民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

『長野県中・南部の石造物』刊行について

2014-08-19 17:58:53 | 民俗学

 昨年の秋から『長野県中・南部の石造物』と名付けた本の編集を続けています。20年も前に全県下で一斉に始めた事業でしたが、本来ならば北・東・南・中信の4地区ごとに1冊刊行の予定が急激な経済の悪化のあおりをくい、北信編を刊行しただけで頓挫し、原稿が塩漬け状態になっているものでした。そのままにはしておけないので、私が退職したのを機会に編集を開始し、ほとんど仕事として進めたのですが、4月から勤務となってしまい、片手間仕事でなかなか進んでおりません。盆前に再校を整えて入れ、この間は出てくるのを待っていました。再校とはいえ、なかなか全体の最終的な原稿としてはまとまらないため、随所を整え、新しくまとめなどということを続けておりましたので、今度の3校でようやく校正らしい校正、赤字の点検を重点としてできるようになりました。これからは、誤字脱字、図版とキャプションのチェックが仕事となります。3校がでてくれば、ほとんどの時間を費やさなければならないため、またもブログはしばらくお休みとなるでしょう。

 20年まえの多くの執筆者の原稿を読み直していると、現在同様な企画(できるだけ生活の中に石造物を位置づけて、生きている姿を記述する)をたてても、ほとんど調査できないのではないかと思われるものが大部分です。それぞれの原稿の人々が石造物にかけた思いに触れると、泣きそうになります。かつて人々は、何と豊かなイメージの世界に生きてきたことでしょう。昨年は善光寺道を歩き、そんな石造物があちこちに忘れられて転がっているのを目にしました。石は簡単にはなくならないだけに、石造物に寄せた人々の祈りや願いも同時に苔むしているようで、何百年と続けてきたこの国の生活の歴史が、この時代にプツンと切れてしまうことがわかります。あと100年もたったら、今の私たちの暮らしはいったいどんな形で残るのか、いや形として残る物などないのかもしれません。


近世から近代へ

2014-08-19 14:42:58 | 文学

 江戸時代から明治時代に変わった時、人々は1日で人格変容を遂げたのではなく、生活は不揃いにしかも徐々に変化したのであって、年表に表現するように一斉に変わったのではない。これは、民俗の立場から歴史屋さんたちに何度も言ってきたことです。例えば、昨日まで着物を着ていた人々が今日からは一斉に洋服を着ることがないように、である。そう頭ではわかっていても、まだまだ想像力が足りなかったのではないかと、空穂さんの随筆などを読みながら考えてしまいました。明治10年の生まれの人の大人は全て江戸時代の生まれで、江戸時代の教育を受けています、年寄りなどなおさらです。また、中には丁髷を切らない人もいたようです。筆記用具は、筆が一般的ですし、手紙は候文で書かれていました。この、書き言葉が話し言葉とは別にあったことにひっかかるのです。手紙や公的な文章は候文で筆で書かれていました。空穂の手紙はすらすらとは読めません。戦前までは普通に候文が使われていたそうですが、いったい人々はどうやって勉強したのでしょう。今となっては、墨で崩して書いてある文字は外国語のようなものです。80年ほど前まで何百年も使われてきた文字が、今の私たちには読めないという事の重大さに今頃愕然としているのです。江戸時代の文書が読めないどころか明治時代の文書も大正時代の文書も、訓練を受けないことには読めないものがあるのです。こんなことが外国にあるのでしょうか。シェークスピアの書いた文章は、現在のイギリス人でも読めるのでしょうか。古文書を自分が読めない腹立たしさもありますが、使っている文章が違うことの意味を、もっと考えてみる必要があるように思うのです。そこに、明治の文学者の革新的ところと、表現の悩みもあったのではないかと思います。というのは、現在にあっても世の中で歌人といわれる職業歌人の中でも、口語短歌への評価が分かれているようなのです。簡単に言えば、「あんなものはすぐ忘れられる」という評価と、「今を生きる人々の情をすくいあげている」という評価と2つに分かれるということです。


