島県に病院の無償提供を申し出る意向を明らかにした。
 高野氏によると、東京電力福島第一原発事故により医療提供の厳しさが増すなか、高野院長の死亡前から、県に常勤医の派遣などを要請してきたが、「一民間病院だけを優遇できない」と断られてきたという。高野氏は「民間を理由に支援ができないなら、法人を解散して、県に引き渡し、患者や病院のスタッフを守りたい」と話した。

 医療法人を解散して県に寄付するというのは、苦渋の選択だろう。原発事故後という困難な状況で頑張ってきた病院を、民間企業だからという理由で行政が支援できないのだろうか。そういうなら、一民間企業の東京電力に多額の公金をつぎこみ、そればかりか原発反対の人々からも廃炉費用をむしりとる行為は許されてよいのだろうか。民間企業でだめだというなら、東京電力も国営化したうえで税金をつぎ込むのが筋ではないだろうか。小さなものは踏みつぶし、大きな悪は保護するのは、昔から変わらない為政者のふるまいです。こんな理不尽を許していいのでしょうか。 


安保法制違憲訴訟陳述書

2017-01-19 15:11:37 | 政治

 信州安保法制違憲訴訟の原告団の一人に加わっています。第一回の裁判が2月の初めにあります。そこでは原告団を代表して、団長以下数名の原告による意見陳述と、弁護団長の意見が述べられるようです。法廷に入る入らないにかかわらず、多数の原告が裁判所に集合した方が、裁判官に声の大きさを伝えることができるというので、私も行こうと考えています。それに先立ち、裁判の証拠となる「陳述書」を書きましょうという呼びかけがありました。むろん陳述書など書いたことがありませんが、戦争になってほしくない、戦争に巻き込まれるような法制は反対だという気持ちを以下のように書いてみました。イラストでも写真でもかまわないといいます。

 戦後に生まれた私には、戦争の記憶はありません。戦争の記憶といえば、駅やお祭りなど人が大勢集まる場所に、白い着物を着て手や足などに包帯を巻いた「傷痍軍人」が立っていたことです。父は志願して海軍に行きました。戦争の話を好んで語るということはなかったのですが、大人の男たちは酒を飲むと、戦時中の話をしていた覚えがあります。中学生・高校生になって気になったのは、客観的に考えて勝てるわけがない戦争にどうして皆が突き進んでしまったのか、どうして戦争に反対しなかったのかということでした。大学生になって更にこの思いは強くなりましたので、父を問い詰めました。「何で戦争したのか?」尋常小学校を卒業しただけの学歴の父でしたが、「あの頃は、みんな戦争すれば勝つと思っていたし、反対などできなかった。」といいました。世の中全体が戦争しようという雰囲気だったから、反対はできなかったというのです。他人事のような返答に私は腹を立てました。一時期、何でも周囲に流されるような父たちの世代を、本当に嫌いになりました。そして思いました。あんな風にはなりたくないと。もっとましな大人にならなければいけないと。 

 私は中学校の教員となりました。特別に学生運動をしたわけでもありませんし、組合活動をしたわけでもありません。ただ個人として、生徒に誤ったことは教えてはならないし、親たちのように周囲に流されるような生き方をしてはならないと思って教壇に立ってきました。憲法第99条では、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と定めています。私は、法に則り公務員として自分が日本国憲法を遵守することはもちろんですが、社会科の教員として日本国憲法の三大原則を大事にして生徒に教えてきました。願っていたのは、落ち着いて学習ができる「平和」が続くことと、生徒が戦争に行かなければいけない状況を作り出さないこと、平和を守り戦争に行かない生徒を育てることでした。 

