民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

『現代思想』

2017-03-29 11:02:02 | 読書

出雲に関する文献が何かないか調べていて、雑誌『現代思想』に出雲特集があるのをみつけました。今から45年ばかり前、ほとんど半世紀も前の学生時代、夢中になって読んだ雑誌に、『現代思想』と『伝統と現代』がありました。当時は民俗学と人類学がブームのころでしたか、割とよくいろんな雑誌がそうした特集を組みました。中でもこの2つの雑誌は、毎回のように私にとって興味深い特集を組みました。それから半世紀ですから、まさか今もって『現代思想』が刊行されている、そして今も民俗学関連のテーマで特集を組んでいることに驚き、うれしくなりました。ネットで興味深そうなテーマを選んで購入しました。「出雲」2013年12月臨時増刊号、「柳田國男」2012年10月臨時増刊号、「網野善彦」2014年2月臨時増刊号、「神道を考える」2017年2月臨時増刊号です。読んだのは「出雲」だけですが、刺激的な論考で構成されていました。1冊通して読んでみて、出雲を中心とする環日本海文化圏のようなつながりが、伊勢ー天皇支配とは異なるものとしてあったのではないかと想像されました。天皇制を相対化する試みとして、出雲はなくてはならないものとの思いを強くしました。その延長として、おそらく「神道を考える」はあります。そしてまさに現代思想として、森友問題た安倍昭惠氏の行動を理解するために、というかどうやら底辺にうごめくものとして、神道がまた表に出てきそうな感じです。その表紙の写真ですが、沖縄でみたあのセーファーウタキの巨石のトンネルのようです。トンネルの向こうが琉球最上位の巫女、聞得大君が神の託宣を得た場所なのです。読者をあの向こうの場所に誘おうとするのでしょうか。


映像民俗学の会松本大会2日目

2017-03-27 14:16:00 | 民俗学

昨日、2日目の大会に参加しました。この日は海外をフィールドにした作品が主で、午前中はアジア地域、昼食をはさんで日本と、アフリカを舞台にした作品が発表されました。私は、午前中だけ参加しました。

午前は、バリ島の火葬儀礼が2作品、中国雲南省のワ族の葬儀の3つでした。どれもアジアの環太平洋地域ということで、豚を儀礼食とすること洗骨など、どことなく共通する雰囲気が感じられました。この国の文化、特に沖縄の文化は広い文化圏で見ないと解明できないことを痛感しました。ワ族が殯(通夜)の際に歌う葬送歌はこぶしがまわって、盆踊りのようでもありました。また、どの文化でも死後の世界を現世からの延長として生き生きとイメージしており、その中で葬送儀礼が理解されるものでした。やはり海外の習俗については、映像で見ることは大いに理解を助けるものでした。また、この日は映像記録の技術的なことが話題となりました。特に、現場の音をどうやって拾うか、編集作業として整音(シーンごとの音のレベル調整)が大事なこと、文字情報は多く入れがちだが多すぎると映像を見ないでテロップばかり追ってしまうなど、なるほどと思われる指摘がいくつもありました。

外国の葬儀の現場を見て思ったのは、どこでもたくさん調理してよく食べるのが葬儀だということです。これって日本も全く同じだと思いました。妻の祖母の葬儀(40年近く以前)までは自宅で行い、近所の人が調理していました。とにかく何でもたくさん作り、作った料理の多くは自分たちの食べる物でした。朝から来て調理して葬家で食べたのです。葬式が終わると大量の食品が残り、最後は畑に穴をほって埋めました。あの時の映像をとっておけばよかったと思いました。ワ族の葬儀とやってることは同じですから。皆が集まってきて、ワイワイ言いながら連日会食していたのです。ヒンズー教で階層制度の厳しいバリでは、多くの費用をかけてやる葬式が貧富の差の解消の役目をになっているようです。富者から貧者への富(食品)の移動ということです。


映像民俗学の会松本大会 1日目参加

2017-03-25 16:49:52 | 民俗学

世話になっている神宮寺で、映像民俗学の会松本大会が開催されるということで、1日目に参加してきました。テーマが「死者と生者の通い路」ということで、葬送儀礼や口寄せに関連した映像・解説を多く見ることができました。