窪田空穂とは誰か2

2014-08-18 09:52:19 | Weblog

 短歌とは全く縁がなかった自分が、窪田空穂記念館のお守をしなければならない巡り合わせとなり、当初やらねばならなかったのは、空穂さんについて学ぶことでした。同時代人には与謝野晶子や柳田国男、折口信夫がいます。折口とは同時に歌会始の選者を務めていますし、柳田が亡くなった時は別れの短歌も作っています。こんな人を知らなければならないということで、頭を抱えてしまいました。幸いにも、空穂はある時期自然主義の小説家に転向しようと思ったみたいで、かなりな小説や随筆を残しています。それらは、自分の生い立ちや故郷の風物を如実に反映した作品ですから、読むことで空穂の人となりを想像することができました。
 空穂はある時期、大学から博士号をとるようにいわれたが、自分は歌人であるといって拒否したそうです。その空穂の歌ですが、いったいどのように評価されるものなのか。

 短歌は態度の芸というのが空穂の時論だった。生活態度がまず先にあって、その頂点のあらわれが歌であるというのである。作品だけよくしようと思っても不可能である。人生を離れて芸術などはないと考えていた。「歌は精神の現はれである。随っていい歌を詠まうとすれば、いい精神を持って居なければならない」(『歌の作りやう』)それゆえに、芸術至上を訴えるさまざまな短歌の動きにも超然としていた。歌は自分の気分にそって詠めばいいのだという。その地点にくると、空穂は強かった。揺るがない。(小高賢「窪田空穂の生涯」『窪田空穂-人と文学-』)

 空穂の歌は生活詠であり、根っこには確かな自分がいます。明治10年生まれのなのに驚くほど自我が強固なのです。花鳥風月を詠むのが短歌ではなく、自分の心を詠むのだと最初から言い切れる空穂さんは、すごいと思います。だから、東京に行かなくては田舎では暮らせなかったのです。空穂ほど、郷里や父母を詠った人はいないとかいいますが、郷里や親についてたしかに多くの歌を詠み散文を残していますが、世間のありきたりの評価を裏切るような、こんなことも実は書いているのです。

「君は郷里は好きですか」
「郷里が好き?」M君は反問するようにいった。そして急に緊張した顔になって、暫く私の顔を見詰めてゐた。
「あれでせうか?本当に郷里が好きだなんて人間が、ゐるものでせうか?」
 私もM君の顔を見かへした。平べったい、眼と眼のあひだの広過ぎる、うまい綽名をつけたものだと感心すると共に、一種の親しみを覚えさせられる顔は、その時は緊張の爲に一種の峻しさを帯びて来てゐた。
 私のM君について記憶してゐることはただこの事だけだ。或はこの事によってM君を記憶してゐるかも知れない。とにかく、その後M君のことは、一再ならず思ひ出した。そしてその度び毎に、M君はいいことをいったものだと思ってゐる。(「故郷」)


窪田空穂(うつぼ)とは誰か1

2014-08-18 09:14:02 | 文学

 ようやく少し落ち着いて身辺のことを考えたり、自分の立ち位置を客観的にながめられるようになってきました。今までは敷かれたレールの上をわけもわからず、脱線しないように走ることに追われていました。

 そこで、まずは今所属する施設は窪田空穂記念館ですから、空穂というのはどういう人なのか紹介し、その中でこの半年近くの間に考えたことを綴ってみたいと思います。

 窪田空穂(くぼたうつぼ)は明治10年に松本市郊外の和田村に生まれました。本名は通治といいました。そんなに広く知られているわけではありませんが、多分次の短歌は中学校の国語の教科書に載っています。 鉦ならし信濃の国を行きゆかば ありしながらの母見るらむか  空穂の母は、空穂が20歳の時に59歳で亡くなってしまいます。この歌は亡くなって4年後に発表されています。空穂は母が39歳、父が41歳の時の子どもでしたから、かなりかわいがられわがままに育ったようです。その分、母が亡くなった時にはかなりショックを受けました。逆にいえば、若くして母が亡くなったからこそ鮮烈な印象を残し、こんな短歌ができたともいえるでしょう。空穂は歌人でありますが、早稲田大学国文科の教員として古典文学を研究した学者でもありました。坪内逍遥に認められて早稲田に設けられた国文科に専任講師として招かれました。43歳のことです。それまでは新聞記者をしたり女子美の教員をしたりしています。早稲田に招かれる以前の仕事としては、読売新聞の身の上相談欄の執筆が有名です。

 空穂は昭和42年90歳で亡くなりますが、発表されているだけで14000首以上の歌を亡くなる直前まで読み続けます。亡くなったのが4月12日。次の歌は4月7日のものです。                             四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し

 遠のきつつまた戻る意識を自分が見つめていることがわかります。こう見ると、死ぬことも怖いことではないと感じさせられます。