 ところが、敗色濃くなるや、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と言い換えた戦前の大本営発表をなぞるように、「平和のために」と言いくるめ、立憲主義を無視して「安保法制」が成立しました。この法は再びこの国を戦争の惨禍に巻き込むものです。白い物を黒いと強弁する政府には、深い悲しみを感じます。ここで思われるのは、戦争へと突入したあの父たちの世代の生き方です。私がひどく腹を立てたように、今度は息子たちの世代から自分自身が非難されることとなってしまうのでしょうか。こうしている中でも、南スーダンに派遣された自衛隊員は一触即発の戦争の縁を歩かされています。一体何をしていたのかと後世の人々に言われるかと思うと、悔しくてなりません。平和を守らなければならないと教えた生徒たちへの重い責任も感じます。今回の安保法制が私に与えた苦痛は、私のこれまでの生き方をひっくり返すようなものでした。


松本市和田和田町の道祖神祭

2017-01-17 16:12:03 | 民俗学

 松本市和田和田町の道祖神の前を通ると、写真のような小祠が作られていました。高さ二メートルほどの4本足の台の上に祠を乗せてあります。多分道祖神の関係のものと予測しましたが、近所で何か聞いてみました。

私:そこにやぐらを組んでまつってある神さまは何ですか」
「あれは馬頭観音だとかいったよ。道祖神のお祭りじゃない。向こうに馬頭観音があるし。7日に作って1か月くらいああしておくの」

私:四つ辻に高く作って祀ってあるのは何ですか
「あれは鳥追いの神様だっていうよ。道祖神じゃない」 
私:鳥追いの神様って何ですか。
「昔さ、作物に害虫や鳥がつかないように鳥追いをしたんだけど、それをまつったの。私あんまりくわしく ないから、向かいのNさんに聞いてください」

 どうも道祖神関連のものとはおばさんたち二人は認識していません。馬頭観音の祭りとは思えないし、鳥追いで神様祀る所なんてないし、Nさん宅を訪ねました。

私:あの辻に作って祀ってあるのは何ですか
「あれは道祖神を祀ってある。昔は14日に作って20日まであった。足はもっと太い丸太で、周りに提灯を飾り上にくす玉のようなものをつけてあった。それで、その玉を夜中に最初にとった人にその年の福が来るなんていったね。若い衆のやった行事だ。その時に力石を持ち上げて競争したようなことを聞いたね。ムラの人もお参りにきて、昭和5,6年ころは賑やかな祭りだった。14日の夕方から夜には、結婚したとか子どもが生まれたとかいうめでたいことのあった家を「祝っとくりや」といって回って歩いた。ご祝儀をもらうと「福の神舞こめ」と唱えた。5時ころから回って11時ころまでかかった。その夜は公民館に泊まった」

 道祖神の祭りは男だけの行事ですから、おばあさんたちに聞いても、まして他所から嫁いできた人にはわからないでしょう。この道祖神祭りのことは、『長野県中・南部の石造物』の107ページにありました。

 道祖神の祭礼は1月14日の夜、町内の小学校6年生までの子ども達が、太鼓を叩きながら町内を一巡し、家々の安泰や災難厄除けなどを祈る。その折家々より祝金などを受ける。そして三九郎は1月15日、町内の子ども達によって行われるが、40数年前から女の子も行事に参加するようになった。
 また子ども行事とは別に、1月15日町内の大人役員が出動して、道祖神前に木枠でやぐらを組み、祭壇や祠を設けて飾りつけをし、神酒や供物をして参集し、祭礼する。昔は16才から20才までの青年が行事を担当し、御幣や福袋を作って町内をめぐり、婚礼や出産等縁起の良い家々で志を受けたり、町内の平安を祈って祭典を催したとのことである。

 情報が錯綜していてわかりにくい部分があるが、道祖神の祭りとして、子供組と若者組が別の行事をやっていたことがわかります。子ども組の行事としては、東信の獅子舞を思わせるようなことをしていますし、同時に若者組が道祖神を祀っているのも面白いです。記憶が入り混じって、時代的には別のものが同時期として語られている可能性も否定できません。

 14日から15日にかけておこなわれていたこの行事ですが、三九郎が今年は7日に行われたために、枠を組んで祠を祀るのも7日から始まっているようです。昔は14日に飾って20日正月には片づけたといいますが、さて、今年はいつまで飾られるのでしょうか。三九郎が動くことで連動し、小正月が無視されてしまった行事の一つがここにもありました。 


