民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

民話考

2005-08-28 11:49:16 | 民俗学
 私は学生時代に2年ほど、集中的に昔話の調査をしていた。当時は、今ほどのブームでなく、自分の子どもに話して以来、何十年ぶりで語れたよかったと、話者のお年寄りにいわれたことも一度ならずであった。資料としての話の調査は、できるだけ作為を排して伝承のままを記録するようにした。これは、読んで記憶したもと思われる話は、資料としては記録しなかった。話者と調査者の相互作用で、語りの場が生まれるなどと、難しい話をいうことは今回はやめて、伝承された話を対象としてきたのが、民俗学であったといえよう。ところが、その後昔話・世間話・笑い話が、民話という大きなジャンルとしてくくられ、しかも民話は創作なのか伝承なのかなどという区別を厳密にしなくなった。最近は読み聞かせという、読書運動?も盛んになり、民話の語り部講座まである。そうなると、この地の伝統だとして、創作した話が語り部の口から語られるようになる。
 民俗学を現代にどう生かすか、という視点からはどんな形であれ、語りが復活してくることは喜ばしいことであるかもしれない。しかし、それが民俗学風に味付けされることで、お墨付きをもらったように、創作されたはなしが、この地に古くから語られた「民話」とされて、宣伝の道具となることはいかがなものだろう。古くからだろうが、最近からだろうが、そこに暮らす人々が語り継いできたと信ずるならば、どっちでもいいような気もするが、最近の「民話」とか「語り部」とかいう用語をみると、どうもすっきりしない思いになるのは、ミンゾクガクの形態にこだわる年寄りのなせる技なのだろうか。

学力は低下しているか

2005-08-24 12:39:54 | 教育
 世の中が郵政の問題の方を向いているのでしばらくは大丈夫だが、この問題が落ち着くと学力問題が蒸し返されるに違いない。自分が考えるに学力問題の論点は2つある。本当に学力は低下しているのか。低下しているならば、それは教員の力量の低下のためなのか、である。
 まず、学力の定義をしなければならないが、上がった下がったとかまびすしいのは、テスト点の平均点である。とすれば、数年単位での比較ならば同じ問題だが、10年20年を隔てての比較は、問題の質が違うので単純に平均点での比較はできないだろう。問題の質は同じだと仮定した場合でも、次には点数のバラツキが問題になる。最近の点数の度数分布を見ると、2こぶラクダの形が多い。つまり中間層が少なくなっているのである。この分布を無視して、平均点だけを比べても現実を反映しているとはいえないだろう。
 私は学力低下というより、得点の中間層が少なくなってしまっていることの方が問題だと考える。いつの時代も、勉強そのものが面白いと感ずる人と、ほとんどお手上げで文字を見る気もしないという、少数の人々はいた。しかし、大部分はそこそこできて、そこそこわからない人々だったはずである。それでも、頑張れば今よりよい暮らしができると思って、踏みとどまった。ところが、今の世の中、よほど優れていないと将来の生活設計などできない。単純労働の正規社員はいらないから、少しばかり勉強した所で派遣社員がせいぜいである。努力する価値などどこにあるというのだろう。勉強するためのモチベーションがなければ、中間から脱落するのは早い。いったい、誰のための構造改革だろう。リストラをし、自己責任を問い、若者を正規社員として採用しない社会が、学力低下(平均点低下)の原因を、教員に押し付けて説明しようとしている、というのが私の見る学力低下である。
 教員の資質がそんなに低下したのか。逆に、昔はそんなによい先生がいたのか。否である。今の教員のほうが数段研修しているし、熱意も高い。これ以上どうしろというのだ、と私は言いたい。
 