午前中は、新野の盆踊り・神送り行事、奄美の洗骨、精霊の山ハヤマの作品を鑑賞し、最後に東北大学の佐藤弘夫氏の日本人の死者観の変遷についてのコメントがありました。奄美の洗骨は強烈でした。骨を洗うといっても形ばかりだろうと思っていましたが、本当に骨を全部拾い出して、水をかけてゴシゴシ洗うのです。さすがに肘まである長いゴム手袋をはめていましたが、掘り返すのは男性で洗うのは女性です。嫁が義父母の骨を洗うのは、何でこんなことまでしなければならないのと、疑問に思うのも当然です。数十年前から急速に火葬が普及したが、年寄りばかりで掘り返す人手がないからといってましたが、洗う女性が嫌がったのだと思います。隣り合った村で、洗骨する村としない村があるというのも不思議でした。洗骨のある村では、遺体が掘り起こすとききれいな骨になっているか気が気ではなかったという。肉がついていたりすると、死者が成仏しないでさ迷っていると思うのだそうです。佐藤さんの話は、私の思いと重なるものでした。だんだん、死後の世界が共感されなくなり、生きる世界と死後の世界が断絶してきて、いろんな問題が起きてきたこと。ハヤマでは伊那のロクドーの森を想起しました。

午後は、百石いだこ祭、御嶽講の御座、津波の被災地での神楽復活の端緒、チベットの鳥葬でした。鳥葬の映像は衝撃的でした。望遠でとったとのことでしが、魂の離れた肉体は単なる肉のかたまりにすぎないと考えていることがよくわかりました。分解して鳥の餌として投げてやるのです。総じて午後の作品は、民俗学としては食い足りないというか情報不足だと感じました。それと、映像でとる意味は何かもっとつきつめておかないと、論文に書いたほうが、聞き書きを文字にしたほうがいいではないかと思うものもありました。映像にして単純になるほどと思えるのは、芸能か儀礼だと見ていて思いました。だだ、映像作家がとったものは絵になる場面でも、もっとバックデータがほしいと思いました。民俗学者がとった映像だとまた違ったものになるでしょう。


豊洲・森友・戦後処理

2017-03-24 19:24:36 | 政治

連日の予算委員会での森友問題の審議に注目が集まっています。同時進行みたいに、豊洲移転の問題もあります。ワイドショーではネタに困らないでしょうし、番組の構成しなくて、ライブで国会審議を流したほうがむしろ面白いような状況です。政治への国民の関心が高まっていいという見方もできますが、ワイドショー政治でいいのかとも考えてしまいます。

豊洲の市場長などの発言や、昨日の籠池発言、今日の担当役人の発言を聞いても、残念ながら何もわからないだろうという予想が立ってしまいます。みんな知らないとか、言われるとおりにしたとか。石原元知事が際立っていたのですが、既定の路線に抗うことができず、自分はそれに従っただけだと。森友問題の忖度の問題も、誰も賄賂をもらうとか何か見返りを約束してもらったとかは今のところありません。事実なかったのかもしれません。あったのは、忖度合戦です。いかに上司のいうことを先取りして気に入ってもらうか。上に立つものは、そうした行為がわかっていても、絶対それについて口にしない、公になったら部下がかってにやったことだというでしょう。北朝鮮の官僚がやると、ひどい将軍様のご機嫌とりだとかと解説するマスコミが日本の役人がやるとそうはいいません。

いったい誰が判断して最終的に決裁したのか、なんとなくはっきりしないままに終わってしまいます。豊洲も森友も今のところそうです。それは、あの戦争責任の取り方や戦後処理の在り方についても全く同じです。誰が決裁したのかはっきりしないままに、いたずらに時間が経過してうやむやになってしまう。全くこの国の人間は、責任者をいつまでたってもはっきりさせないのです。だから無能な管理職がはびこってしまう。


ねじれた天皇制

2017-03-20 10:47:04 | 民俗学

天皇の退位問題も大方の話が出そろい、政府の対応も固まったみたいです。自分の出すサインを忖度(はやり言葉みたいですね)してくれない政府にしびれをきらした天皇が、自分の言葉で自分の希望を語ったことから始まった問題ですが、なぜマスコミから問題が始まったのかとか、誰がマスコミにリークしたかといった問題はどこかにぶっとんで、天皇さんはかわいそうだから楽にしてあげたいという世論が高まり、ほっておきたかった政府も手を付けざるを得なかったということでしょうか。こうした問題の起こり方に対して、先日の新聞で原武史が危惧していました。国民主権なのに天皇の意思によって天皇の立場を変えていいのかと。確かに筋ですし、天皇が戦争したいといえば、この国は戦争するのかということになってしまいます。確かに、老いる天皇の姿から、もっと早くに国民か議会の側から退位を口にすべきでした。

