民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

大江健三郎『晩年様式集』読了

2014-02-18 14:41:41 | 民俗学

 かなり難解さに耐え、かつて読んだ作品の記憶をおぼろにたどり、ようやくにして『晩年様式集』を読み終えました。私小説風な小説といったらいいんでしょうか、フィクションなのかノンフィクションのか、そんなことはどうだっていいんでしょうが、おそらく計算ずくで大江は現実と非現実のあわいに読者を引きずり込みます。過去に自分が書いた小説、それも表題ばかりでなく、引用(ほんとに引用になっているか確かめてありませんが)までして、小説で小説を書いた作品でした。本とに最後の作品かもしれません。

 -パパはすぐ80歳です。私は50歳で、自立できません。真木ちゃんはうつです。

 まわりの人々、とりわけ女性みんなが自分のために存在するかのような小説家も、冷静になれば先の見通しのたたない高齢者です。自分も80にはまだ時間がありますが、どうやって人生の締めくくりをつけるか、まじめに考えてゆかなければなりません。

 『形見の歌』と題された、最後の詩の一部です。
四国の森の伝承に、
「自分の木」があった。
谷間で生き死にする者らは、
森に「自分の木」を持つ。
人が死ねば、
魂は 高みに昇り、
「自分の木」の根方に着地する。
時がたつと、
魂は 谷間に降りて、
生まれてくる赤ん坊の胸に入る。
「自分の木」の下で、
子供が心から希うと、
年をとった自分が
会いに来てくれる(ことがある)。

 この詩の最後は、こんな言葉で結ばれています。

小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。しかし
私らは生き直すことができる。

 個としては生き直せないけれども、種としては生き直せるというのは、歴史への信頼といってもいいでしょうか。その歴史を顧みない、都合よく歴史を顧みる種には滅亡しかないのかもしれません。

 大江が「自分の木」をもつという伝承は、あながち小説家の想像力がつくりだしたものだとはいえません。栄村で、一軒に一本の守り木があるというような話をききました。また、なにかよくないことが続いて祈祷師にみてもらうと、どこそこの伐ってはならない木を伐ったせいだといわれ、そのかわりに何本もの苗木を山に植えた。という話もありました。山の木と人の命との不思議なつながりを、かつての人々は感じていたようなのです。 


beを読む

2014-02-15 11:20:45 | 教育

 大変な雪です。こんなに降りますと温暖化というよりは地球は氷河期に向っているといったほうが、説得力があるように感じてしまいます。冬になって出かけることが少なくなり、読書や新聞に関して思うことが大部分のようなブログとなっています。今朝は大雪で通常の新聞は届かず、終末版のみとなりました。その中から気になったものを。

 「教育現場は「コーチ」の時代」(夏野剛の逆説進化論)について。「先生はいろんな教材やITを駆使し、きめ細かな教育を実現すべきなのだ。能力のある子どもにはどんどん難しいビデオや課題を与えて、能力を伸ばしてあげる。進度が遅い子にはそれに合った課題を与えて、一歩ずつ着実に進ませる。先生の役割はまさにコーチングに変わるべきなのだ。」まさに正論ですし、私もこの通りに実現すればいいと思います。ただし、現実はどうか。先生がコーチングに変わる前提として、子どもは誰もが意欲的に学習するものであること。どの子の家庭にもある程度の学習用具と学習環境が整い、保護者は積極的に子どもの学習をサポートできる、お金を出して塾に行かせるのではなく、子どもの学習につきあう時間と粘り強さがある、ということを前提にしています。夏野さんは自らの家庭のような条件が全ての子どもに整っていると思われているのでしょう。学ぼうとする子どもに後ろから手を添えるのは理想ですが、背景となる家庭はあまりにも多様です。その上、一人一人に課題を用意するとしたら、1クラス20人が限度です。現在のようなクラス定員で、教育にとって一律性は最大の敵であるなどといってみても、現実的には人手不足です。会社なら人手不足は労働密度を濃くしたり長時間にすれば補えますが、授業はその場その時が勝負ですから、補いがききません。泣き言いってるみたいですが、一部にぞんざいな授業でお茶を濁している教員が事実いることから、まじめにやろうとしても物理的に限度があることはなかなかわかってもらえません。

 もう一つ、「貧しかった子育て時代を後悔」という相談に答えた金子勝さんの文章に、心が温かくなりました。「きっと、あなたの賢い子どもたちは、自分たちの子どもができたら、たとえお金があっても、あなたと同じように接するに違いありません。」何でもてにはいるより、適度に貧しいほうが子育てにはよいと思います。自分の子育てのころ、狭い6畳の居間で子ども3人と暮らし、畳がすりきれるほど相撲までそこでとりました。たまに食べるお菓子を隠しておいても、娘は妙に勘を働かせて探し出してしまいました。収入も少なかったけれど大きな借金に縛られたくなかったのですが、小さな部屋で押し合いへしあい生活したのが、子どもたちの人格形成に良い影響を与えたと思っていますし、思いたいです。


