民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

考古学少年ー完結編補遺

2019-08-28 11:50:38 | その他

高校を卒業してから現在まで、最低1年に1回は僕たちの学年を中心にして、上と下の年代の地歴会の仲間は集まっています。とりわけ僕たちの学年の仲間は、結束が強いのです。それは、そうならなければならない理由がありました。

深志高校を卒業した年、都立大学に入った仲間の久保君が、体育の授業をしていた公園のベンチに激突して、内臓破裂で死んでしまいました。久保君はたくさんの日記や随筆のようなものを書いたノートを残していたので、遺稿集として本を編集しました。ところが、翌年には部長をして信大に入った和澤君がバイク事故で死亡してしまいました。和澤君についても、遺稿集を編みました。私が最初に編集したのが2冊の遺稿集だったのです。遺稿集を編集するのに、僕たちは何度も集まりました。そして、この次は自分の番かな? と仲間の死を悼みながら続いて死が訪れたことを訝しみ、この次にもまた死があるのではないか、そしてそれは自分ではないかと恐れたりしました。そして、機会を設けては集まったのです。まるで生きていることを確認しあうみたいに。幸い、次の仲間の死がやってくることはありませんでした。15年ほどしてやってきたのは、顧問のだった藤沢先生の死でした。この時も、私と百瀬君とで遺稿集を編みました。先生の残した論文の中からどれを選ぶかは、ベテランの研究者にお願いしましたが、立派な本となりました。


考古学少年ー完結編2

2019-08-27 15:25:15 | その他

高校2年の春休みに発掘したエリ穴からは、多数の土製耳飾りと土偶・土版などが出土しました。9月のとんぼ祭(文化祭)までには出土品を整理し、解説を加えて発表できる用意をしなければなりません。数多くの耳飾りを前にして、高校生の僕たちは頭を抱えました。三内丸山遺跡などまだ発掘されておらず、縄文文化はかなり貧しいものとして人々には意識されていましたし、授業でもそう教わりました。狩猟採集の縄文人は、日々の糧を得るのに追われていたと。ところが、精巧な透かし彫りなどがはいった耳飾り、それも数多くが出土した状態は、説明に困るものでした。これをどう説明するか、高校生なりに悩み討議しました。縄文農耕とか分業が行われていたとか、無い知恵を絞っても展望が開けません。そこで、顧問の藤沢先生にも相談しました。その時、これを読んでみなさいとわたされたのが、岩波文庫のフレイザー著『金枝篇』でした。この本から民族学というものを知りました。習俗から古代の暮らしを類推することが出来るのだとわかりました。そして、四苦八苦しながら、何とか文化祭での解説をクリアーし、考古よりも現実の暮らしの方に自分の関心は向いていきました。

そんなことをしていましたが、留年もせずに卒業を迎えました。百瀬君は考古学の道を貫き岡山大に進みました。どうしても受験勉強に向かうことができず、4年間のモラトリアムならどこでもいいと思っていた私は、かろうじて立命館に拾ってもらいました。1年下の後輩の高橋君は、藤沢先生の後を追って早稲田に進みました。そのご、百瀬君は高校の教員となり埋蔵文化財センターで長年発掘に携わりました。私は中学校の教員となり、長野県史民俗編の編集に携わりました。高橋君は民族考古学という分野を始め、パプアニューギニアの民族調査をしつつ縄文社会の研究を深めています。

高校生の発掘から50年を経て、それぞれの人生の中にその経験が位置付き、また、その後の行政による発掘調査の遺物を含めて、松本市の重要文化財の指定を受けたことに、感慨を禁じえません。


考古学少年ー完結編1

2019-08-26 16:32:06 | その他

松本市にエリ穴遺跡という、土製耳飾りなどを大量に出土した遺跡があります。その出土品の整理が終わり、いいものが市の重要文化財に指定されました。恐らく県宝を予定しての指定だと思います。その指定を記念して、早稲田大学の高橋龍三郎教授の、「エリ穴遺跡と縄文後晩期の社会」という講演会がありました。講演の後、高橋教授を交えて仲間で痛飲しながら、50年して物語が完結したのだと、しみじみ思いました。そうです、僕たちは考古学少年だったのです。

必死の思いで高校に入学しました。多分、それは周囲にいるクラスメートたち皆が思っていたことだと思いますが、入ってはみたものの、日々の勉強は難しく、なかなか理解できません。この年になって話せば、俺もそうだったと正直にいえますが、当時は恥のように感じて、なかなかクラスというものには溶け込んでいけなかったのです。おまけに、HRは2時間目が終わってからでしたから、自分の教室に私物は置かず、昇降口に各自のロッカーがあって、そこへ私物をしまって1時間目の授業教室に行くというシステムでした。なんだか居場所がないような、落ち着かない気分でした。そうこうするうちに、クラブに入りました。もちろん運動オンチですから運動部は除外して、文化部から地歴会を選びました。入部してわかったのですが、そこは中が考古班・歴史班・地理班に分かれて活動するのですが、部室の中はみんな一緒くたでした。そして、たまたまだったのですが、私の学年は入部した生徒の数が多かった。

しばらくして、部室のロッカーに私物を入れ、朝は部室に通学して、弁当は部室で食べ、放課後は土器をいじって部室から帰るという生活になりました。教室の成績による序列は気にならなくなりましたし、気の合う仲間と常にくだらないおしゃべりをして過ごすという高校生活になりました。地歴会考古班の誇りは、自前で発掘して、その遺物で研究している。他の高校の考古は本読んでるだけだ、というものでした。放課後の活動の多くは、春休みに合宿して発掘した遺物を洗って、1点ごとにナンバーを記入するという地味なものでしたが。どこを発掘するかは生徒が自主的に決め、文化庁への届けは顧問の先生がしてくれました。考古の顧問は、藤沢宗平という早稲田で考古学を学び、弥生時代を専門とする日本史の先生でした。実証主義を重んずる先生でしたから、高校生としては面白くは感じられなかったです。しかし、秋の文化祭に備え、暑い夏に部室の前の廊下でゴロゴロしている僕たちには目もくれず、遺物の実測なんかをしている先生には頭が下がりました。

そんな僕たちが2年の春休みに発掘しようと決めて掘ったのが、エリ穴遺跡だったのです。エリ穴最初の発掘は、僕たち深志高校地歴会だったのです。一緒に発掘した仲間に、指定に先立って、圃場整備に伴う発掘調査で出た遺物を含めて、エリ穴遺跡の膨大な遺物を報告書をまとめた百瀬長秀君が班長でいましたし、講演した早稲田の高橋龍三郎君も一級下でいました。もちろん、私もいました。50年して、またエリ穴遺跡が市民に広報されるというのですから、考古学少年たちの物語の完結編なのです。まだ続きます。