民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

近親憎悪

2006-08-30 12:19:06 | その他
 親が子を、子が親を切羽詰った事情もなく殺す時代になってしまった。当事者にしてみれば、そうせざるを得ない状況だったのかもしれないが、殺さなければ殺されるというほどの場面ではなさそうだ。親と暮らせなければ、その場を離れればいい。
 親子は、尊属殺人など特別な法規で制限しなければ殺しあうものなのだろうか。それとも、本来殺しあわないはずの者が、社会的条件などが変化して殺すようになったものだろうか。いずれにしても、親子が殺しあうということは、種としての存続を自ら絶つという意味で、末期的な症状ではないだろうか。親子で殺しあうか、子を産まないかによって人類という種は滅びました、と将来振り返られるようになるのだろうか。
 痛ましいことではあるが、増えすぎた人類は何らかの自然淘汰によって、数が適正まで減るか滅びるかは仕方ないのかもしれない。こんなこといったら、きっととんでもないと反論する人が大勢いるだろうな。

夏の驕り

2006-08-28 09:57:46 | 政治
 朝夕はめっきり涼しくなり、この夏の終わりが近いことが感じられる。夏のおわりの寂しさとともに、今年はまた、あの夏から世の中が変わってしまった、と歴史に刻まれるのではないこという寂しさとが重なり、何ともやるせない気分である。
 最近は、自分は決して前線に立つことはないとわかっている政治屋たちの、この国に命をかける、などという大衆受けをねらった威勢のよい発言ばかり聞こえてくる。こうした政治屋さんには、この国の人々を戦場に派遣する祭には、必ず自分が最前線の戦場に立つと念書を書いてもらいたい。先の戦争で、満州でガダルカナルで沖縄で、生きて虜囚の辱しめを受けるなと叫んだ軍人が、真っ先に戦線を離脱し、戦死のうきめにあったのは、上官の命をきた多くの無名戦士や庶民であったことを思えば、命令した者もされた者も戦争の被害をこうむったとして一緒くたにして、英霊に感謝するといった小泉首相の物言いは、とうてい容認できるものではない。まして、侵略戦争を肯定する靖国史観にいたっては、戦後日本の出発点を否定し、近隣諸国との友好関係を破壊するものであり、外国からの抗議の有無にかかわらず、認められるものではない。靖国フェチの人々がそういうならともかく、国として公的にそうした立場(サンフランシスコ平和条約を否定する立場)は、認めてはならないものである。
 先の戦への道として、五・一五や二・二六に代表される、テロルの時代があった。問答無用で反対する者を殺すというやりかたが、軍の意向に逆らえないという風潮を形作っていった。今月15日に加藤紘一氏宅への放火が、靖国発言を封じようとするものであることは明らかであり、絶対にこうした行為を許さないという態度が必要である。にもかかわらず、政府の公的な抗議声明がない。TBSの731部隊に関する番組で、安倍氏の写真がでたことには大げさなリアクションを示したにもかかわらずである。自分の考え方に反対する議員の選挙区に、大衆受けする候補を送り込んで落選させる首相であるから、火事で焼けたことなど加藤氏の発言に対する自己責任だ、くらいに思っているのかもしれない。
 ところで、靖国に最近集う若者が、自分の居場所を求めているのだとの新聞報道があった。カルト教団に若者がひきつけられるのと同じ危うさを感ずる。戦中を暮らした母たちの世代から、戦争中は物はなかったが皆助け合って心が一つになっていて、今よりよかった、などという発言を聞くことがある。言うこともいえず、新兵だからといじめられ、疎開先で子ども宛に送られた食料を教師が食べてしまう。醜い面は伝えられず、思い出はいつしか美しくなってしまう。そしてまた人を人が殺すのだろうか。