文字の力

2014-02-14 10:40:22 | 歴史

名古屋市博で、企画展「文字の力」をみてきました。改めて、文字とは何かと考えさせられました。刀や鏡に刻まれた文字は、権威の象徴としての意味合いが強かったようですが、文字の読めない者にとっての文字は呪的なものだったように思います。文字の文字としての重要な機能は、人間の管理にあったと思います。徴税のためにはどうしても記録が必要です。支配する領域が広くなるほどに、記録あるいは情報伝達手段としての文字は不可欠だったでしょう。文字が国家を造ったといえる面もあったことと思います。文字の普及について、経典の果した役割も欠かせなかったでしょう。文字(漢字)の読み書きができるということは、大きな力をうみました。それで思い浮かべるのが、映画「たそがれ清兵衛」のなかで、女も文字を読み学問をしなければいけないといわせた台詞があったこと、先日のドラマ「足尾からきた女」でも文字を読めば世の中のことがわかるから、文字を学ばなくてはいけないといった台詞です。教室の机にすら座らず、校内を徘徊している生徒たちに、どれだけ読み書きが大事かわかってもらいたいものです。
徳川美術館では、源氏物語絵巻の複製も見ました。こちらの優美な紙と文字は、支配する側の遊びとしての文字でした。生活の心配がないところに文学は生まれるのですね。伝承文学の系譜と個人の創作による文学との系譜がどこで交錯し、どこで分かれたのかも気になりました。 


朝部活問題

2014-02-10 15:32:21 | 教育

 長野県教育委員会は、朝の部活動を原則として禁止する方針を打ち出しました。このことについて、パブリックコメントを求めたり意見交換会を開催したりして、広く県民から意見聴取もおこないました。新聞などでも多くの意見が公表されました。しかし、どうも現場の教員の本当の考えが伝わっていないように思われます。もちろん教育は子どもにとってどうなのかが中心に論ぜられなければなりませんが、それを実践する現場の教員にとってどうなのかも、忘れてはならない視点だと思います。しかし、県民の税金を食む教員が、自分の利益になるようなことを述べるのはけしからんという風潮があり、教員の立場からの意見表明はほとんどなされていません。

 行政がいうところの朝部活禁止の理由は、生徒の健康上の問題と家族生活、もう一つははっきりいっているかどうかわかりませんが、学力問題があります。多分大概の中学校で朝練習は、7:30から始業10分ないしは15分前までとなっています。7:30からすぐ練習を始められるには、着替えて用具の準備をする時間があるということで、早い子どもはいけないといわれても、7:00くらいには登校します。学校まで家が遠い生徒は、歩いて40分くらいかかりますから、6:30ころには家を出ることになります。そうすると朝食は6:15ころには食べないと間に合いません。しかも、放課後の練習ができない冬こそ朝練習が大事だとかいって、1年中朝練習を行うようになりました。冬には暗いうちに朝食を食べます。こんな早い時間には家族で食べるとはいきませんから、中学生だけ先に食べて、後で家族はもっと遅い時間に朝食をとることになります。家族で食事をとりましょうなどといっても、そうできなくしているのは学校なのです。早朝に朝食を食べた生徒が、給食を食べるのは日課の関係で多くの中学校では1時ころになります。6時間以上子どもたちは何も食べずに、午前中の学習をすることになります。また、早朝に起きて激しい運動をした子どもは、1時間目から寝ていることもあります。朝早く起きるためには、遅くまで勉強することもままならず、朝から疲れていて学力がつくのかという心配もあります。

 部活動が、生徒指導に大きな役割を果たしていることも事実です。勉強がなかなかわからない生徒に、部活が生きがいを与えてくれます。その部活も続かず、やめてしまった生徒が生活を崩していきます。あるいは、部活に入らない生徒が問題行動に走るのだという教員もいます。そんな効果を十分承知した上ですが、部活指導が中学校教員の大きな負担になっていることも事実です。朝夕はもちろん、土日も練習をみてやらなければなりません。いずれも、勤務の時間外です。年間の報酬は、1万円あればいいほうです。間違えてはいけませんが、年間で1万円です。中学校教員の家族生活はどうなるのでしょうか。ところが、生徒指導で確かに部活が大きな役割を果していることから、部活に命を掛けているような教員の発言力が強く、部活を自粛しようなどとは学校では口にできません。でも正直にいえば、多くの教員にとって負担が重いのです。夜8時9時まで学校に残って仕事していれば、せめて朝くらいゆっくりしたい、といっても勤務時間までに出勤すればいい、と思うのは誰でも自然な考えです。放課後練習時間がとれないから、朝練習をやらしてほしいなどと多くの顧問が思っているような報道ですが、とんでもない話です。勝利至上主義でよその学校より30分でも余分に練習させて勝ちたいと思う顧問はそう考えるでしょうが、それは一部です。朝練習などやっている県は少ないようですが、では毎日朝練習やっている長野県のスポーツは強いのかといえば、決してそんなことはありません。むやみと子どもを拘束しているだけのように思われます

