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流出雑記 

麻生三郎

2011年02月27日 | Weblog

近代美術館に麻生三郎最終日滑り込む。
初期のスープの皿を舐める男の絵、犬の目をしている自画像。

初期の作品では家族や自分の身の周りの人物を描いていたが、次第に主題は個人的なものから象徴的な家族や母子像へと広がり、戦後のものになると焦げ付いた赤い街の風景に人が立つ人があらわれる。画面上の背景が類焼するように人物の輪郭を侵し、その境目は徐々にはっきりとしなくなり、後期の作品になるにつれて人は形を失っていく。背景は描かれる人物の為のしつらえではなく、世の中、外側からの圧力として描かれ、図と地の力関係が均衡しつつ画面にひしめきあっている。それに押しつぶされんとしながら存在し、画面からこちらを見ている人の姿から、写実的に描き込まれた輪郭や陰影が見せるものとは異質な生きているもののリアルさが迫ってくるように感じた。

 



表出する形状、かたち、描くにせよ踊るにせよ形を見出す瞬間は常にそのような拮抗からあらわれるものでありたいと強く思う。

後期になるほど大作となっていく作品は密度を失ってはいないのに、徐々に絵としての引力が弱くなっているように感じた。私にとってはその絵を20センチ四方に切り取って見ても圧倒されるものを感じる説得力をもったマチエールが大画面に広がっているのに、引いて見たときの絵にあまり心を動かされない。画風が定着した晩年の大作は方法に鎮座してしまっているようなところがあったからだろうか。それとは逆に初期のクロッキー帳の数枚の人物のスケッチは、何かが見出されようとしている予感を孕んだ線がそのままに残されていて、作品ではないけれどもしかすると作品そのものより印象に残る魅力をもっているように思ってしまった。

そんなことをいうと画家は怒るだろうか。ある作家の絵を生涯に沿って見ていくというのは興味深いが良し悪しかも知れない。一枚一枚の絵を完成したものとして受けとれず過程のなかで見てしまうところがある。

夫は青いパステルと水彩で描かれた裸婦のクロッキーを気に入っていた。帰りがけにその絵柄のポストカードをミュージアムショップで探したが、最終日だったからかポストカードは一枚も売っていなかった。代わりに麻生三郎と関係のない猫の柄のクリアファイルを2枚買った。

夜は久々に回転寿司のむさしに行った。ねぎとろのとろが今までと違う。不自然にピンクが鮮やかで、どうもとろ以外の混ぜ物が混入している気配のある気味悪い食感と味だった。 

 


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