figromage

流出雑記 

2014/7/3

2014年07月03日 | Weblog

6月29日、誕生日だった日に新宿で焼身自殺未遂があり、それは抗議行動であった訳だけれど、そのこと自体を英雄的に見ることが正しいとも思えず、かといって批判することも到底出来ず、事件の残した苦いあと味をひきずったままその2日後、滞りなく集団的自衛権は閣議決定された、という現実のなかにいる。

この国にとって後悔とともに振り替えらなければならない日になるであろうと言われていることが、起こりうるならこれからどんなふうにそのように移行していくのだろうか。と思っているそばからテレビではAKBの女の子を起用した自衛官募集のCMが流れ、高校生のいるうちに隊員募集の案内が送付されているという。今のところまだ口当たりのいい勧誘をよそおって、それが徐々に強制力を持つこと、または家族の経済状況によって選ばざるを得ない場合が出てくる事態は想像できる。
望む望まないに関わらず国家が定めたことという理由で、しかも国と国のしがらみの犠牲になれという。 ほんとうに国民の安全や生活を第一に考えるならこんなことが起こるとは思えない。 体裁として守られている大国から、フェアじゃないから手を貸せと言われても、誰の味方にも敵にもなりきらない中途半端でいること、それが情けなかろうが頑なにとどまろうとすることがこの国が持ちうる力と呼べるものであるのに。

さまざまなことが隠されてどうにか表面的には今までと同じであるようなコードを走らせ、患部は膿んだまま広がっているというのが現状だと認識すべきと思う。集団的自衛権のことだけじゃない。原発事故後の現状についても、避難すべき地域はもっと広大であったとしても、そのことをうやむやにしておきたいのは、莫大な生活保障関連の予算を要し、経済的な機能が立ち行かなくなることを食い止めることが優先されるからだが、そのことがこの国で生きるものを守ることにすり替えられている。 すべての判断基準が生きているものの体に立脚していない。

経済が立ち行かなくなることはもちろん国家として死活問題であるけれど、まず、そこに生きるものあってのことではないか。生きものの体が知らないうちにぬるぬると蝕まれて取り返しがつかなくなること、さらに選べずこの国に産まれてくるものに、はなからリスクを負わせることに動じないのはおかしい。すべての判断が刹那的でその場を凌ぐことに終始していて余裕がない。 もしも誠意ある行動というのがあるのなら、現状を壊すことになっても真実を告げ、誰も認めたくない現実を目の当たりにすることになっても憤りも絶望も悲しみもそれこそ国の存亡をかけて生きることを支え続けるしかない。そのために尽くす以外にない。そうでなければどうしてこの国に生まれてよかったといえるだろう。どんなに国として貧しくなっても、ここに生きる人を最低限守り通すということが当たり前のことではなく極端な意見とされるなら、まるで低体温を好む癌の温床のようだと思う。この感覚がおそらく外れていないことが辛い。

私が世の中に対して憤りを感じることの共通項は、人の行いが経済を軸にし、さらにその規模の大きさによって狂ってしまうことだ。例えば食べるために生きものを殺すことも、大規模に効率的に利益をあげることが第一になったときに命を奪うこと自体がオートマティックになったとき、そこには敬意が消え失せる。やがて麻痺してなんとも思わなくなる。それと同様のことがあらゆるところで起こっているのではないか。

人は、まさかこんなことが起こるはずないと思うような恐ろしいことが出来てしまう。気がつくと抵抗の余地なく召集される、連行され、収容されるということが今までにも起こってきた。参照すべき過去の人による過ちを、自国のことだけでなく知ってまっとうに恐怖し痛むことと、それを絶対に忘れないこと。無気力であるような気分を受け入れず流されることなく、ひとりひとりの体が選ぶ方向を正しく知覚すること、信じそれに反することは正しく拒絶すること。理想論であっても今この国にあること、どうあればいいかを考えるとこういう言葉になる。