ここへきて天皇の問題を考えると、保守的な人々、極端には明治憲法を是としてそこへ世の中を戻そうとする人々と、現憲法を是として守ろうとする人々の間で、天皇像にねじれがあると思います。現在の天皇は国民統合の象徴としてあります。したがって仕事は全ての国民の幸せを祈ること、とりわけ傷ついた国民とともにあって痛みを分かち合い慰めることが主体となろうと思います。現天皇はそのことをよくわかっています。そして、皇室の地位は日本国憲法によって守られていることも。日本国憲法を遵守しなければならないと切実に考えているのは、天皇が一番だと思います。この象徴としての天皇と、天皇の位が血統によって継承されるということは、すんなりと繋がります。そこにねじれは感じられません。努力すれば象徴には近づくことができます。一方、明治憲法下の天皇は祭祀王としての天皇です。もちろん、現天皇も宮中祭祀は行っていますが、それはあくまで家の祭りです。明治憲法下では家の祭祀がそのまま国の祭祀でありました。だから、保守派の人々は天皇の主たる任務は宮中祭祀だから、体力がなくなったなら日本各地を訪問することなど、代理を立てるなどして自分でやらなければいいのだといったのです。ところが、祭祀王としての天皇は男系長子で継承するという血統相続とは適合しません。必要なのは霊性の資質です。つまり、祭祀王としての天皇は血統相続と適合せず、象徴天皇こそが血統相続に適合するという「ねじれ」があるのです。


辺見庸

2017-03-19 09:26:20 | 政治

再放送


◎3月18日午後1時「こころの時代」再放送

友人各位

いかがおすごしでしょうか。小生は花粉症、麻痺悪化、右目硝子体
出血、歩行困難、視床痛、慢性うつetc.でヘロヘロですが、犬とともに
冗談を言いあい、なんとか生きております。さて、2017年3月18日
(土)午後1時から「こころの時代」がNHK教育テレビで再放送され
ます。

12日の放送をみのがしたかたはぜひご高覧ください。テーマは拙著
『完全版1★9★3★7』に直接かさなるものです。初回の放送は非常に好評
でしたが、一部視聴者から「抗議」もあったと聞いております。
再放送をご覧になり、お感じになったことやご意見を、NHKあてに
メールや電話でお寄せいただければさいわいです。

・番組名  こころの時代
・副題  父を問う――いまと未来を知るために
・出演  作家・辺見庸&小さな犬
・再放送日時  2017年3月18日(土)午後1~2時 Eテレ

昨日のことです。昼を食べて少しテレビでも見ようとチャンネルをさぐりました。リモコンを押していくと、Eテレで「こころの時代」という番組が始まるところでした。心の時代とはそもそも何なの?不思議に思って見ていると、辺見庸が父について、父の戦争責任について語り始めました。不自由な体を抱えて、ゆっくりと思考をめぐらしながら言葉を絞り出す辺見の姿に、姿勢を正さざるを得ませんでした。見終わってから検索した辺見のブログが上記のものです。
 
辺見は長野県の地方紙に時々評論のようなものが掲載され、それがかなり深く反省を促すものでありましたから、気になってはいました。どんな姿かは知らなかったので、右足を引きずりながら右手が動かないなかで、マイクに向かって話しかける姿は迫力がありました。そしてその内容が、今と戦前の政治状況がパラレルなものであり、人々の意識に敗戦の断絶がないではないか、戦争でおこなった残虐行為はまるでなかったのごとき今のこの国のふるまいではないか、というある種のいらだちを表明するものでした。まったく同感ですし、親たちの世代は何をしたのか、自分がその時代にいたらどうしたのか、という問いかけはしごく真っ当なものでした。よくぞNHKはこんな番組を放映したと、ちょっと見直しました。スポンサーを必要としないNHKだからできた番組です。

