民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

もう一人のJ君

2015-05-25 18:04:18 | 教育

前回書いたJ君は、最後に担任したクラスの生徒でした。今度は最初に担任したクラスのJ君です。J君は軽度のダウン症でした。J君が通常学級に属するについて、どのような話があったのかは担任となった私もわかりません。とにかく、中学1年生から私のクラスの一員となったのです。彼のいた小学校には、特別支援学級がなかったから通常学級に属していたことと、前の年の1年間、私は新卒で特別支援学級の担任をしていたことなどが、関係していたのかもしれません。

J君は理解に時間がかかりましたし、定着も難しかったのですが、何でも一生懸命でした。発言もよくしました。指名すると懸命に自分の言葉で語ろうとしました。同じ小学校だった生徒は彼のことをわかっているので、普通にクラスの友人として接していました。ところが、もう一つの小学校出身の生徒にとっては、つきあいかたがわからなかったり、時には差別的な言動がでたりしました。その都度新米教師の私は生徒と話し合い、一人の人間として対することを求めました。うまくいった時もありますし、どうにも分かり合えないこともありました。それでも、求める物は互いの「思いやり」でした。そうです。クラス目標は3年間「思いやり」でした。

J君は体力もなく、遠足やクラスマッチの翌日は休みました。冬にはよく風をひきました。それでもクラスにはどんどんなじみ、仲間からはJボーと呼ばれていました。私のクラスでは、どういうわけか、友達に愛称をつけてそれで呼び合うことが多かったのです。彼もそうした仲間の一人になっていたということです。

そして卒業の時期がきました。彼は卒業したら家で生活することになっていましたが、春休みにお父さんと一緒に私の住宅におみえになり、J君の健康のことを考えて暖かな四国に移住して農業をして暮らすといわれました。お父さんは教員でしたが、早期退職されての決断でした。その後、J君には一度も会っていません。どんな暮らしをしているのか、今も元気なのかと時々思い浮かべています。


J君のこと

2015-05-23 09:12:53 | 教育

J君は小学校5年の途中にアルゼンチンからやってきた。お父さんは日本の方で、お母さんはアルゼンチンの人でした。小学校では、日本語を中心に勉強し、中学校に進んで私のクラスに属しました。日本語の日常会話は困らないだけになっていましたが、中学校の学習には大きな困難がありました。特に国語と社会科はチンプンカンプンといってもよかったのです。テストをしても、教科書を読んでも、何を聞いているのか何を説明しているのかわからないのです。英語と体育は得意でしたが、学習言語習得の難しさから、投げやりになったり、友人関係にも問題を生じてしまうこともありました。今から20年以上も前ですので、公的な日本語教育のシステムなど整ってはいませんでした。日本語がわからないのは本人の責任ではありません。何とかしてやらなければいけませんが、J君にだけ関わってばかりもいられません。困った私は、退職した知り合いの先生にボランティアで日本語の家庭教師をお願いしました。1年の秋ころか、2年になってからだったでしょうか。J君は喜んでではなかったと思いますが、週に何日かT先生の家に通い日本語の習得に努めました。口の悪いT先生は、J君の国語指導や生活指導を、厳しく愛情をこめてやってくれました。お前は何のために勉強するんだ、勉強以外に将来を切り拓く道はないのだ、日本で生活していく気が本当にあるのか、等等。

もともと人懐こいJ君は、どんどんクラスになじんでいきました。彼を支えてくれる友達もいました。3年の秋に事件がありました。中学校では秋に文化祭があります。その中学校は学習発表会と呼び、高校の文化祭のような派手なものではなく、日々の学習の成果を見てもらうのだという姿勢を堅持していました。そのため、クラス展示を飾りたてることを戒めました。ところが、すっかりクラスになじみ自分のクラスがかわいくてしょうがないJ君は、自分の意志で色々と教室を飾ってしまいました。それを知った担任の私は、あれだけ言ったのにどうしたことだとJ君をしかりつけました。J君も自分のクラスによかれと思ってやったことでしたので、怒りがおさまりません。コンクリートの壁を拳で何度か殴りつけました。翌日J君は手に包帯をしてきました。骨折してしまったのです。ああ、自分の指導の仕方がまずかったと反省しましたが、後のまつりでした。

