5時に寝て12時半に起きる。
洗濯機をまわしてから太陽礼拝。昨日無茶をしたが足首は大丈夫だった。
お昼、ライ麦パンにクリームチーズとスモークサーモンを挟んで食べる。それとアーモンドバターを塗ったの。アーモンドバターとはバターとアーモンドプードルとアーモンドクラッシュ、砂糖を混ぜたもので食パンにたっぷり塗ってトーストするとアーモンドの香ばしいかおりがしておいしい。
ここ最近夜も昼もなくなっている夫にサンドイッチ食べるかと聞きにいったが座ったまま寝ていた。
洗濯物を干して3時過ぎに家を出る。自転車で三条へ。もうファーの帽子がなくても耐えられるようになった。
5時から約束があった。その前に寺町のルピシアに寄る。紅茶、緑茶、烏龍茶、ほうじ茶、それぞれのお茶にフレーバーが付いたもの、いろいろありすぎて嗅ぎ回るのに忙しい。いつまでも飽きない。
5時前にメディアショップで待ち合わせをしていた。人から受けとるものがあって待っていたが遅れているようだった。メディアショップで今日、佐々木中のトークライブがある。なかに入ると客席がセッティングされていて、佐々木中の赤い本が置いてあった。私はよく知らず読んだこともなかった。赤い本の隣には『九夜前夜』という出たばかりの花の装幀の本。きれいだと思って手に取った。
「手を引いていた筈が手をひかれ、やがて手を離されて。連れの見慣れた姿が闇に溶け、暗い一色のゆらめき立つ影となって笑い、誰ともわからぬ誰かとなり果てて半ば闇に溶けて。禍々しくゆがんで、蕩かす静けさのなかに切り立つ鬼気を響かせて、それでもその姿を愛して。」
帯に書かれていたこの文章を読んですぐそのままレジに向かった。
待ち人は遅れているし興味をひかれるところがあったので聞くか否か悩んでいたトークを聞いていくことにした。
開始時間しばらく過ぎた頃入り口から入って来た黒いハンチングにジーンズのミュージシャンのような若い男性が佐々木中だった。来て上着を脱いですぐに話しはじめる。
アートや文学は死んでいないと強い口調で話す。マイクの持ち方、目線の使い方、言い回しに形式があった。あるキーワードに来ると感情をうまく言葉に乗せてしまう。明確なテキストではないけれど、自分にとって既に体に落とし込まれた台詞となっている言葉、流れがあるのだと思う。モノローグ的でトークというより一種のパフォーマンスのようなところがあった。
現在アートと呼ばれるものはその枠内でのみ意味を持ち評価され批評されるが、そうでない部分、我々が日々生きている領域に浸透してこないものとなっていること、そういう結びつきを持たないもの、役に立たないものとなっていること、アートというものの窒息状態ということを言う。アートの語源を辿ると以下のような意味がある。
ラテン語の ars はギリシア語のテクネー に相当し、本来は「芸術」というより、自然に対置される人間の「技」や「技術」を意味する言葉であった。英語 art の形容詞形 artificial は、「わざとらしい」とか「人工的な」という意味をもつが、その反意語は「自然な」という意味を持つ natural である。つまり、英語の art の派生語には、nature の反意語としての意味、すなわち「人工」や「わざ」といったニュアンスを今も確認できる 。
それで我々が関わること、衣食住からすべてのことは生きる為の「技術」であり、そういった意味を含んだアートと我々は切っても切れない、アートが死ぬと我々は生きることができない、死ぬということは断じてありえない、と言う。
そして根源的なアートとはという話しのなかで建築と音楽のこと。空間を作るということと、音を出すということ。
建築は壁や屋根を作って外部のものを遮断し、場を設ける。
音を出してそれが聞こえるということは、視覚や嗅覚と違って目をつぶったり鼻をつまむように遮断することが出来ず、直接振動が鼓膜に触れてしまう。入って来てしまう。音はそういう意味で場を占有してしまう。場を作ってしまう、ということがそのふたつの共通点だという話し。
ダンスのことも話された。おもしろかったのは、バレエの成り立ちの話し。それはキリスト教と関わりがあって、どんな宗教儀式にも踊りというものがあるのにキリスト教にはそれがない理由。どれくらい前と言っていたかは忘れたがキリスト教にも踊りがあったそう。が「人は歩くように作られたもので跳ぶものではない」とダンスを禁じたらしい。跳ぶことを禁じられたその反動からあのような超人的で奇形的(と言っていた)な踊りが確立されたのだという話し。
私は行かねばならない時間が来たので待ち人には会うことができず、7時半頃三条から自転車をとばして帰る。高野のイズミヤにどうしても行かねばならなかった。小梅の砂がもうほとんどなくて、その種類の砂がこの辺りで売っているのがイズミヤなのだ。閉店の8時前に滑り込んで目的は果たせた。
その後延々パソコン作業の夫の気分転換を兼ねて外で食事をすることにした。
老安記に行こうとしたが休みで、一乗寺の方へ戻って気になったいたネパール、インド料理のお店に入った。
カレーのセットは2種類のカレーとナン、ご飯少し、サラダ、小鉢が付いてきてそれにサモサかタンドリーチキンが選べた。
夫、ポークカレーと野菜カレーにタンドリーチキン、私、チキンカレーとほうれん草カレー、サモサ。
象の鼻のようなナン。ほうれん草のカレーは塩気が少ないと感じることが多いがここのカレーはその最たるものだった。机の上に塩はない。まろやかだが塩分とトマト系の酸味が欲しくなる。結局それ単品で食べることを断念し、夫の野菜カレーに混ぜてサモサのトマトソースを足して好みの味に近づけて食べた。
ボリュームは十分にあった。しかしインドカレーはおいしいけれど後半どうしても若干飽きがくるねと話す帰り道。カレーもナンも冷めてくるとなんだかなあと。いちばんおいしかったのはと聞かれたら、最初に食べた普通の胡麻ドレッシングのサラダかも知れないというところにたどり着いてしまった。
自転車の夜も身を縮めるほど寒くはなくなっている。
帰って2人分の確定申告書類を制作。早く帰っておいで源泉徴収分の子たち。
夫が白桃ラズベリーの紅茶を煎れてくれた。