A先生の秘密基地

2017-03-17 17:22:57 | その他

以前に書いたA先生が購入して退職後に通って農業をしている松川村の家を訪問しました。周囲は田んぼで、隣に家はありますが、年寄りが亡くなって空き家になっているとのこと。農地付きの古民家ではありませんが家を購入し、3年かけて自分でリフォームし、まるで子供のころあこがれた秘密基地のようにしてしまいました。自分で床をフローリングに張り替え、壁に漆喰を塗り、トイレをウオシュレットにかえ、マキストーブを設置されました。マキストーブの煙突の壁の穴も自分で道具を買って加工したそうです。そのマキストーブの前で、手打ちソバをいただきました。これがまたすごくうまい。細く長いそばは職人並みです。いえ、これは完全にそば職人です。夏は加工トマトとトウモロコシを栽培して出荷し、雨の日は陶芸そしているそうです。家の裏に電気の窯が備えられていました。部屋のあちこちには、陶芸の作品が並んでいます。冬は、粘土は凍ってしまうので、油絵を描いたり木彫りの彫刻をされているとのこと。ストーブの傍らに描きかけの油絵がありました。

工作道具がいくつもありましたが、亡くなったお父さんが日曜大工が趣味で道具をたくさん持っていたので、それを今使っているとのこと。工作道具は、まさに秘密基地らしい眺めでした。

面白かったのは次の写真。これは日本ミツバチをおびきよせて住ませるための巣箱と、ミツバチを招くフェロモンを出すランだといいます。暖かくなってランの花が咲いたら箱の前に置いて、ミツバチを招くのだそうです。日本ミツバチはなかなか巣の選定にやかましく、気に入らないと入ってくれないそうです。おまけに、近年は大きなラジコンのヘリで農薬の空中散布を始めたために、地域一帯の虫が少なくなってしまったといいます。

 

帰りには庭にいくつもの種類を植えてある木の実で作ったジャムと、作品の湯飲み、打ちたての蕎麦、ビニールハウスで育っている葉物野菜などをいただきました。悠々たるかな人生。


陸自日報問題

2017-03-17 08:54:31 | 政治

最近政治がらみで書いていることが多くなりました。それだけ「おごり」の目に余る政治家の所業が、多くの人の目に留まるようになったということでしょうか。私として特に気になるのは、陸自の「日報」問題です。稲田大臣の大臣能力が問われ、辞任させるとかしないとかが問題となっていますが、この問題の本質は別の所にあります。それは、自衛隊という軍がシビリアンコントロールを失いつつあるのではないかという怖れです。日本軍が中国で戦線を拡大していくとき、国内の政治家は状況をよく理解していませんでした。というか、情報を国会にあげてこなかったのです。現場がどんな状況にあるか、軍という組織にとって得になるかならないかで情報を取捨し、不利な情報はあげないことが、ズルズルと取り返しのつかないところまで戦線を拡大させたのです。今回も、自衛隊の存在意義を高めてくれる安倍内閣にとって有利にふるまうことが優先され、現場の厳しい状況は国民に知らされなかったのです。軍が上層部にとって不利な情報を開示せず、ひどい状況の前線に兵士を送り込むのは、先の戦争の太平洋地域の戦闘では常套的に行われたことではありませんか。挙句の果てが、全滅が玉砕、撤退が転戦とごまかされたのでした。同じことが行われる萌芽がここにあると思って、嫌な感じがするのです。日報を隠したこと、あるいは破棄したことも、同じことを行政がしているではないかと制服組は怒るでしょう。そうです、森友とのやりとりの記録は破棄してしまってないとか、豊洲移転に関する交渉過程の記録は破棄してないとか、都合の悪い記録はすぐに破棄してしまえばいいというのが、これまでの行政のやりかたです。その後、破棄した責任を問われたという話は聞きません。捨てたもの勝ちという状況が、この国の無責任な政治風土を作っています。日報問題にしても、何でもっと上手に破棄しなかったのだという舌打ちが聞こえてくるようです。