J君は公立高校に進学できました。そこからは、よくわからないのです。その後成人式で会った生徒から、J君はアメリカの大学に行ったとききました。頑張ってほしいなと思いましたが、私などの出る幕ではありません。そのJ君のお母さんが、たまたま今の私の勤め先の近くにお勤めだと知り、恐る恐る会いにいってきました。恐る恐るというのは、まっすぐに進んでいてくれればうれしいが、そうでなかったらどうしようという思いがあったからです。お母さんからは、J君は頑張ってアメリカの大学を卒業し、日本に本社のあるF通のアメリカの会社に就職し、カーナビのデザインをしていると聞かされました。おまけに、結婚してフランス人の奥さんがいると。何とすばらしいことでしょう。お母さんには、先生のおかげで頑張れたと随分感謝されましたが、そうじゃなくてJ君が本当に頑張ったのです。そして、何と来月日本に1週間ばかり帰ってくるので、会ってほしいといわれました。なんということでしょう。こういうのを、虫の知らせというのでしょうか。楽しみに再会の日を待ちたいと思います。


故郷とは何か2

2015-05-22 06:40:27 | その他

前回「故郷」とは何かとかきましたが、もっと厳密に言えば「イエ」とは何か、かもしれません。

今年の企画展では若山牧水をやろうと学び、準備しています。昨日はそのための資料調査で、長野県ではというより牧水の結社「創作社」で牧水の一番弟子だった中村柊花のお孫さんにお会いし、資料を見せてもらってきました。柊花は一人息子でしたが家を継ぐことを嫌い、かといって東京へ出てしまうこともかなわず、というかそこまでして親を棄てるような行為はできなかったのでしょう、養蚕教師として長野県内各地に赴任し歌作を続けます。33歳の時親が老齢化してしまったため、やむなく家に入って農業を継ぎます。これを本人は蟄居といっています。一方、牧水は早稲田で学んだ後は宮崎の家に帰るはずでしたが、卒業するも家に帰らず、父親の危篤に際して呼び戻され、1年ばかり郷里で過ごすも、結局家を棄てまた東京へ出てしまいました。家を棄てた牧水と家に囚われた柊花は同じ苦しみを分かち合う師弟として、よき飲み仲間だったようです。

柊花が家に入ったおかげで、牧水を招いて他の人も含め、2日で2斗の酒をあけたという座敷は今もそのままの状態で使われているのです。柊花が家を棄てれば、今頃は家系も絶えてしまっていたかもしれません。これをどう考えればいいのでしょうか。


限界集落と故郷

2015-05-20 18:01:14 | その他

私は、父が強固な地縁血縁関係で結ばれた地域社会の縁の部分に求めた土地で育ちました。祖父が住み着いた村だとはいっても、祖父の住み着いた集落とは離れた集落の土地でしたから、縁もゆかりもない地といっていいでしょう。住み始めた時は周囲に家はなく、畑の真ん中のような場所でした。血のつながった家はなく同年齢どころか数えるほどしか周囲に子供はいなかったのです。平地なのに山の一軒家に住んだようなものでした。多分そんなことが影響したのだと思いますが、生まれ育った地への愛着がありません。まわりに移住者がいる団地のような地域で育てば、それはそれで故郷感も育まれたかもしれませんが。育った場所が、いつかは帰るべき場所だとか父祖の地などとは、まったく思われないのです。ただ、周囲に山が見える場所には愛着があります。山を見て暮したいとは思います。だから、自分の故郷は、あえて言うなら長野県だといえるのでしょう。

