民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

国際化への文化人類学の対応

2015-07-29 18:12:26 | 民俗学

関根康正 「ある危機からの構築にむけて―「21世紀の日本文化人類学会の国際化とグローバル化」に関する問題提起―」『文化人類学』79-4

 この論文には、文末に関根個人の見解で学会会長として学会の意思を代表するものではないと断りながら、文科省が迫る国際化というものに対応せざるをえないが、本筋ではどう考えるべきかという苦々しい思いが吐露されています。民俗学会では学会の中枢部にはこうした本筋論がなく、文科省の物言いにそのまま乗っかって、遅れている日本民俗学を国際的に通用する学問にしなければいけないといきまいているように思えます。

 それはさておき、民俗学などからみるとはるかに国際化が進んでいるかにみえる文化人類学会では、どんな対応を考えているのか問題提起から見てみましょう。

 今、外圧として国際化が2つの面で求められているといいます。一つは、文科省の誘導による学会誌の徹底した英語化による国際化、もう一つはグローバルスケールの人類学の国際組織の活動の活発化への対応という国際化の二つだといいます。これを危機と受け止めて会員に問題提起をしたいという趣旨です。よくわかります。

 少子化による研究教育機関の縮小傾向と学問への性急な社会貢献の要請傾向の重なりの中で、課題は研究機関のポストを守る事で、そのためには人類学の学問としても社会的重要性と存在意義を自己言及的に表現することが必要だといいます。ここまではっきりと大学におけるポストを守ることだといわれれば、潔すぎていいようもありません。ただ、ここから先の議論の立て方が民俗学とは違います。「ここでの私の問題提起の立場は、英語化を中心に国際化できない学問、すなわち国際競争力を持たない学問には社会的に存在意義はないのではないか、消滅の方向に行っても仕方がないのではないかというやや表層的で荒っぽい社会的プレゼンスについての性急な考え方に対して適切に意義申し立てを行おうとするものです」とあります。国際化の名の下に「マイナーな存在を自己責任を果たせない欠格存在だとして目もくれないような態度を、人類学の学問世界に持ち込むことは、間違いなくこの学問の自壊を意味します」とまでいいます。学問の対象に向かう態度としてマイノリティーをこそ正面に据えていかなければならないのに、学会内部でマイノリティーを切り捨てていたのでは、研究のありかたとして不誠実だということになります。大学に在籍しない研究者(そもそもこんな定義はないようですが)が多くを占める日本民俗学会では、なおさらこのことは言えると私は思います。とはいいながら、文化人類学会としとしては国際化、ざっくりいえば英語化に対応しつつも、本筋は違うよというのです。

 柳田・折口・南方らの学問的蓄積から始まった日本の人類学は、そこへ接ぎ木のように欧米の人類学理論をのっけて学問を維持してきたが、だからと言って研究成果を英語で発信し学問の輸入超過を是正せよというのは、安易に英語圏に迎合してオリエンタリズム的構造を再強化するだけのことだというのです。「自立した日本語のアカデミックな空間が存在できたことは、望んでもすぐできるものではなく、むしろ素晴らしい私たちの蓄積と財産なのではないでしょうか。それぞれの言語風土での固有性と妥当性を持って成長してきたまっとうな学問状態とみなすことは十分可能でしょう。ところが、現今はこのような状況を、言語的閉鎖性による学問的停滞、あるいは国際競争力のなさとネガティブにみなす向きが強まってきています」という。そして「単純な国際化、つまり西洋知のモードへの平準化の中で失うものはあまりに大きく、取り返しがつかない結果を招きます」と、警告しています。なぜ単純な英語化が唱えられるかといえば、「社会科学に巣食っている権力=知としてのオリエンタリズムの故なのだ」といいます。

 結論としては、「日本のローカル人類学を自己否定的に世界化するのではなく、むしろ積極的に再発見しグローバルな文脈で再提示していく努力、いうなれば私たちの人類学史を書く努力、私たちのグローバル人類学史を書く努力を自覚的に始めるときが来ているのではないでしょうか」とまとめています。

 はてさて、民俗学はここから何を学べばよいのでしょう。まずは国際化を推進しようとしている先生方の、「国際化」とは何なのか聞いてみたいです。


芦之久保道祖神

2015-07-28 17:47:51 | 民俗学

  