文書の保存に関する厳しい法律を作って官僚、政治家を縛らないと、この国はどこまでも迷走し被害は国民に及びます。


サウジアラビアの王様来日

2017-03-15 14:46:55 | 政治

サウジアラビアの王が1000人規模で来日している。そして、あたかも千夜一夜物語の現代版であるがごとく、専用の飛行機から降りるためのエレベーターの持ち込みから始まって、その桁違いの豊かさを羨望の思いとともにマスコミは報じている。お金持ちのおこぼれにでも預かりたいという、爆買いがあったかなかったかや、店に来たかなどの情報です。ところが、サウジアラビアというのはどういう国かという恐ろしことは全く報じられませんでした。

数か月前、偶然BBCが作ったドキュメンタリー番組でサウジアラビアについて知りました。サウジアラビアは厳格なイスラム法を適用する、絶対君主国なのです。外国のマスコミが入国することを禁じていますから、国内で何が行われているのか、私たちはほとんど知ることができません。その番組では国内の協力者によって内密に撮影した映像を使っていましたが、町の中につるし首にした死体がさらされていたり、女性の人権が認められなかったり、音楽を作ったり演奏したりすることも認められていません。モチロン出版の自由なんかありません。王族が絶対的に支配する国で、自由と民主主義の敵といってよい国なのです。アメリカにすれば、人権問題で最高級に避難し攻撃してもよい国なのです。だいたい今現在で、石ごめ刑とかむち打ち刑とかが広場に見物人を集めて行われるのは、世界中であれほど皆が嫌悪する「イスラム国」と同じなのです。イスラム国は先進国がこぞって潰しにかかり、同じようなことをしている(直接テロに手を染めているのではありませんが)サウジアラビアとは、首脳がにこやかに握手をかわす。すべては資源のなせる技です。先進国はサウジの石油を獲得したいがために、絶対王政の人権抑圧には目をつぶる。大企業がスポンサーのテレビ局も、知っていながら知らないふりをしてサウジアラビアの内情については何も報道しない。その結果、本当に何も知らない日本人がいてもっとおつきあいをして、日本との貿易が拡大すればいいと単純に思う。多分その人も、人権保護については熱心であったとしても。ダブルスタンダードの人権基準は理不尽ですし、何もしらされないことも恐ろしい。


演歌の衰亡

2017-03-14 13:03:22 | 民俗学

最近BSでは歌謡曲、それも演歌を中心に聞かせる番組がいくつかあります。このままでは演歌は無くなってしまうといった危機感が政治家にもあり、そうした空気とテレビを見るのは高齢者が多いといった空気から、歌謡番組が復活してきたのかと思います。これだけテレビチャンネルが増え、人々の好みも多様化したことから、国民的歌手といった芸能人は今後出現しないでしょうが、演歌という歌のジャンルは民謡のようにマニアしか聞かなくなるように思います。それはなぜでしょうか。

演歌を聞いていると、まるでかつてのヤクザ映画のようにある種の様式美があるように感じます。その様式美が現代に合わなくなってしまったのです。演歌の主題は、故郷(田舎:都市)、悲恋(水商売の女:既婚の男)、流れる男(女):定住する女(男)、耐える女:捨てる男といったものや、酒、港、漁などがほとんどでしょう。元来演歌とは、風刺や抵抗から始まったはずなのですが、政治に抵触する主題をそぎ落とし恋愛と仕事の歌だけにしてきました。世情に無関心を装うことで芸能としての延命を図ってきとことが、世の動きにうとく独りよがりの世界を構築してしまうことになってしまいました。

女性の演歌歌手の歌を聴いていて思ったのは、江戸時代からの悲恋のシチュエーションの伝承です。江戸時代の悲恋といえば、廓の女と町人の男との道ならぬ恋です。遊郭は大店の旦那がゲームとしての恋愛を楽しむ場なのに、若者が本気で花魁に恋をして、どうにもならない間柄を心中という形で成就するというものです。結ばれるための障害が高ければ高いほど、悲恋の度合いも高まって人気度が上がる。それが近代、現代に舞台を移せば、水商売の女と既婚の堅気の男となります。成就するはずのない恋に涙を流す女の心情を歌い上げる。ある面、男の作詞家の作り出した男を気持ちよくさせる場面設定を、いつまでも引きずり続けました。若者からそんな歌が好まれない、若者の心情に全く訴えなくなってしまったのです。はっきりいいます。演歌は滅びます。しかし、演歌のメロディーは残ると思うのです。演歌で恨みの歌、抵抗の歌を作らないですかね。