 朝練習やめたから学力がつくか問われれば、明確な答えはだせません。成績が下がったから部活やめさせるという保護者の方がよくいますが、やめさせたらよけい落ちますよと伝えたい。やみくもに勉強に時間を費やせば、学力がつくというものではありません。何事もバランスが大事です。学力に関してはなんともいえませんが、生徒の健康と先生方の負担を考えれば、早急に朝部活は廃止すべきだと思います。


障害のある人の芸術

2014-02-08 11:29:44 | その他

 久しぶりに図書館に行ったら、近刊の本はすぐに借りられてしまうので書架にあることはめずらしいのですが、大江健三郎の最後の小説、ノーベル文学賞受賞後は最後といいながら何冊も本を出していますが、『晩年様式集』をみつけて借りてきました。例によって、最初はなかなかその小説世界に入り込めないので、手元にある大江光のCDを聞きながら読んでいるとき、佐村河内のゴーストライター事件が大々的に報じられています。人々は作品よりも背後の物語を欲し、それに出版社やマスコミがのっかったというような報道がなされ、思いのほかに売れてしまい引っ込みがつかなくなってしまったが、ゴーストライターの罪の意識で明るみに出た、というストーリーですが、多分これも物語の部分を形成していて、真実は違った所にある、例えば報酬をめぐる争いとか、ような気もするのです。それはともかく、今度の事件で障害者の芸術に対する見方に、逆のフィルターがかかりはしないかと心配するのです。そんな思いでいるとき、CD『新しい大江光』のライナーノーツに大江健三郎が、次のように書いているのを発見しました。

 一方で私の個人的な態度としては、光との共生について小説やエッセイを書く場合―こうした障害を持つ子供という話は小説の出来具合を正面から否定できないから、アンフェアだという、どこか底意の見えている批判も受けてきましたが―、また光の音楽自体を社会に向けて発表する場合、息子が知的な障害者であることは私たちの家庭においてむしろ自然なあり方であって、それは特別な条件ではないと、その思いのままなにも隠さないようにしてきました。テレヴィで光の発作シーンを映したのも、そのような流れにおいてでした。知識人として優秀な作曲家の仕事もあれば、光のような知的障害のある人間の仕事もある。それは人間の個性の問題であって、それを認めてもらった上で、光の音楽が受け入れられるかそうでないか、それだけのことだと。

 そうはいっても、「現代のヴェートーヴェン」というキャッチコピーは、大きなインパクトがありました。それをはずし、ゴーストライターの作曲家本人の名前で再び『交響曲広島』と題する曲を本来のテーマで発売したとき、どれほどの評価を受けるのか。それは要するに、受け手の側に音楽を音楽だけで聴く耳があるのかどうかにかかってきます。日展の審査が、ボス審査員のさじ加減でおこなわれたように、高級ホテルの食材が偽装だといわれなければそのまま通用していたり、一般人の目は、耳は、舌は、そんなに確かなものではないのですね。だから難しい。障害があるのに、こんな作品ができると判断するのか。障害がありながら努力する姿はすばらしい。だが作品としてはいまいちだ、といえるかどうか。逆に、障害者の作る作品などどうせ大したものではないと最初から決め付ける、パラリンピックはスポーツとしてみるものではないと決め付けてしまうか。
 本物を見つけられる心を養いたいものです。 


「足尾から来た女」を見る

2014-02-08 09:37:44 | 政治

最近のNHKの報道に対して、素直には受け取れない危うさを感じ、今までのようにBGMとしてNHKラジオをつけないように気をつけている。その後調べてみると、委員に関する次のような報道に腰を抜かしています。

NHK経営委員長谷川三千子・埼玉大名誉教授(67)が、1993年に朝日新聞東京本社(東京・築地)内で拳銃自殺した右翼活動家の野村秋介氏を礼賛する追悼文を発表していたことが2月5日、分かった。