廃れ行く「小正月」

2017-01-16 17:09:46 | 民俗学

 1月14日から15日にかけてを小正月とかワカドシとかといいます。小正月は12月31日から1月1日にかけての大正月に対する呼称です。一説によれば、古くは小正月が年取りであったものが、大正月に移行したのだといいます。それは、文字にした暦がないころ人々は月の満ち欠けで日を定めていた。月の満ち欠けで分かりやすいのは満月だから、1月の満月(15日)を1月1日としていたと考えられます。すると、1月14日が年取りとなるのです。文字暦が普及して15夜から1日にに新年が移行すると、年神を迎える儀礼は大正月に移行しましたが、作神を祀ってその年の豊作を祈る儀礼はそのまま変更しないで残りました。それが小正月におこなわれる諸行事だと考えられます。ところが、その小正月の行事が行われなくなりました。具体的には、大正月に松に付けて迎えた歳神様には小正月におかえりいただき、かわりに作物の豊作を祈るために作ったモノヅクリを飾るのです。モノヅクリとは、稲や粟がたわわに稔った様を作った、イネバナやアワバナ・マユダマ、米俵のように作ったホンダルなどがありました。

 ところが、粟は作らなくなり、コメは余るから作るなといわれ、繭は化学繊維に太刀打ちできずに飼育しなくなりました。そうすると、豊作を祈る意味がなくなり、小正月の儀礼は次第にやらなくなりました。松本近辺で遅くまでやられていたのは、マユダマを作ることでした。これは松本近辺で子どもたちが行う三九郎と呼ぶ小正月の火祭りに、マユダマと呼ぶ米の粉で作った団子を柳の枝に刺したものを持ち寄り、火をたいたあとのオキで焼いて食べるという習俗があるため、子どもに持たせるマユダマはどうしても作らなければいけなかったのです。ところが、ハッピーマンデイが導入され、連休に引きずられて三九郎の日も流動的になりました。結果、小正月に作られたマユダマは三九郎の日に作られるようになり、小正月の行事からは離れてしまいました。それでも、マユダマを作るという習俗は今も継続しているのです。ちなみに松本辺では今年の三九郎は8日に行う所が多く、小正月を待たずに年神様にはお帰りいただくことになりました。

 写真は東御市滋野で1月14日にできたものです。ここでは、小正月の火祭りを「どんど焼き」といい、1月15日の朝、各家庭で注連飾りを村はずれに持ち寄って焼き、その火でマユダマを焼いて食べていました。子ども組の行事ではなかったわけです。そんなドンドヤキですが、今年は14日、15日が休日だったせいか、14日に公民館の庭に松飾を持ち寄るようにとの回覧がまわって、できていたのがこれです。いかにも、報道で見る三九郎ぽいものができています。竹を周囲にめぐらして注連縄で結び、中に松をいれてあります。三九郎に似せたと思いますが、心棒となる木はありません。来年からどうなるかわかりませんが、新しい行事が創造されたのです。それもきちんと小正月を意識した日に行われているのです。大きく報道され、子どもの大きな行事である三九郎が、土日が小正月に重なったにもかかわらず、小正月ではない成人の日を意識した8日に行われ、各家庭から松を持ち寄って焼くだけの東信の「どんどやき」は、昔どおりの日に行われたというのは、本当に興味深いことでした。

 


青木理著『日本会議の正体』読了

2017-01-16 17:08:28 | 読書

 かねてから気になっていた「日本会議」です。この本でもいうように、これだけその主張が現政権にコミットしているにもかかわらず、マスコミはほとんど報じないどころか、国民の大部分はその実態どころか存在すら知らないという不気味な団体に、よくぞメスをいれてくれました。

 本の内容を詳しく解説するなら、読んでもらったほうが良いですから、私の感想を書いてみます。まず、明治憲法を復活させて、天皇主権・祭政一致を真剣に実現させようとする人々がいることに驚きました。本書では、日本会議の主張を以下のようにまとめています。

