民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

コロナの前と後

2020-04-27 11:51:12 | 歴史

コロナの流行であぶり出された幾つもの事があります。また、有識者はコロナ後にあの時が転換の始まりだったといわれるような、社会の転換点だといったりもします。確かに、これが社会の大きな転換点だとしたら、今の自粛も耐えようがあります。しかし、そんな風に意識付けられるような社会・政治の変化が見込まれるでしょうか。あの、3.11がこの国の大きな転換点になると人々は思いましたし、私も思いました。ところがどうでしょう。何がかわったというのでしょうか。時間が経過すれば、全てはまた元通りで、思考の転換など何もありません。私はといえば、電気を再生エネルギーのものに契約をかえたぐらいで、やっぱり変化といえるほどのものはありません。同じように、コロナの災厄ものど元過ぎれば、また忘れ去られてしまうのでしょうか。

今日の朝日新聞に、県立歴史館の村石さんが書いた、スペイン風邪についてのブログが紹介されていました。ここでも、歴史人口学者の著書で、過去の感染症の流行に学ばなければならないと書かれているそうです。つまりは、過去から学んでいないということなのですね。この国はいつもそうです。あの敗戦からだって何も学んでいないし、原発事故からも、感染症の流行からも学ぶところがないのです。すべてが不可抗力な災害になってしまい、過去を分析して事前に備えるという思考にならない。人智の及ばない出来事には対処のしようがないことになってしまいます。これで一番救われるのは、政治家・為政者です。国民の生命と財産を守るのが一番の仕事の人たちが、災害だから仕方ないと責任を問われません。


テレビの見方

2020-04-26 15:44:44 | 民俗学

この年になるまで、結構長くテレビと付き合ってきましたが、最近付き合い方が変わったので書いてみます。

今年1月に私の住んでいる集合住宅で、共同アンテナを4K8K対応の物に変えました。それにともない、この機会にと我が家のアンテナ差込口の機器も取り換えてもらいました。そうなると、オリンピックもあるしなどと考え、テレビを買い替える事にしました。まんまと家電メーカーの戦略にのせられたわけです。ところが、想像を絶してテレビの機能がすすんでいたのです。私が買い替えようと思ったのは、画面の大きさをもっと大きくし、今以上にきれいな画像を見ることができるようにと思ったからです。しかし、テレビの進歩はそんなものではなかったのです。

何が変わったかと言えば、テレビとパソコンが合体してきたのです。テレビにアンドロイドが内蔵されていて、パソコンで使う映像ソフトがプレインストールされていたり、グーグルで検索してインストールできたりするのです。今まではパソコンでしか見れないと思っていたユーチューブが、テレビの大画面でみることができるし、映像がきれいなのです。若者がテレビを見ないでネットを見ているというのを、そんなこともあるのかくらいに思っていたのですが、実際こんなことがありました。新型コロナに関して小池知事の会見がライブであったとき、通常のテレビのチャンネルで見ていたのですが、時間が来て途中で中継をやめてしまいました。なんだよ、もっと会見見たいのにと思っていると、息子が多分ユーチューブで配信してるよというので、すかさずユーチューブに切り替えると、ライブ配信していてみることができました。テレビ局が編集したものを見るより、正確な生な情報をこれからは得ることができると思いました。

私がテレビで見るのは、ニュースか映画か少数のドラマくらいで、つまらないバラエティーばかりの番組は面白くありません。映画というのは楽しみのひとつですから、録画したりして見ています。ところが、録画の必要もなくなりました。アマゾンプライムビデオやネットフリックスのソフトをインストールして起動したら、とんでもなくたくさんの映画をいつでも見ることができるのです。これにもびっくりしました。パソコンの小さな画面でしか見れないと敬遠していた映画を、テレビで自由にみることができるのです。もちろん、WIFI環境の整備が必要でしょうが、今は大概の家で無線ランは設置しているでしょう。テレビドラマも1週間以内なら、その回の放映されたものを後からいつでも見ることができます。

stay at home で映画ばかり見ていたらいかんと、自戒しているこの頃です。


2人の母を送ってー3

2020-04-12 06:25:48 | その他

私の母は昨年の2月に食事をしなくなり、体力も気力も衰えて危ないかもしれないといわれました。そこで、近くの葬儀場を下見したりどんな葬式にするか考えました。ところが何とか今年3月まで1年間持ちこたえてくれました。結構時間があったので、いろいろと考えることができました。できれば家族葬にしたいと思いました。しかし、葬式に出られなかったからと後から弔問にこられても実家は普段留守ですから、来た人には失礼してしまいます。狭い地域社会で生きて来た母ですから、施設に入ってから隣組は抜けたといっても近隣の方との付き合いは長いものがあります。また、葬式組である庚申講の方たちとの付き合いは私の代になってからも続けています。そこで当初は、隣組の方々の葬式のお手伝い(受付)は辞退して葬式への参加も断り、今もつきあいが続く庚申講の方たちに受付をお願いしようと思っていました。また、通夜をどこでやるか悩みました。自宅でやって近隣や親族にきてもらったら、接待などで大変です。かといって隣近所の方々は、最後の別れもしたいだろうし亡くなった母も会いたいだろうし。そこで、いったん実家に帰して安置し、近隣の皆さんとのお別れをして葬儀会場に移送して通夜をしようと考えました。施設から直接葬儀会場に行くよりも、いったん家に帰った方が母も喜ぶだろうし。