この追悼文の内容が、アナクロリズムの極地、右翼テロリズムを礼賛するようなおぞましいものなのです。妻にいわせれば、憲法を否定する考えを公然と公表するような人物が国立大学の教員をやってきたことは間違っている、のです。そして、そうした人物を公共放送の委員に推す政権のありかたとは、国民をないがしろにする戦前の国体を復活させようとする意図以外の何者でもありません。何としても、民主主義を守らなくてはなりません。そうした観点でいうと、2週間ほど前のNHKのドラマ、「足尾から来た女」前・後は秀逸でした。こういう番組を作れるスタッフは、今回の会長、委員の選出について、危機感とともに苦々しい思いでいるだろうなと思われます。

 ドラマは、足尾の谷中村から田中正造のあっせんで、尾野真千子扮する貧しい娘が福田(景山)英子の家に奉公にいきます。ところが、兄との関係で特高の手先として福田英子の行動を時々報告しなければいけなくなりなり、鉱毒に奪われた故郷との間で悩む、といった骨太な物語です。田中正造の言葉や、故郷を追われる人々に福島の姿が連想され、よくぞ今の時期にこんな物語を作ってくれたと感動しました。尾野真千子の一途な演技、字が読めなければ人間は人の思い通りにされてしまうという悲痛なまでのメッセージにも、共感しました。夜の街でたむろしている中学生に見せてやりたいです。学ぶことがどれだけ大事なことか、国を守ることと人の暮らしをまもることの違いを。


従軍慰安婦問題

2014-02-05 16:51:24 | 歴史

今回のNHK会長の発言、以前の橋下市長の発言の従軍慰安婦に関する共通点は、軍隊に売春はつきものであり日本ばかりの話ではない。その時代にはどこの国にもあって認められていた制度を、今になって日本だけ取り出して糾弾される筋合いはない、というものである。今も合法非合法はあるものの、どこの国にも売春はあるということで、一見もっともな論理のように思われるが果たしてそうだろうか。
ずっと以前に買った千田夏光の『従軍慰安婦』を読み直してみて、いくつかわかったことがある。それは、日本の陸軍の特殊性だが、そこへ行く前に先の二人の発言の前提に意義がある。それは、男という動物は誰でも制御できない性欲を抱えており、道徳や社会規範がかろうじてそれをコントロールしている。だから、戦場のような社会規範が取り払われた場では、性欲は誰もがむき出しになるのだ、という前提である。そういう男もいるだろうが、それは男という生き物に普遍的にいえることではない。平時にも、強姦をする男がいるが男はそういうものだとして、男を誘ったり無防備な女の側に責任があるのだという論理につながる。 戦時にも平時にも、強姦する男がいればしない男もいる。それを、男というものはと一般化するところが、そもそも男性中心論理を露呈している。
 軍隊に売春はつきものだという話である。確かに、血気盛んな多数の男が集まるのが軍隊だから、性のはけぐちが必要になるかもしれない。だから、3ヶ月あるいは6ヶ月での後方での休暇が必要なのだ。ずっと戦場にいたのでは、神経がまいってしまう。ところが、国力の乏しい日本の軍隊は前線と交代で後方へ休暇で帰れることはなかった。中国に派遣されれば、何年も戦場に行きっぱなしで戻れはしなかった。だから、本来後方の民間施設にあるべきものが軍隊に附属となり、前線に慰安所がおかれることとなった。休暇中の後方の民間施設での売春と、前線の軍に附属の施設でのそれとは大きく意味合いが異なる。
 慰安所を作った軍の心配は、兵隊への性病の蔓延だったようだ。内地の売春を商売にしていた女性を連れて行けば、罹患している場合が多く感染を防ぐことが難しく、戦力をそぐことになってしまう。兵隊の相手をしてくれる女性は若いほど、性病のおそれは少なかった。東南アジアでエイズの感染を嫌って、少女売春を求めるのと同じ心理である。国内では兵隊の相手をする若い娘を得るのは難しいから、植民地の朝鮮で罪の意識も感ぜずかり集めたようである。この場合の罪の意識のなさとは、陸軍は食料は現地調達するように考えられており、現地の女性も戦利品と同等の扱いだと考えていたいうことである。だから、日本がアメリカに占領されれば日本軍が中国でしたように、アメリカ軍によって男は殺され女は犯されると恐れたのである。 

 売春施設があったかなかったかではなく、軍隊というシステムの中にそうしたものを置き、しかもそこに朝鮮から強制的に連行した女性を縛り付けたことが間違っていたのである。売春施設があったことがいけないと非難されているのではないのに、あえて論点をずらして皇軍の威信を守ろうというのである。素直に認めて謝罪する以外に、国際社会に認められる道はない。