かなり難解さに耐え、かつて読んだ作品の記憶をおぼろにたどり、ようやくにして『晩年様式集』を読み終えました。私小説風な小説といったらいいんでしょうか、フィクションなのかノンフィクションのか、そんなことはどうだっていいんでしょうが、おそらく計算ずくで大江は現実と非現実のあわいに読者を引きずり込みます。過去に自分が書いた小説、それも表題ばかりでなく、引用(ほんとに引用になっているか確かめてありませんが)までして、小説で小説を書いた作品でした。本とに最後の作品かもしれません。
-パパはすぐ80歳です。私は50歳で、自立できません。真木ちゃんはうつです。
まわりの人々、とりわけ女性みんなが自分のために存在するかのような小説家も、冷静になれば先の見通しのたたない高齢者です。自分も80にはまだ時間がありますが、どうやって人生の締めくくりをつけるか、まじめに考えてゆかなければなりません。
『形見の歌』と題された、最後の詩の一部です。
四国の森の伝承に、
「自分の木」があった。
谷間で生き死にする者らは、
森に「自分の木」を持つ。
人が死ねば、
魂は 高みに昇り、
「自分の木」の根方に着地する。
時がたつと、
魂は 谷間に降りて、
生まれてくる赤ん坊の胸に入る。
「自分の木」の下で、
子供が心から希うと、
年をとった自分が
会いに来てくれる(ことがある)。
この詩の最後は、こんな言葉で結ばれています。
小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。しかし
私らは生き直すことができる。
個としては生き直せないけれども、種としては生き直せるというのは、歴史への信頼といってもいいでしょうか。その歴史を顧みない、都合よく歴史を顧みる種には滅亡しかないのかもしれません。
大江が「自分の木」をもつという伝承は、あながち小説家の想像力がつくりだしたものだとはいえません。栄村で、一軒に一本の守り木があるというような話をききました。また、なにかよくないことが続いて祈祷師にみてもらうと、どこそこの伐ってはならない木を伐ったせいだといわれ、そのかわりに何本もの苗木を山に植えた。という話もありました。山の木と人の命との不思議なつながりを、かつての人々は感じていたようなのです。