そんなことを思っていたら、新型コロナウィルスの流行が重なりました。葬式してもいいかと悩む人がいるとも業者には聞きました。そこで急きょ決断し、親族葬として新聞にものせないこととしました。近隣の方と庚申講の皆さんには、コロナを理由にして葬式への参加を見合わせていただくようにお願いしました。結局、庚申講の皆さんは精進落としには参加されなかったのですが、葬儀には参列させてくれということで参加されました。それで、親族と庚申講の方たちだけで小さな葬式をすることができました。顔見知りだけでしたので、温かな葬式ができたと思います。長く考えたことにコロナが重なった結果の葬儀の形態でした。


2人の母を送ってー2

2020-04-10 16:02:56 | その他

今回は自分の母の葬儀について書かなくてななりませんが、その前に自分と母との間柄について述べなければなりません。それは一言でいって、良いものではありませんでした。思春期を迎えるまでは何も感じなかったのですが、高校生になってから母親の自分に対する支配的な態度に、どうしても我慢がならなくなりました。大学で家を出たのも、このまま家に留まっては自律できないと、真剣に考えたからです。普通親への反発は、思春期の一時期を通り過ぎれば収まるものですが、私はずっとそれに苦しみました。母は特異といってよい性格の持ち主で、子どもの頃から自分をいじめる人を見つけ出し、常に自分を被害者の位置において自分を正当化してきました。それはたぶん、相手の気持ちに共感することができないという障害のなせる業ではなかったかと、今にして思います。

母は多発性脳梗塞を60歳くらいの時に患い、以後は夫である私の父に頼り切った生活でした。動けるようになっても自分からは何もしようとせず、自分の身の回りのこと以外はすべて父にやってもらっていました。父が亡くなり、母は一人暮らしとなりました。私が同居すべきとは思ってもみましたが、話しているとどうしても私の精神の安定が保てないのです。それで、訪問看護を頼んだりヘルパーさんを頼んだりして一人暮らしを続け、1週間に一度は顔を見に行って買い物をしたりしていました。そのうち、朝になると胃が痛くてデーサービスに行けないとか、すぐ医者に連れていけということが多くなりました。医者に行っても悪いところはなく、生理食塩水の点滴をして治るようなことを繰り返し。これではどうしようもないことから、いくつかの施設に申し込んで、待っていると、幸いにもデイサービスに通っていた近くに施設に入ることができました。母を施設に入れるについては忍びないものがありましたが、もし私が同居して介護したら全面的によりかかってくる母に我慢がならず、煮詰まって何をしてしまうかわかりませんでした。最初はしぶった母も、知っている人がいる施設であったのですぐなれ、そこでの生活を楽しむようになりました。よくしていただいた職員の皆さんに感謝です。

施設に8年程いるうちに、だんだん体力が弱ってきました。そして、杖を使っての歩行から、歩行器になり、車椅子になり、食べるものも普通食から刻み食、最後はペースト状にしてもらっての食事でしたが、最後まで食べる意欲はありました。そして、3月のある日、食堂で朝ご飯を食べ終わった後、意識消失・呼吸停止となりました。自然死とはこういうものでしょう。コロナの関係でなくなる前の1週間ほどは面会できなかったのですが、その前の1年くらいは平均1日おきくらいに面会していたので、死に目に会えなかったという悔いは残りませんでした。次回は葬儀について書きます。


2人の母を送って-1

2020-04-09 06:04:27 | その他

昨年12月末に妻の母を、先月末に実母を失くしました。2人とも97歳という高齢の大往生でしたから、悲しみに打ちひしがれる、という事はなかったのですが、どういう葬儀によって送るのか様々に考えさせられました。自分の気持ち的には、いずれも家族葬にして静かに身内で送りたいと思ったのですが、考えるほどになかなかそうともいかなくなりました。

義母は妻と妻の妹さんとが喪主となって行いましたので、私は相談にのるという立場でした。義父は8年前に亡くなり、義母は一人暮らしとなったために妻と妻の妹が面倒をみていましたが、認知症が進行したために1年ほど前からは施設に入っていました。隣組からは抜けさせてもらっていましたが、長い間の生活基盤は地域社会にありました。一方、義母の兄弟も義父の兄弟も県外在住の方が多く、多くが亡くなるか高齢の為に参列はできないという現状でした。結局、新聞等で地域に告知し地域の方を葬儀委員長にたてた、通常の葬式を行いました。結果として、これは正しい選択でした。というのは、高齢で地域とのつきあいは切れているだろうと思ったのですが、告別式には50人ほどのおつきあいのあった方々が焼香にやってきてくれました。葬儀がすめば義母の家は空き家となっていますから、この方たちが後から知って弔問にきていただいても、こたえようがないことになります。焼香に来る皆さんにあいさつすることを、現地では「ミマイウケ」といいますが、次々と並んでくる自分は顔も知らない皆さんに頭を下げながら、地域で生きてくるというのはこういうことなのだと思わされました。とても家族葬は無理でした。

そして実母についてですが、それは次回。