朝日村古見の芦之久保という集落があります。そこの道祖神が2回、ないし3回の盗難にあっています。現在ある道祖神は最後の、天保14年に建立されたものなのです。それが最初の写真でかなり大きな物です。今度こそ盗まれないようにと、大きな物を作ったのだといいます。この経過については、裏山の神明宮の250年祭に合わせて造られた道祖神の由来に記されています。また、この道祖神の裏面には、正徳5年(1715)に最初の道祖神を建立し、寛政7年(1795)に小坂村山口に盗まれ、11月に再建立したしたところ、天保13年(1843)に本洗馬村上町に盗られ、天保14年(1843)に再々建立したと刻まれています。また、文書として庄屋の家の記録にも残っています。これだけの史料が残る道祖神盗みに関係する道祖神は珍しいです。写真ではかなり摩耗している双体像が1回目に盗難のあった山形村小坂山口に今も祀られる道祖神、最後が2回目の盗難にあった洗馬上町に祀られている道祖神です。いずれも双体像であることが、何かミソのような気がします。さらに、今回新たに分かったのは1回目の寛政7年以前にも盗難があったらしいということです。これは伝承なのか、庄屋の家の記録にあったものかははっきりしませんが、盗まれた先もだいたいわかっているようです。芦之久保では100年以上にわたって、道祖神の盗難がありその都度再建されているのです。地元の人はその理由を、村柄が良かったのであやかろうとして何度も盗まれたのだとか、近くに財力豊かな庄屋の家があり、盗まれてもお金をだして再建してくれたからだ、などといっています。盗んだ側では、余所から持ってきた物であるとは大ぴらにはいわれませんが、だいたい皆が知っていることだったといいます。個別に誰かからは聞いたということでしょう。また、芦之久保の道祖神ではありませんが、別の地区の道祖神を持ってきて自分のムラで祀っていることを、うちのムラにも石工はいたからムラの名前を石から削ろうとすればできたのにそれをしなかったのは、盗んだのではなく、嫁入りをしたということで、相手のムラとは話がついていたのだ、と語る人もいました。また、江戸時代の盗難なのに、きっとオート三輪にでも乗せて持ってきたんだろうと、ついこの間のできごとのように語る人もいました。いずれにしても、道祖神を盗られた側のムラの人々は堂々とそのことを話してくれますが、盗んできた側の人々は知っていても、なんとなく腰がひけたような口ぶりで、しぶしぶ話してくれたという印象をもった調査でした。


義理は永遠に続くのか

2015-07-23 18:31:23 | 民俗学

 先日妻の実家の網戸を調えようとホームセンターにいると、親せきの従兄から電話がかかってきました。AさんとBさんが亡くなって今日葬式だがわかっているかという内容でした。父が亡くなり母が施設に入居して、自分の実家は空き家となっていますが、実家の隣近所との義理は続いていることから、知らせてくれたのです。Aさんは庚申講の仲間、Bさんは父が区長をした時の仲間だといいます。この日に葬式に出ることは不可能だったので、Aさんの所へは後からお悔やみに行くこと、Bさんところはやめておく旨を話して礼をいい電話を切りましたが複雑な思いでした。地元に住んでいる訳ではないから、知らなければそれで済ませてしまえるのに、連絡してくれるからややこしいことになる、との思いがわいてくるのです。地元に住み続けている従兄は、世代を超えてどんなことがあってももらった義理は返さなくてはいけないと考えています。しかも記録をきちんとしてあって、同額を返さなくてはいけないと頑なです。ところが、私は世代を超えた義理は必ずしも返さなくてもよいと思っています。つまり、親が受けた義理で全く付き合いが無い人との義理は、ないものとしてよいというふうに考えています。

 電話のあった翌日、施設の母に会いに行くと、真っ先この話になりました。新聞で見たといいます。Aさんについては、お前には連絡がなかったのかといわれました。昔なら庚申講の仲間には何を差し置いてもまず連絡をしたのです。墓穴掘りという大変な仕事がありましたから。とはいえ、地元にいない私にまでしかも今は全く手伝いの仕事などないのに、連絡などくれるだろうか。そんなことを母親にいってみてもわかりませんから、もう講はなくなったかもしれないといいました。それは全く嘘ではありません。おととしだったかの講の物品整理の時、そんな話もあったのです。またBさんについては、父が区長会長をやったときに支えてくれてうんと世話になったし、父が亡くなった時にわざわざお焼香にきてくれたから、何としてもお悔やみにいってくれという。今さらいってみてもと思いつつ、わかりましたと返事をしました。

