民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

赤羽王郎の生き方 2

2018-02-17 17:05:50 | 教育

 王郎の記念室で撮ってきた写真を、さっそく旧知の教育史をしているT先生に送りました。すると、T先生から、王郎の「甑島日記」のコピーが送られてきました。T先生の奥さんは、王郎と昵懇のなかであった高津作吉の弟、高津弥太の娘であり、その縁で王郎の「甑島日記」の原本が、T先生のてもとにあるのです。そして、1970年に王郎が行った信州講演旅行の途次、T先生の職員宿舎に一泊したことがあるというのです。

 甑島に王郎は1925年から27年まで、上甑村中津小学校の教員として勤めています。その間に書いたのが「甑島日記」ですが、そのなかに気になる記述があります。
1月8日 子供達への手紙
子供達よ。俺はまた病んでしまったのだ。申し訳なく思ふ。君達との約束、自分の仕事、それらはお恥ずかしいが何一つ為遂げてはゐないのだ。暮れの29日から今日まで何もせず、そして今日から学校が始まるといふのに君達と一緒に元気にスタートすることも出来ず、徒に鈴の音を聞きながら臥せてゐなければならないとは何といふ残念なことだらう。(略)
子供達よ、俺はもう大分よろしいのだから心配しないでくれ。もう直に君達の顔が見られると思ふ。もう23日だ。済まないが皆で相談して仕事をしてゐてくれ。算術と読方に主力を注ぐやうにしてなるべく共同学習〈註:王郎独特の学習形態〉でやって貰ひたいものだ。甚だ自分勝手な註文だが、どうかよろしく頼む。(以下略)

病気で休んでいる王郎が、子供達に手紙でだした自習の指示ですが、共同学習でやってくれというのです。王郎は大正時代に既に子ども中心のグループ学習をしていたというのです。また、こんな記述もあります。

1月29日 どうも俺はまだ子供に圧制でいけない。教ヘる忠告する、それよりも余計に叱りたがる怒鳴りたがる。子どもをもっともっと尊重することだ。一人ひとりwp見て行く時自分にそれは安々と出来る。しかし何か全体の仕事をさせやうとするときはもどかしくなって𠮟りとばす。爆裂してしまう、肝が短い、我慢ができないのだ。これでは本物の教育は出来ない。「命令」「圧迫」こいつを早くとり去りたいものだ。「どんなことがあっても叱らない」、この境地に早く至りたいものだ。

いったいいつ書かれた文章なのか考えてしまいますが、今から90年も前です。王郎のもつ先見性に驚きますし、100年たっても教授法に大きな変化がないことがわかります。今の若い教師に王郎の言葉を教えてやりたいものです。


赤羽王郎の生き方

2018-02-17 15:54:50 | 教育

更新をしないままに時間が流れてしまいました。もともとは、民俗学的思いつきをメモしておくためと、政治について腹が立った時に書こうと始めたブログです。現職のころは、そうした書きたいことがいくつもあり、次々と書いたのですが、退職して一見時間があるようになると、思いついても原稿書きが先とか、校正が終わったらとか、この資料を読んでからなどと思っているうちに、どんどん時間がたってしまいます。ストレスが書く意欲を掻き立てていたともいえますし、退職後も思ったより忙しいともいえます。今書きたいことは、宗像大社と伊勢神宮の関係、赤羽王郎記念室、念仏講、送ってもらった福田アジオ先生の著書のこと、アメリカから仕事で帰国したJ君と飲みながら話したことなど、多々あるのですが、今日は赤羽王郎について書いてみます。以前にもちょっと書いていたのですが、だぶらないでしょう。

鹿児島県民教育文化研究所を訪ね、頒布していただいた最後の1冊だという南大三著『赤羽王郎の生き方』という本の最初「◇赤羽王郎記念室と年譜」という部分にこんな記述があります。

 1981年5月21日、赤羽王郎翁が鹿児島市下福元町の6畳3間の寓居で95歳の生涯を閉じて半年後の12月19日に催された県民教育文化研究所の開所式で、主催者は次のような挨拶をした。
 「赤羽先生は95歳の生涯を通じていつも子どもを見つめ、子どもに徹し、人間の自由のためのほんとの教育を求めて生き続け、そしてこの鹿児島で生を終わられた。われわれにとって先生が晩年を鹿児島で過ごされたことは何よりの幸いだったと思います。県民教育文化研究所は、先生の生涯を通して求め続けたもの、その教師としての生き方を引き継いで確かなものにするため、設立することを企画しましたが、先生の最後、に間に合わず初代所長に迎えるという念願が果たせませんでした。今、先生に向かって『教師たちの手で今日ここに県民文化研究所を開きます。どうぞおいでください。』という叫びがこみあげてまいります」(中略)
 赤羽王郎の教師として、また人間としての足跡には研究所に集う教師たちの学ぶべき多くのものがあると考えられ、また研究所設立には王郎自身大きな励ましと助言を与えていたものであるが、研究所開設を待たず他界してしまった。
 赤羽王郎記念室は、この研究所の付属資料館に、王郎の教師としての労作や蔵書・遺墨・遺品・書簡・写真などの外日常使用の品々など王郎にゆかりのあるものを集めて王郎没後7カ月たった研究所開設の昭和56年12月同時に開設されたのである。研究所の設立趣旨に照らしても、また永く赤羽王郎の足跡を残すところとしても最もふさわしいものと考えられる。

 ちなみに研究所の初代所長はやはり長野県出身の椋鳩十である。こうして赤羽王郎のゆかりの品はすべてこの記念室で保管されることとなった。以下の写真は2部屋に展示保管された遺品の一部です。

 

遺墨の言葉は一つ一つが心にしみます。最初の写真が蔵書なのですが、全てカバーの紙がかけられ、書名が別の紙に墨書されて貼り付けてあります。哲学、芸術論、教育学などの本ですが古い物ばかりではなく、王郎の亡くなる当時の刊行物もあり、最後まで旺盛な知的好奇心を持ち続けていたことがわかりました。亡くなる時は借家住まいで、正規教員としての勤務がなかったために年金がなく、生活保護で暮らしていたようです。そんな地位も名誉もお金もない老人を鹿児島県人は教育者として大事にし、遺品の全てを保存してくれていることに心を打たれました。


宗像大社

2018-02-01 08:58:23 | 民俗学
昨日は鹿児島から新幹線で博多に戻り、鹿児島本線に乗り換えて東郷で降り、バスで宗像大社へ。山すその田圃の中に常緑広葉樹の広大な社地がありました。

本殿は通常の神社なのですが、境内の奥まった場所にある高宮という、古代に神祭りをしたという場所は、神秘的な感じでした。社地が広葉樹林だというのは、沖縄の御嶽みたいで、本島の針葉樹の鎮守の森とは雰囲気が異なります。
沖の島の出土品は神宝館という施設で公開されていました。まさにオタカラといえる品が多数ありました。
撮影禁止で薄暗い中で見ました。唯一撮影が許可されていたのが、複製品のこの小さなつぼでした。
天皇家を支えよと設けられたのが宗像大社だといいますが、帰ってからこの事は考えてみたいと思います。