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流出雑記 

2014/7/21

2014年07月22日 | Weblog

晴れ 海の日

梅雨があけた。暑いのにクロードモネがよく咲いている。ふたりとも休みで午後から映画を見に行くことにしていた。

お昼、冷蔵庫にあった使いかけの玉ねぎとにんじんをみじん切りにし、ソーセージ3本輪切り、野菜を炒めてカレーパウダーとソーセージを入れてカレーのかおりが立ったら、といでざるにあげておいた米2合を入れて全体がカレー色になるまで炒め、コンソメと塩を溶かした400ccのスープをそそぎ沸騰したらふたをして弱火で12分、蒸らし10分。この炊き込みピラフの作り方はいろんな応用がきく。先日、福井の所詮缶詰と侮ってはいけないレベルの鯖煮が詰まった鯖缶を使って鯖ごはんを炊いてみた。缶から汁を取って、和風だしとしょゆう等と合わせて400ccにする。このときのスープはラーメンの汁くらいの濃度にするといい。ショウガとにんじんを千切りにし、ごま油で炒め、米、スープを注ぎ最後に鯖の身を乗せて炊く。調理としては炒飯より汗をかかずに済む。

食べて食器を片付けてから久々になんとなく着てみる気持ちになった黒いワンピースを着てバイクで家を出る。四条烏丸付近までくると、浴衣の人がちらほらいたり、祝日だから人が多いのかと思っていたら、祇園祭の鉾がまだあって思わぬところが通行止めになっていたり、そういえば今年は後祭というのが50年ぶりに復活して巡行が2回あるのだった。祇園祭の形式を正確に後世に引き継ぐことが意図らしいが、祭りの期間を引き延ばすことで増えるであろう観光客も目論みのうちだろうかと勘ぐってしまう。

これは見逃すまいと思っていたワン ビンの「収容病棟」。中国の精神病院で撮影されたドキュメンタリー。4時間くらいあって前編後編に分けて上映される。海の日に好き好んでこういう映画を見に来る人がどのくらいいるものかと思っていたら、案外人がいた。と言ってもそもそも客席数の少ない京都シネマでの案外だから普通に考えたらとても少ない。

ワン ビンの作品は初めて見る。夫は以前『鉄西区』という9時間のドキュメンタリーを見たことがあるらしい。

予告が終わって中国語のタイトル『瘋愛』と出た。どういう意味なのかわからなかったけれど『収容病棟』とはずいぶん雰囲気が違うように思った。映画にはナレーションも音楽も、病院側のインタビューのようなものも一切入らない。ただ回廊のようになっている廊下と3~5床のベッドが並ぶ鉄の扉の部屋で暮らす収容者の日々の繰り返しが映される。主に3階の男性しかいない病棟が撮られていて、映画のなかのいちばん大きな変化というのは、中庭に面した廊下から鉄格子ごしに入ってくる一日のうちに変化する陽の光だった。日中は廊下に出されたベンチに座って患者たちがぼんやり日光を浴びていたり、時には雪が降ったり、正月を迎えた夜には花火の音が響き渡ったり、夕方には西日が入ってオレンジの光が部屋に射していたり、夜は白熱灯の色が部屋から点々と漏れ、テレビの部屋からだけ蛍光灯の白い明かりがついている、夜になっても完全に人の声や物音が止むことはないけれど、暗さだけは中庭から回廊に満ちていて重たくて長い夜に感じる。寒いところのようだったけれど、夜中に素っ裸で廊下に出て水を浴びたり、裸で寝ている人もいる。全編を通して水の音のよくする映画だった。薬を飲むのにコップを持って列になり、白衣の医師がヤカンからコップに水をつぐ、廊下にある蛇口で足を洗う音、水をはる音、階下か階上からの水音、それぞれのベッドの傍に置かれたタライに向かって放たれる放尿の音、廊下のコンクリートを打つ放尿の音。規則的に同じことを毎日毎日繰り返し、起きているか寝ているか食べているか以外にすべきことは何もない。けれどこの建物も体も水をとおしている。循環している。

病院とは言っても、治療のためにそこにいるというよりは、ほとんど外に出ないように収容されている状況で、衛生面しにしても良いとは言えず、立ったまま丼ひとつの食事をかきこんでいる様子、着ているものをみれば、ここにいる人たちは決して裕福ではないことはわかる。10年以上そこで暮らしている人もいれば、まだ入れられて日が浅く、ここでの環境を受けつけていない人もいる。ずっと施設内を撮っているけれど、一度だけ退院した男性を追って外に出るシーンがあった。けれど、男性が帰った家というのも廃墟に間借りしたような貧しい住まいに年老いた両親がいて、帰って来た息子と会話することもほとんどなかった。彼はセーターを一枚施設の誰かにあげてきたらしい。母親は人にものをあげるような身分でもないのにと言う。

ここにいる人たちは自発的に入院を選択したのではないらしい。家族間、住民とのトラブル等で収容された人たちだから、そのことを不当を思っていて、でももうそこにいることを体得してしまったような人たちと、まだ出たいという意思を表に出す人もいる。施設には約200人が収容されていて、病状は様々、中には精神疾患ではないように見える人もいる。社会にいられては都合の悪い人たちを隔離する施設のように見える。

けれど、そういう状況を映しだしているにも関わらず、倫理的な問題ばかりが押しつけられることはなく、陽の光や水のことが印象に残るようなところがこの映画にはあった。人々のふるまい、素朴な日常の身振り。この施設を出れば常軌を逸したと言われるようなこともここでは奇行とされない。誰もそういう区別をしない状況があり、見るものをその場所にいるかのように引き入れるカメラの目を通して映画を見ることが、そのことを映画の時間の中で体感させてくれる。だから切り取られたシーンから美しい瞬間や表情を発見することができる。それはこの映画が単に事実を告発するようなドキュメンタリーではなく、映画としての時間が創造されたものであり、上映時間を観客が生きることのできる「作品」であるからで、それが可能であるのは、映しだされるものが生きているということなのだと思う。ドキュメンタリーであってもフィクションであってもいい映画からはそれを感じる。