 Aさん宅に行くとお嫁さんだけいて、6年前に嫁に来て庚申講の方へのお返しの作法がわかりませんがといいつつ、お返しを出してくれたので、自分もわかりませんがといいつつお悔やみを申し上げて線香をあげ、お返し物をいただいて帰った。

 Bさん宅では、亡くなったおじいさんも、連れ合いのあばあさんも施設に入っているが松本と塩尻の別々の施設だといいます。東京に住んでいる娘が喪主をしたが、もう東京へ帰ってしまったといいます。自分は親せきの者であるという男の方が挨拶にでてくれましたので、亡くなった父が区長の時大変お世話になったということですので、お線香をあげさせてくださいとごあいさつしました。もちろん話している相手の方とは初対面ですし、父がお世話になったというのも直接には知りません。Bさん宅では小さく葬式をしたかったが、区長もやっていたから(知らなかったと)会葬に来たい人に失礼になってはいけないから新聞にもだしたといわれました。世話になったから、何としてもその義理は返せという母親の思いを達することはできましたが、相手のご遺族にとって必要なことであったかは大いに疑問です。これからこんな葬式ばかりとなるでしょうが、無駄なことだと思います。

 


道祖神碑を盗む意味

2015-07-23 18:16:42 | 民俗学

 江戸時代の天明(1781~)のころから、昭和の初年にかけて、松本・塩尻・安曇野を中心としながら北安曇・上伊那あたりにかけて、「道祖神盗み」という習俗が行われました。100年~150年ほど流行った習俗です。それは、盗んだ・盗まれたという伝承があったり、再建立に際して盗まれたという事実を新しい道祖神碑に刻んだり、道祖神碑を祀る地域とは異なる地域名が道祖神碑に刻まれていたりなどすることから明らかとなったものです。

 「道祖神盗み」の事実は小幡麻美さんの最近の研究でかなり明らかになりましたし、『長野県の中・南部の石造物』でも、何体も取り上げられています。ただ、盗みの理由について小幡さんは若者の遊びや力較べではないかとされていますが、はっきりした理由は明らかではありません。長野市大岡で見学した石造物の一つに、隠れ道祖神というものがありました。盗んできてほとぼりの冷めるまで、山の中腹においておいたものがそのままになったということで、下から見ても姿が見えない山の中腹に祀られていました。これなら何となくわかりますが、松本近辺では他地区の地域名が彫られた道祖神碑を、堂々と村の中に祀ってあります。罪悪感は皆無なのです。また逆に、今回調べてわかったのですが、同じ村が2度3度と違った村に盗まれているのです。そこに祀られていた道祖神碑はとりわけ御利益があるのでしょうか。私も道祖神盗みについて小論を書きましたが、なぜそんなことをするのか、今も謎だと思います。単なる青年の遊びで、100年以上も習俗として続くものでしょうか。

次々回の長野県民俗の会の例会では、こうした盗まれた・盗んだ道祖神碑をセットとして該当する地区を見て回ろうと計画しています。目的は、道祖神盗みのムラ、地域環境、距離などを体験することで、盗みの本義に迫ろうとするものです。それまで無意味と思われていたトーテミズムがレヴィストロースによって、世界認識の方法だと明らかにされたように、この例会に多くの人が参加して議論し、道祖神碑盗みの隠れた意味が明らかにならないかと夢想しているのです。例会の日取りは9月~10月の休日ということで、まだ定まってはいません