クロといたころ 3

2005-08-23 10:42:48 | 教育
 2年になってクラス替えをしたが、1学期にY君が自ら命を絶った。家庭的なことといって、原因は全く知らされなかった。僕たちはこの事をどう自分の中に位置付け整理したらよいのか、宙ぶらりんのまま2学期を迎えた。文化祭も近づいたある日、1棟の屋上の一番東側から、実行委員長のM先輩が宙にとんだ。自分の思うように文化祭が盛り上がっていかないことに悩んだ末だという。そして、3年時だったか、卒業生が静岡方面の旅館で自殺したという事件が確かあった。世の中ではうちゲバとかいって、若者が結構命をたっていた。
 クロは、担任となった筑邨さんの後をついて、現国の時間に教室にきた。授業中クロがどうしていたかは記憶に無い。そういえば、現国の時間にこんなことがあった。前後の関係は忘れたが、筑邨さんが「秋刀魚はどんな味がするか」と質問し、列の前から順に答えた。自分がどう答えたかは忘れたが、後ろに座った女子生徒のTさんが、「秋刀魚は苦い」ときっぱりと答えた。この答えに不満だった筑邨が、苦いわけがないと否定すると、Tさんは泣かんばかりに、「絶対に秋刀魚は苦い」といいきった。僕は、何もこんなことで対立することないのに、とぼんやり考えていた。このTさんは、今ではNY在住の現代音楽の作曲家となっている。自分の感性にこだわったのもむべなるかなと、今にして思う。
 卒業したとしに、都立大に進んだ友人が、体育の授業中の事故で亡くなった。いよいよ死神は、自分たちの身近に及んできたかと思わされた。同じクラブの仲間で追悼文集を編んだが、この年には先輩も2人亡くなった。1人は鉄道に飛び込み、1人は持病の心臓マヒだった。そして翌年、クラブの部長だった友人がバイクの事故でなくなった。彼にも追悼文集を編んだ。僕は大学2年になっていたが、皆、死にほとほと疲れていた。次は自分かと、みんな考えていた。
 メルヘンのような高校生なんているわけがない。それでもクロはいた。

敗戦記念日に

2005-08-15 10:30:06 | 政治
 一般には終戦記念日と呼んでいるが、私は敗戦にこだわりたい。日本は戦争に負けたのであり、そこから目をそむけたら何も始らない。敗戦60年という節目にあたり、戦争に関する番組がいくつも放映されている。戦争の風化を防ぐために、それは決して悪いことではない。ところが、その内容をみると大部分というか全て、被害に焦点を当てたものである。あの戦争では、庶民はこんなにひどいめにあったのだ、という主張である。日本の軍隊はこんなにひどいことをしたのだ、という番組はない。被害の経験はいつまでも語り継がれるが、加害の経験は忘れられていく。自国の対応がそうなのに、侵略し多大な被害を与えた近隣諸国には、どうしていつまでも過ぎた戦争にこだわるのか、もっと未来志向で行きましょうと、被害の経験を忘れることを期待する。この国際感覚以前の、人権感覚のなさの甚だしい、恥ずかしい日本人の私も一員である。
 先の戦争当時、親は子をどんな気持ちで送り出したことだろう。もはや、自らが戦地に赴くというより、子を送り出す歳になってしまった今、そんなことを考える。長男は、敗戦記念日の今日、戦勝国で今現在戦時下のアメリカに向けて、留学に旅立った。現在のアメリカに送るでさえ、こんなにも心配なのだから、戦争に送り出すとは胸もつぶれる思いだったはずである。大事に育てた子どもを、戦争などにとられたらたまらない。

クロといた頃 2 ガミさんのこと

2005-08-07 12:45:44 | 教育
 今回は1年の時の担任だったガミさんのことを書こう。ガミさんこと石上順先生は、個性豊かだった教師陣の中でも、とりわけ異彩を放っていた。教えていたのは古典で、源氏物語の授業には、石上源氏とかいって定評があった。ガミさんの古典の根底には、民俗学があった。(ちなみに石上堅氏はご兄弟だそうな)折口の教えを受けたといわれ、本文中に記述される行為の背後にある意味を解き明かされるとき、例えば後朝の別れとは、着物に付着している相手の魂と1つになるために着ているものを交換するのだ、などといわれると高校生の自分は、なにやらうっとりとした思いとなったものだ。そして、まるで大学生に話すようにまるで子どもの自分達に話し掛けてくれるから、生徒からの人気も高かった。私もそうしたファンの1人であったし、民俗学への憧憬もこの時期に養われた。自分には恩師と甘美な響きで呼べる先生はいないが、あえて一方的にいうならガミさんだ。
 ガミさんの授業は(講義といってよいものだった)は、大変深みのあるものだったが、いかんせん自習が多くて、授業はあまり進まなかった。そのため、考査の前にはかなりなスピードで進んだり、時にはプリントを配ってすませることもあった。このプリントがすごかった。3ミリ方眼の原紙に活字のようなきれいな字が、びっしりとならんだ本文と解説である。私はこのプリントを見ただけ、そのすごさに内容も理解せずうっとりしてしまった。数十年もたった今も、このプリントを大事にとってある友人もいる(民俗学の見地から出版できないかと相談されたこともある)から、うっとりしていたのは自分だけではないだろう。自習にしてプリント配り、そのプリントをありがたがる生徒がいたんだから、よき時代ともいえるがガミさんもすごかった。自習のときガミさんは、授業なんかより友とダベル自習のほうが意味があるのだから、大事にしろと、生徒の自尊心をくすぐってくれた。でも僕たちときたら、早弁をするか、体育館で卓球でもして遊ぶくらいしか能がなかった。
 ガミさんはスタイリストだった。まず、髪はオカッパにしていた。当時そんな大人は見たことなかったから、かっこよかった。そして、黒縁めがねをして白いタートルネックのシャツに、黒のダブルかシングルのスーツをきていた。烏族なんてものが現われるずっと前のことであるから、これも強烈な印象だった。このスタイルは当然真似する者がでる。教え子の中に、オカッパにする者がいたし(例えば現文書館館長など)、自分もしばらくタートルネックにこったこともある。

