一般には見えない物をみる、あるいは見えない物をある物としてふるまう。その見えない物を形として、あるいは言葉として示す。それが民俗学の一つの目的だとしたら、行者といわれる人たちがやってきた、やっている仕事と同じではなかろうか。最近、そんなことを考え、憑き物についてや修験道関連の本を読んでいます。
目に見えないウィルスとこれから先どうやって付き合っていくのか、コロナ後の社会生活のありかたが話題となっていますが、見えない存在をあるものとしてふるまうのは、想像力の問題です。その想像力が悪意に向かった極限が憑き物のように思います。四国の犬神憑き、中国の狐憑き(人狐)、上宝周辺の牛蒡種、中央高地のイズナなど、一定のエリアで流行した憑き物がありました。しかも、家筋で伝わるとする質の悪い伝承です。その理由付けに大きくかかわったのが、行者・修験者であったと思われます。病気や不幸なできごと、富の浮沈などを神の名前や架空の動物の名前をだして、訳知り顔に解説し何がしかの祈祷料をとる。一般人には見えていない物を自分は見えるのだと主張し、尊敬と畏怖を得る。ひどい話ですが、多くのまともな宗教もそんな素朴で怪しげな行為から始まったのも事実です。かつて御嶽講の先達に、寒行で真夜中に水をかぶっているときに、木の上を天狗が飛び回るのを見たと聞きました。父からは、御嶽に登拝の途中、神がかりになった行者からすぐ下山しろというお告げを受け、下山したおかげで大きな落石に当たらずに済んだという話も聞きました。まともな修験もいます。
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