軍隊は国民を守るのか

2015-07-20 07:41:12 | 政治

 沖縄では米軍が上陸すると、守備隊として派遣された軍隊による有形無形の圧力により、男は皆殺しにされ女は強姦されて殺されるとおどされ、住民の集団自決が各所で起こりました。軍の強制があったとかなかったとか、裁判での争いとなったりしました。日本軍は沖縄住民を守ったのでしょうか。沖縄の人々にとって、軍隊とは何だったのか。そして、今の米軍・自衛隊の駐留は何なのか考えてしまいます。日本軍が流した残虐な米軍の噂や脅しは、よく考えてみれば自分たちが侵略者として中国で戦争していた時に、実際にやっていたことだったのです。だから、日本軍が語るそうした話は脅しではなくリアリティーのある話として伝えたことでしょう。仕返しをされるとおそれたのは、大陸での戦の経験のある兵士だったと思います。兵士だった経験は、南方戦線での飢えや病気、米軍との死闘は語られても、中国でのことはあまり語られることはありません。そして、戦争はアメリカに負けたと意識づけられています。以前に聞き書きをした話者のおじいさんが、これは中国での戦争で殺した敵のものだといって、黒く血のりのついた布を見せられたことがあります。この方は、単純に中国での自分の手柄をほめてほしかったのでしょうが、こんな人はめったにいません。中国での自分の蛮行は記憶の底に沈めてしまっている人が多いのです。そしていつしか、蛮行はなかったことに、被害者の訴えはねつ造へと変わってきました。

先の大戦では軍隊の守るべきものは国民ではなく「国体」でした。国民を犠牲にしても「国体」は守らなければならないと。国体とは誠にわかりにくいものです。天皇を中心とした国の形です。今やそのようなものはないと思うのですが、では今軍が守るべきものとはなんなのでしょうか。


「丁寧に」の意味

2015-07-18 19:54:07 | 政治

 今年の流行語大賞は「丁寧に」で決まりです。丁寧に説明します、丁寧に説明すればわかっていただける、丁寧な説明がたりない、などこれまで何回丁寧にという政権側の人々の物言いを聞いたことでしょう。「丁寧に」とは、そもそもどういう意味なのでしょうか。多分政府は、丁寧にとは理解の遅い国民に身近なたとえ話で単純にして説明することを「丁寧」だと思っています。それも丁寧というのでしょうか、今回の丁寧にというのは、たとえばこの国の存立が危機の場合とは、どんな場合かをわかりやすく説明することでしょう。抽象的・概念的に述べている法案のことばを、もっと具体に即して現実的に説明することを、丁寧に説明するというのではないでしょうか。肝心な用語の中身を説明せず、それまでの官僚的言葉を羅列することで、回答をはぐらかすことが、丁寧の中身ではないのです。いくら時間をかけても、肝心なところで説明をはぐらかしていたのでは、誰だって理解できません。解釈の変更で集団的自衛権を認めた上に、集団的自衛の中味は言葉をはぐらかしてしっかり定義しないでは、議論になりません。野党は対案を出さないからいけないという意見もありますが、そもそもの基盤から違うのだから、対案を出したところから同じ土俵に乗ってしまうことになります。


歌人の書いた歌人の評伝

2015-07-17 05:13:01 | 読書

中根 誠著 『兵たりき―川口常孝の生涯』 角川学芸出版 2015年6月刊 です。帯には篠 弘氏が以下の文を寄せています。

空穂門下の逸材、歌人としての川口常孝の道程を解明した最初の評伝。学徒兵として大陸に赴き、苦闘した『兵たりき』の偉業が再評価された存在、その背景が克明に記述される。「まひる野」後輩歌人の著者が、昭和という時代を生き泥んだ川口の過酷な実像に迫る大著。 

まさに分厚い大著です。川口常孝について、『現代短歌大事典』には以下のようにあります。

川口常孝 三重県伊勢市生まれ。父は神職。第一早稲田高等学院在学中に窪田空穂を訪ねて作歌を始め、1937(昭和12)年、「槻の木」に入会。同学院を中退して、日本大学法文学部に入学。半年くり上げで、43年9月に同学部文学専攻卒。同年11月に第一回学徒動員兵として出陣。満州・北支を転戦、45年、病のため帰還。49年4月、「槻の木」を退会し、「まひる野」入会。三重県下の教員を経て、53年に上京、都内の私立高校教員をつとめ、66年より帝京大学に勤務、70年より同大学教授。81年、『大伴家持の研究』で文学博士となる。≪作風≫生涯を貫くモチーフは、過酷な戦争体験と生き残った者の責務ということである。『地平の果て』『落日』『兵たりき』の三歌集ではくりかえし戦争体験が歌われている。
もう少しつけ加えると、戦場では火炎放射器で腕を焼かれて負傷します。ところが負傷したことで肺結核であることが発見され、1945年の敗戦前、傷病兵として内地に帰還します。ところが、療養先が広島で 直接被爆しなかったものの、救護にあたり2次被爆します。ようやく戦争が終わると、今度は母がイエの圧迫の中で入水自殺します。そして、結核の再発と悲惨なことが押し寄せてくるのですが、文芸を求め続けるのです。