 何でこんなことを考えるかといえば、空き家にした実家をどうするかいつも頭の隅にあるところへもってきて、『限界集落の真実』(山下祐介著・ちくま新書)と『こども東北学』(山内明美著・イーストプレス)を読んだからです。2冊あげたのはどういうことかといえば、2冊を同時に読むという読み方を内橋克人さんの本で知り、可能な限りそうしているからなのです。2冊の主張がコラボして、新しい発想が生まれるのです。上記2冊をなぜ選んだかは、本棚の未読の本から何となく選んだというものです。

 『限界集落の真実』は、限界集落の主張はまるで高齢化率の高い中山間地の集落はみんななくなってしまうかのように唱えるが、それは行政の効率化を図ろうとする政策的誘導であって、実際に限界集落といわれるムラはそうではない。少なくとも現在は年はとっても住民は困っていないし元気である。また、表面的に集落が消滅するかに見えても、長男長女のイエを守るという意識は強く、集落の周辺で暮らしていたり、いずれは村に帰ろうと思っている人もいるから、簡単にはなくならない。故郷に対する愛着心は、まだ強くのこっているのだ、といった主張です。簡単にいえば、故郷はいいものだから人はそう簡単には捨てないというのです。

 『こども東北学』を書いた内山さんは、東北のイエ意識が色濃く残った山の中の村で育ったようです。東京へ出ようにも家を捨てるようで出ることができない気持ちや、東京へ行けば行ったで、自分が東北出身だとは人に語れない恥ずかしい自分のことなどが書かれています。東北は自分の根であり、中央にいつもからめとられた歴史にやりきれなさを感じていますが、だから故郷に戻って暮らそうとはいっていません。捨てようにも捨てられない故郷や親といった、どうにもやりきれない思いで実家とつきあっているのに、故郷を愛する意識が限界集落を消滅から救うみたいな山下さんの考えは、都市に住み続けることを前提とした研究者の、残酷な善意が作り出したものだと思われます。年をとってから山の中で暮らすというのは、そうした暮らしのスタイルに体が慣れていればいいのでしょうが、そうでなかったら大変なことです。故郷とはそんなにいいものでしょうか。義務として帰らざるをえないと考える人があるとは思いますが、好んで回帰しようとは思わないのではないでしょうか。

 限界集落は、今そこで元気に住み続けている人たちが亡くなったら、消滅するものと私は思います。それは過去も繰り返してきた歴史の必然ではないでしょうか。山中で江戸時代ころの家の跡地はいくつも見ることができます。


政治の言葉と私たちの言葉

2015-05-16 18:38:16 | 政治

 先の大戦で大本営は負け戦を認めようとせず、撤退を「転戦」といいました。満州侵略を認めず、満州は日本の生命線であり、それを守るのだと言いました。今の政権は、集団的自衛権の行使は、戦争をするためではなく平和をまもるためだといいます。閣僚の奥さんたちが、政府の説明を聞いてもわからないといっているそうです。これはどういうことでしょうか。

 私たちが日常に使用している言葉は、できるだけわかりやすくして自分の真意が正確に伝わるようにと思われたものです。つまり、意味する「言葉」と意味される「中味」が、情報の発信側と受信側とで齟齬がないように、共通のコードを使用しようと努力します。共通のコードは世間で誰もが普通に使っている語と文法に依拠しています。

 ところが今回の法案は、意味するものと意味されるものが意図的にズラされているので、文章を読み説明を聞いても理解できないものとなっています。新たな用語を作って、その意味するものを、そのままの言葉の意味を無視して定義するから、訳がわからなくなります。たとえば、戦争の準備をして相手を威嚇することを、「平和」と名付けるようなことです。言葉の意味する内容を意図的に変更してありますから、いくら国会で論戦しても議論はかみあわないと思います。かみあわない議論の時間を積み重ねた上で、十分議論したとして多数決で法案を押し切るのでしょう。いつからこんな国になってしまったのでしょうか。中国との間の宣戦布告のないズルズルとした長期戦への突入、そしてやけっぱちの日米開戦もこのような状況で知らず知らずのうちに引き返せなくなってのものだったのでしょうか。馬鹿な国民のせいなのですが、その中に自分もはいっています。

