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流出雑記 

2014/7/4

2014年07月05日 | Weblog

曇り

昨日は久しぶりに梅雨らしい雨があった。先月は時々夕立のような雨が降る以外はほとんど降らず、6月の京都の降水量は85年ぶりに最低値を更新したらしい。水を好く紫陽花は予想外なヒマワリ向きの陽射しをうけてうなだれていた。だから雨が降るのは有り難いことだったが、4日の夜に雨天中止の野外公演を豊橋で観るつもりでいたので、ぜひとも晴れてもらいたかった。

豊橋までは京都から新幹線なら1時間程で着くけれど、公演は19時45分からで朝に奈良の橿原へ行く仕事は午前中で終わる。鈍行を使うと3時間かかるけれど交通費は半額で済む。特に急ぐ必要がないので鈍行で向かうことにした。

橿原から京都駅に戻ると14時前なので、それくらいに夫と京都駅のJR改札で待ち合わせて琵琶湖線に乗ってまず米原まで。旅気分の演出にポッキー1箱買ってきていた。最近毎日橿原の仕事のあとに、駅構内にあるパン屋で柚子こしょう塩バターパンというのをひとつ買って食べる。とてもおいしいと思うので夫にも買ってきたが、夫はお腹の調子があまりよくないうえに、食べてもそれほどピンと来ていない様子だった。 米原で大垣行きに乗り換える。この大垣行きの途中には関ヶ原があり、窓から景色を見ていると、集落のなかの小さい山のようになっているところがあって、関ヶ原合戦跡と記してあるのが見える。駅前には、東軍、西軍の武将の名前が書いてある看板もある。いつか降りてみたい。食事をできるところもなさそうなところだけど、蕎麦屋の一軒くらいはあるだろうかと話しながら関ヶ原をすぎた。

大垣で豊橋行きに乗り換え。大垣ー豊橋間の乗車時間がいちばん長くて1時間半くらい。朝が早かったので眠くなりうとうとしている間に豊橋着。17時過ぎ。この日たまたま今愛知大で授業を持っている大学時代の恩師が授業で来ていて、恩師の宿泊先の駅前ホテルで落ち合い、開演までの間食事に行く。それほどよくは知らない豊橋駅前に出て、チェーン店のようなところが全然似合わない恩師とどういう店に入るべきかと視界に入るいろんな看板を見回していたら、駅前の信号を渡った角の地下にROTIという店を見つけてそこに入った。

この店の名物は鶏の丸焼きだった。せっかくだからとそれを注文したら、焼けるのに50分かかるという。開場時間に間に合うかどうか調べてなんとかなるとわかり鶏を一羽注文する。

鶏以外のものを食べながら舞台のことを話して鶏が運ばれてくるのを待っていた。

鶏が運ばれて来た。丸ごとを焼いたのに出くわすのは小学校の頃、家族と中華料理屋で食べた北京ダック以来だった。皮に包んで食べる作法がうれしくて、結構食べたのかも知れない。次の朝、人生はじめての胸焼けを経験した。

鶏は4頭分に切られていて、つまり骨付きもも肉が2人分、手羽先とそれに続く部分が2人分。男性ふたりにもも肉は譲る。手羽先をかじっていくとその先には手羽元があって、捕捉できなかったが手羽中もあったはずで、それからささみとかむね肉の部分に到達する。そのあたりで鶏の丸焼きは人生2度目でなく3度目だったことを思い出した。一昨年の正月に、その頃義母が凝っていたブラジル食材店で売っている丸焼きが正月料理のなかに参戦していたのだった。テーブルは正月とクリスマスが同時に来たようになっていた。食べたあとたくさん骨が出るので、母はそれを煮て白湯スープを取り、翌朝雑炊にしていた。

鶏のおかげでおなかをいっぱいにして上演会場の愛知大へ向かった。昨日も上演予定だったが雨天中止になり、そのぶん今日に振り替えた観客も来ているため、開場を待つ人でごったがえしていた。会うとは思っていなかった京都から来ていた友人の演出家も来ていた。野外公演のため気配りで用意された虫除けスプレーが観客の間で回されて、夏祭りのような雰囲気になっていた。校舎の跡地なのか広い空き地があって、正面の白い校舎の壁全面に映像が投影されている。客席が並んでいるところまで歩く道も雨で粘土のようになっていてピンヒールの人は地面にめり込んでいた。