クロといたころ 1

2005-08-04 15:33:21 | その他
 クロは本になり映画にもなった。犬とともに暮らす暮らす高校生 現代の民話 みたいな扱いであったが、当時高校生だった私には、どうしてもしっくりしないものが残った。あのころの僕たちは、牧歌的な高校生活を送ったのでもないし、校内に犬がいるからと心優しかったわけでもない。というよりもむしろ、校内にはペシミスティックな雰囲気が漂っていたように思う。確かにクロはいた。卒業記念の写真にもクラスの一員のように写っている。とはいえ、クロは風景の一部に溶け込み、空気のようなものだったのである。
 校内に漂う死の影の原因は何だったか。時は学園闘争の真っ盛りである。僕たちは高校生ながら、漫然と勉強していていいのかという思いはあった。また、古典の石上先生(ガミさん)は、60年安保のとき先輩たちは整然と隊列を組み、安保反対を訴えてデモをしたのに、君たちは。みたいなことをいわれた。学ぶことの意味を根源から問うようにという、社会の雰囲気があった。かといって、何をしたわけでもなかったが、ノーテンキナ高校生をやっているのでもなかった。それから、自分が入学する前年、西穂の集団登山で落雷にあい、生徒に多数の死者を出したことも、校内に暗い影を投げかけていた。とはいえ、僕たちはいつも死の影におびえていたわけではない。高校生らしく馬鹿騒ぎもし、信じられないようなアホなこともした。
 クロは、公使室のコンクリートに敷かれた専用のマットの上で、横になるか座っていた。クロがほえた声は一度も聞いたことがなかったが、高校生の僕は感心もしなかった。ただ、静かな犬だと思ったのである。そして、現代国語の筑邨先生の授業にはいつもついてきた。2年からは、筑邨さんが担任になったから、必然的にクロが僕らの教室に来る回数も増えたのである。

敗戦後60年

2005-08-03 14:24:58 | 政治
 敗戦後60年を経過し、ますます戦後というより戦前の様相を呈してきた作今だが、だからこそ戦争について考えておきたい。そんな意味もあって、ビデオで借り手2本の映画を見た。「父と暮らせば」「戦場のピアニスト」。特別な意味があって、この2本を同時に借りたのではないが、間をおかず2つを見ると、考えさせられた。一方は、家族を捨てて生き残ってしまったという罪の意識の物語、他方は家族を捨ててでも自分の生つまりピアノを弾くことにしがみつく物語。
 極限で人はどのようにふるまうのだろう。阪神淡路大震災の時、瓦礫の下から家族を助け出せず、見殺しにしたと心を病んでしまった人も多いときく。何故自分だけが生き残ってしまったのかと、自分を責める気持ちはよくわかる。一方で、極限に追い詰められていれば、ともかく自分の生にこだわって助かろうとするのも納得できる。
 いずれにしても、戦争が理不尽に人の命を奪うものであることに間違いはない。戦争も政策の選択肢だとうそぶく輩は、自らをまず最前線に置くことを前提として物をいうべきだ。