 「絶対に戦争をするための法案ではなく、確かな平和を構築するためのものだ」といっている安部は、将来戦争になったときにはどんな責任をとってくれるのでしょうか。戦場に送る自分の子供がいない気楽さが言わせているとも思いますから、これからどれだけ年をとろうとも生きている限り、彼には最前線に身を置くことを約束してほしいものです。


民俗学はナツメロかも

2015-05-08 10:18:24 | 民俗学

テレビがほとんどつまらないので、BSのチャンネルを意味もなくチェックしていくと、ナツメロつまり懐かしのメロディーを、本人もしくは別の歌手が歌うという番組がけっこうある。昔は、盆とか正月にそれこそ懐かしのメロディーというタイトルの歌番組があるくらいだったが、今はチャンネル数が増えたことや製作費が安く済むこともあるのだろう、季節ものといわず年中あるようである。
昔のナツメロといえば、親たちが若いころに流行った歌、自分は子どものころに聞いた歌だった。春日八郎・三橋道也・村田英雄・双葉百合子・田端義男などが定番の出演者だったろうか。美空ひばりは別格で、死ぬまで死んでからも現役といった扱いで、ナツメロとしては浮かんでこない。ところが、現在のナツメロといったら何だろうか。ある限定を加えるならば、私たちつまり60代・70代が若者のころ流行った歌ということになる。そうすると、歌謡曲では御三家、新御三家とかいわれた歌手がいるが、多分それは70代の皆さんの思い浮かべるナツメロで、60代になるとグループサウンヅやフォークソングがナツメロとなるだろう。つまり、「ナツメロ」といっても世代によってイメージする歌はかなり異なっているのである。懐かしのメロディーもジャンル分けしないと、一括りにはできなくなっている。

では、民俗学と言った時にイメージするものはどうだろうか。民俗学は聞き書きによって再構成できるくらいの、近い過去の生活史を研究対象としているといってよいだろう。そうすると、学問だから厳密に定義されてよさそうなものだが、20代の研究者、30代、50代、70代と言った世代の異なる研究者が聞き書きで構築する、あるいは構築しようとする生活の姿は当然異なってしまう。おそらく生活像のプロトタイプは自分が育ったころ、自分の生活感覚を形成したころのものにならざるをえないだろう。それがまずは私の民俗なのだ。そうすると、同じ「民俗学」をしているかに見えて、実はそれぞれ別な「民俗」学をしているのではないかと思われる。ナツメロといっても世代によってまた個人によって、イメージする楽曲が異なるように。


先手必勝

2015-05-02 19:18:46 | 政治

この鬱陶しい時代状況はどうだろう。ニュースでは、やたらと安部の肉声が聞こえてくるし、政権批判をしたとコメンテーターが首になる。与党は次々にマスコミに牽制球を投げてくる。与党寄りの言説も持つ文化人の声が、気が付くとあちこちから聞こえ、政権批判の声がかき消されてしまっている。株高の影響など関係ない人たちが、あたかも自分のことのように喜ぶ声が報道される。日本中がアベノミクスを称賛しているかのように勘違いさせられる。この世論の誘導手法、そして外国に先に約束して認めなければこの国の信用問題かの状況を作ってからの国会審議。こうしたあざとい政権運営は、祖父を崇拝するお坊ちゃまにできるとは思えない。きっと陰で糸ひく黒幕がいるはずだ。向こう側のプランの方が数歩いやかなり先を歩んで布石を打ってあり、庶民が気が付いたときには後の祭りである。国民もなめられたものだ。それというのも、明確な反自民といった勢力がみつからないからと、半数近くが投票にいかないからだ。半数が反対していても意思表示しない限り賛成とみなされてしまう。このまま改憲へと雪崩込んでしまうのだろうか。政権の思惑の先の先を読んで立ち回らないと、我々では対抗できないところに追い込まれてしまうだろう。