 日本会議の中枢にいる人びとを知る関係者は、その執念や粘り強さの背後には「宗教心」があると指摘した。新興宗教団体・生長の家に出自を持つがゆえの「宗教心」。また、日本会議そのものが神社本庁を筆頭とする神社界などの手厚いバックアップを受けているため、その「宗教心」に裏打ちされた運動や主張は、時に近代民主主義の大原則を容易に逸脱し、踏み越え、踏みにじる。
 天皇中心主義の賛美と国民主権の否定。祭政一致への限りない憧憬と政教分離の否定。日本は世界にも稀な伝統を持つ国家であり、国民主権や政教分離などという思想は国柄に合わない―そんな主張を、たとえば日本会議の実務を取り仕切る椛島は、平気の平左で口にしてきた。それは同時に、日本会議の運動と同質性、連関性を有する安倍政権の危うさも浮き彫りにする

 生長の家の関係者が日本会議の中核を占め、それらの人々が安倍政権の理念を構築してしているのだといいます。生長の家の宗教心とは何なのかよくわからないのですが、天皇教の信者といってもよいでしょうか。天皇教の信者を否定するものではありませんが、それを国教として国民に強要するとしたら、北朝鮮やイスラム国、サウジアラビアと何ら変わりません。この信者は先の大戦での敗戦という歴史的事実は、全くなかったものとして忘却し、侵略戦争をこの国が戦ったことも、相手が悪かったからやむを得ない戦争であったと、心底信じているようです。都合のよいことしか見ようとしないのは世界的傾向であるとはいえ、何が真実かを教えない教育はオレ様を育てるだけです。


在宅介護ということ

2017-01-16 17:04:31 | その他

 妻の母は認知症で94歳になります。一人暮らしですが、デイサービスとショートステイを利用し、夜は妻と妻の妹が交代で泊まり込んで介護しています。その義母が1週間ほど前にインフルエンザとなり、まずいことに介護していた義妹も罹患してしまいました。妻は腰を痛めてずっと治療していますので、義妹は何とか頑張っていたのですが、あまりにも無理なので休養してもらうため私がヘルパーとなって妻の実家に一緒に来ています。60代半ばの老人が90代半ばの老人を介護しているのです。介護者も病を抱えたり抵抗力も弱いので、いつ共倒れになるかわかりません。今回は夜中におきてトイレの世話のヘルプをしたりしていますが、食事の世話はともかく、夜中のトイレの世話は、しかも毎晩というのは大変なことです。夜間の世話は今回が初めてでしたが、その負担がよくわかりました。服の脱ぎ着や移動に力が必要です。介護者も腰痛になります。こんな在宅介護が日本中で行われているのでしょう。しかも、介護者が一人の場合自分が休むわけにいきませんし、自分が動けなくなった先を考えたら何の見通しもたちません。

 妹のインフルエンザと自分の腰痛という状況の中で、限界を感じた妻は特養の申し込みの準備を始めました。できる限り自分たちでみたいと思っていたのでしょう、施設入所は検討してこなかった妻たち姉妹ですが、さすがに今回は無理だと考えたようです。しかし、ぎりぎりまで在宅で頑張った場合に施設入所がすぐあるかといえば、申し込みして待っている人が既にたくさんいます。本当にギリギリになった場合、共に死ぬしかないという選択を考えたとしても不思議ではありません。息を引き取るまで自分の意思決定で生存したいとは思うのですが、現実にはそうはいきません。そうすると、長生きして何がめでたいのだ、ということになります。在宅介護がいい、家で死にたいといいますが、そんな選択ができるのは。これからは極限られた幸運な人だけの話だと思います。今月中には施設入所の手続きをいくつか提出するのですが、いつそれが実現するか、今年は高齢者の仲間になる自分たちの体がいつまで介護をできる状態でいられるか、綱渡りのようなものです。