著者中根誠は、川口常孝と同じ短歌結社「まひる野」に属する歌人です。歌人が書く歌人の評伝の特徴は、作品としての短歌が細かく取り上げられ短歌から主人公の心情をくみ取ろうとしているところや、当時の歌壇の動向の中に作品を位置づけていることです。ためしに、作品を取り上げてみます。ここで、全てが実体験からのものだと思いがちですが、文学作品ととらえれば、必ずしも体験したことにとらわれず、技巧が入っていて当然です。川口もそういっていますが、戦争体験についてはあまりに体験が強烈ですから、多少の技巧(実際に自分は体験せずに聞いたこと、戦場での常識など)ははいっているが、実体験に支配されているようです。ないようは、今の時代(空疎な集団的自衛権の論議で戦争に引きずり込もうとする政権のありかた)だからこそ、重く響く物があります。

本文にひいてある、歌集『兵たりき』・『落日』より

徹底的に無価値となりし人間のまたも打たるる編上靴にて

「学徒兵などと威張るな」威張るにはあらずただ単に人たらんのみ

「お母さん助けて」と叫び殺さるる兵ありき塹壕の白兵戦に

殺人を正当化する戦争に一兵という加担者われは

眼の前に妻をおかされ黙々と立ちてゐるよりなす術あらず

頭から石油あびせられ火を放たれ燃え狂ひゆく一人の女

強姦をせざりし者は並ばされビンタを受けぬわが眼鏡飛ぶ

犯したるおんなは殺せ戦争はかかる不動の法則を生む

犯されし果てに遺体となりてあるこの女をせめて土に埋めん

慰安婦の一団を常に伴いて第一線の部隊は動く

「君達は日本軍の支えなり」慰安婦に隊長の訓示始まる

おのづから墓穴を掘りてその前に殺されむため立てる学生

相抱きて焔の中に身を投げし親と子があり幾組も幾組も


歌壇の不思議

2015-07-15 19:19:10 | その他

 もしかしたら民俗学の世界にも、一般の人々にはわからない用語(そりゃあるな)や組織の仕組みがあるかもしれませんが、歌壇といわれる世界にはいっぱいある(と歌壇に無知の私には)感じられました。

 まず歌壇というものがあります。歌詠みの人々の集合体とでもいえばいいのでしょうか。小説家の集まりを文壇というのと似ていますが、もっと閉鎖的だと思います。多分、歌壇に属していないと評価してもらえません。歌壇に属すとは何かといえば、いずれかの短歌結社に属するということです。この世界の人々は単に『結社』といいますが、秘密結社みたいで何かそこに秘儀が伴うように思われますね。最近の若い人たちは結社に属さないが、それでは伸びない、などと話題になったりします。結社とは、力のある歌人の下にその歌人の詠風(歌のよみぶり)を慕って集まった人々がつくった集団で、定期的不定期的に歌会を開いて互いの歌を批評したり、師匠に批評してもらったり(歌評)します。また、毎月、社友(同じ結社に属する人をこう呼びます)が投稿する詠草(作って書いた短歌をこういいます)を編集して、歌誌を発行します。毎月の会費(社費といいます)は、通常の学会費などに比べれば、かなり高いものです。

 普通は複数の結社に属することはありませんが、結社の数はかなり多いですからそこに属する人々の数は、相当数になると思われます。短歌を作って新聞に投稿する人とは別に、毎月発行される歌誌に投稿している人々の世界があるのです。ところが、歌誌は書店にはならばず、社友にだけ配送されるので一般の人の目に触れることはありません。これは学会誌とにていますが、その裾野といいますか属している会員(社友)の数たるや、比較の対象にならないでしょう。まさに秘密結社と呼んでいいもののように思います。

 次に歌誌の内容、それはとりもなおさず歌壇で問題とする内容ですが、もちろん一人一人が作った歌の批評が主ですが、小説家と違って歌人が取り上げて書く内容があります。それは、・歌壇史・歌人の評伝・古典の評釈です。小説家が文壇史を書く、あるいは小説家の評伝を好んで取り上げるなんてことはまずありませんね。源氏物語の現代語訳をするなんてことはたまにありますが。いったいこれはなぜでしょうか。畑違いの者でなければこんなことは思わないから、短歌雑誌にこんな話題がでることはありません。素人ながら私が思うのは、短歌は作品のバックヤードが不明なことが多いから、解説本が必要となるのではないでしょうか。とにかく、歌人が好んで過去の歌人の評伝を書くのは不思議です。