客席が全然足りず、立ち見がたくさん出る程の満席で、上演は始まった。保坂和志の「私という演算」から抜粋されたテキストを使った『猫は残らずいなくなる』。

飼っていた記憶のない猫が幼い自分と写真に写っていたという話しから始まるテキストを読む3人の特徴的な声の女の子たち。出演者は皆二十歳くらい。ひとりは低い陰りのある声で、ひとりはそれより高くプラスチック感のある声で、ひとりはさらに高くキャラクターのような声だった。声の感触はつるつるしていて、言葉に少し感情を込めたと受け取れるところもそこに実体のある彼女が、というより「そのキャラクターが」という感じになるのがおもしろかった。時代のなかの特徴的な発語というのがあるんだろうか。60年代に寺山修司が撮った街頭インタビューの映像作品を見たことがあったけど、当時映画のなかだけでなくて、ふつうの人々も私からするとちょっと早口で、少し鼻にかかった声というか、質感でいうとウェットで音が体から出ていることの印象が強い発語だと思った。今日聞いた女の子たちの声というのはカラっとしていて、体とやや距離があるような、いい意味でつくりもののような印象の発語、相対性理論とかPerfumeの歌声を聞くときに近いものを感じる。

彼女たちの他に出てくるのは猫耳の着ぐるみをかぶった男の子で、彼は彼でも猫でもキャラクターでもない名付け難い存在感で、実際その場にあるものに触れて動いたり、地面を掘ったり、それに同期して映像のなかにも土がかぶっていったり、映像に重なったり干渉したりしながら上演時間のなかにいる。

写真や映像で見返すことのできるものとして残っている記録と、ある出来事や場所と結びついていて例えば何かのにおいを嗅いだり、食べたりするときに思い出す記憶、いまはむかしたけとりのおきなといふものありけりとかtell told told とか強制的に覚えようとして覚えているものの記憶、何かと結びついているとも言えないけれどふいに思い出せる記憶、それは本人にとって重要なことだとわかることもあるし、まったくどうでもいいようなことだったりもする。

そして覚えていないものがある。 覚えていられないもの、例えばいま2014年7月5日の23時36分、私のいる居間の机の左側にはグリーンティーオレを飲んだコップが置いてあり、その横にある携帯にはさっき夫から阪急で人身事故があってまた電車が遅れているというメールがあり、外から近所の黒猫の鳴き声が聞こえていたことはこうして書いておくことでもしなければ、記憶に残らないと思う。 あったけれどあったという記憶を誰も担保しなくなったときに、ほとんどなかったに近くなる、けれど間違いなくあったこと。記録も墓標もないけれどあったことや生きていたものが、残っているものの比じゃないほど、というか世界のほとんどはそういうもので構成されていて、いつも必ずどこかある一箇所にしかいることのできない自分の知覚が届かないところのことはもちろん、自分が関わっているところのことにしても、細部まで描写するようには留めておけない。けれどもし、知覚したあらゆることをそのまま覚えておけるとしたらと考えてみる。

GBとかそういう容量という概念がないとして一切の編集をしないで、すべてのことを再生するかのごとく覚えておけるとしたら、そのイメージからは体が消える。 体というフィルターを通して世界を感じとることが可能であるとき、私という主体が発生し、その私は記憶しておくものの取捨選択、編集を常におこない、あるいはどうしたって他の記憶とは並列できないものとして生涯に渡って影響するようなことにも出くわしたりする。 記憶に残ってしまったものというのが、私を私たらしめる要素であり、もしもすべての記憶が並列に残っているような人がいると考えると、すべてのことを同じように感じとり、扱えるということになるから、その状態に感情というものが伴っていると想像できない。

つまり何かが心に残るという根拠を欠いている記憶とは人のものではなくて、24時間監視を続けている防犯カメラとか、飛躍するとアカシックレコードとか、機械的あるいは超人的視点を持つ記憶ではなく記録である。だから体が消える。 記憶の特徴とは身体というフィルターを通した記録であること、そこには感情や快不快という身体を通すからこそ起こる取捨選択、編集を感知したときから既におこなっているし、時とともに変容する性質のものであり、まったく留めおけないという、記憶という言葉に相反する要素を必然的に含むものである。だから写真や映像の記録というものは、そこに過去の私が写り込んでいても、記憶とはまったく異なった形式で留めおかれた過去であると言える。でもそういうものを目にしたとき、しばしばそれを頼りに記憶を構成して、私の記憶として引き入れているように思う。想起するとは常に現在において像を結ぶ。 このことについてもう少し考えられそうだけどだだ長くなりそうなので一旦終わる。 788888888888888888888888888888888888888888888888888小麦がキーボードに乗った。