 次回は最近出版された、歌人による歌人の評伝を取り上げます。


歌人という仕事

2015-07-15 19:16:41 | その他

 歌人の記念館に勤め、仕事として短歌関連図書を読むうち、短歌そのものへの理解は進んでいませんが、短歌界という特異な分野があることは理解されてきました。

歌人といわれる人々は現代社会にどれほどいるのでしょうか。これを考える時、どんな人を歌人というかが、まずもって難しいです。学者というのは一般に大学に勤めているという肩書でいわれます。では歌人とは、どんな別の肩書があればいいのか、短歌を作っていて自ら歌人だということはたやすくとも、世の中の人々はたやすく認めてくれません。わずかに職業歌人がいるかもしれませんが、職業としての歌人はほとんどいないような気がします。歌人といわれる人たちの多くは、何か給与をもらえる職業をもったうえで、業余に短歌を詠んできました。どんな仕事かといえば、大学等の教員、出版社、新聞社などの勤務です。パトロンでもいない限りは短歌を詠むだけで生きていくことは難しいのです。

ところが、わずかですが短歌を詠むだけで生活している歌人もいた(いる)。たとえば若山牧水です。牧水は数か月会社勤務をしたのみで、短歌を詠んで生活しました。具体的収入はといえば、自分が作った短歌結社(結社という不思議な集団については後で書きます)「創作」の会費。新聞雑誌の短歌欄の選歌料。講演料。半折・色紙などの頒布代金などです。出版した歌集や文芸総合誌などは、収入になるより赤字のことが多かったようで、生活費をつぎ込んだり赤字を踏み倒したりして補てんしています。現在では歌人といわれる人の仕事は、カルチャースクールの先生が多いようです。

それだけで生活するのは難しいというのが、同じ文芸といっても小説家との違いです。もっとも小説書くだけで生活できている人は、ほんのわずかかもしれませんが。だから、短歌を作る人はたくさんいても、歌人といわれる人は本当に少ないのです。


いじめと傷害事件

2015-07-13 08:04:27 | 教育

 岩手の中学2年生が自殺した事件で、学校内でのいじめによるものではないかと報道され、担任と学校の対応が問題になっています。この種の事件の報道でまず違和感を覚えるのは、何でも一括してイジメといわれることです。あきらかに傷害事件と思われる内容でも、イジメと報道されます。売春を援助交際といえば罪悪感をあまり感じないように、暴力事件であってもイジメといえば精神的圧力だけがあったかのように感じられます。暴力をともなう脅しが行われていたなら、これは傷害事件というべきです。今回の事件がどのようなものか、内容ははっきりしませんが、日常的な暴力が伴っていたら傷害事件と報道すべきではありませんか。

 今回の事件で生活記録に本人からの多くの訴えがありながら、担任が適切な対応をしなかったことが問題になっています。はっきりはしませんが、報道される限り担任の対応には問題があったというべきです。一番は保護者に伝えなかったということです。ということを踏まえたうえで、マスコミだけから情報を得た人たちが注意しなければいけないのは、こうした事案はそう単純な図式ではないということです。加害者と被害者がはっきりしているイジメは、単純な事案でイジメた側にきつい指導をして反省させれば解決する問題なのに、学校は何でそんなことすらしないのかと思われがちです。また、イジメはやられた側がイジメだといえばイジメとして成立し、100%イジメた側が悪いとされています。確かに図式的にはそうですが、イジメられていた側がイジメる側に変わったり、イジメられていないのに皆がイジメルと訴える者がいたり、自分の子どもに暴力を振るわせるような態度をとる相手が悪いのだという親がいたり等と、水戸黄門で印籠を出すような解決にはいかないことが多いのです。かといって、担任は手をこまねいていればいいというわけではありませんが、今回の事件のもう少し背後に立ち入った事情を知らなければ、だれもが正義の味方となって悪を懲らしめるという論調では、真実はわからないし何も解決しないと思われます。父子の暮らしがどういうものであったのか。担任との間柄はどうだったか。日常的な家庭と学校とのコミュニケーションはどうだったか。担任を悪者にして幕を引くようなことは、同じ事件を繰り返すだけのことだと私には思えます。