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流出雑記 

70回目の日

2011年02月08日 | Weblog

この頃できるだけ毎日ここに文章を載せるように努めて書いている。書くなら2000字くらいと決めて。

2時頃コタツで寝て目が覚めたら6時だった。化粧もそのままだったのでとりあえず湯船にお湯を入れる。待つ間にみかんを食べ、燃えるゴミを出した。
気付けば髪が腰まで届くようになっている。洗うのも乾かすのも時間がかかるが、髪を切るタイミングを掴めないでいる。したい髪型がないのと美容室があまり好きじゃない。長期の固定ポーズの仕事があるときや、急にイメージを変えることが仕事に差し障らないかが気にかかることもある。長い黒髪は好きだが次に切ったらもう今より髪を伸ばすことはないだろうと思いながら炭のシャンプーで髪を洗う。

朝ご飯、かぼちゃスープに餅を入れて食べる。
丸餅がまだかなり残っていて、もう一度ぜんざい炊こうかと思う。
夫のお昼にクリームチーズとスモークサーモンのカンパーニュサンドを作って家を出る。
10時から京都駅で仕事。休憩中ずっと『アウト・オン・ザ・リム』を読む。

読みながら私が時々見る他の夢とは異質な体感が鮮明に残っている飛ぶ夢のことや、偶然とは思えない人との出会いや出来事、縁というものについて引っ掛かってくるところがある。本には前世というものがあり、魂(というものがあるとして)は何度か別の生を生きて今はこの体に宿っているということ、輪廻転生やアカシックレコードのことなどが書かれている。霊媒師に前世が何か見てもらうなんていうのは、自分の境遇を受け入れ納得するためのひとつのまじないのようなものだろうと思っていたし、今もよくわからない。ただ死ぬという状態を見ていると、それまでその体を動かしていたものの要素が抜け出た感じがある。毎年大文字を見る度に思っているのだが、お盆に先祖の魂が帰って来て大文字の日にあんなふうに山に火を着けるのは、魂が迷わず天国へ帰るための送り火で、あの火が燃えるのを見ていると根も葉もないわけではないのではと思う。まだあまりよくわからなさすぎるので、ここでこれ以上書くのは辞めておく。ただなんか気になっていることではある。シュタイナーの本をもう一度読む必要が出てきた。前はおもしろいところもあるがどうにもついていけない感じがあった。

 

12時過ぎに仕事を終えて、駅の地下の輸入食品店で全粒粉とすりごまとドライの白イチジクを買う。輸入食品店の向かいにあるサンドイッチ屋のサブウェイにはけっこうな列が出来ていた。

地下鉄で松ヶ崎に戻り自転車で帰宅。

洗濯物をいれ、片付けものをしてから昨夜生地を作っておいた抹茶のスノーボールクッキーを焼く。バレンタインが近づき、あちこちで製菓材料をよく見るのに触発されたのと、今日の夕方、彫刻の70回ポーズがついに最終回を迎えるので製作メンバーの方々に何かと思ったのだ。

緑色の生地を丸めてオーブンで焼く。バターのにおいがしてくる。2回に分けて焼いて50個くらいできた。冷めてから粉砂糖をまぶして完成。ほろほろした食感、抹茶をけちらず濃いめにして正解。差し上げる分は小袋に入れて残ったのは瓶に詰めてうちのおやつにする。

夕飯の用意。生姜と玉ねぎをみじん切りにして炒め、豚挽き肉も入れ、酒、醤油、みりん、味噌などを加え大豆の水煮を最後に入れて煮詰める。これをごはんに乗せて食べる。

5時前に再び家を出る。

5月から通った彫刻のアトリエ。真夏は冷房が効くまでモウロウとするほど暑く、冬場はコンクリートの床から上がってくる冷気で冷えた。それを解消するために足元に電熱のストーブを置いてもらっているが何度か脹ら脛が低温でじっくりローストされそうになった。70回、1回の仕事で20分ポーズを6回しているので計算すると140時間、約6日間ほぼ同じ体勢をしていたことになる。計算すると怖くなった。近々整体に行こうと思う。

休憩中にハーゲンダッツのバニラをいただく。おいしいし嬉しいが食べた後やはりちょっと寒くなる。

最終ポーズを終えて返り際、昼に焼いたスノーボールをひとりずつ手渡すと仏師の方が涙出るわ~と言った。明後日は打ち上げで、皆で食事に行くことになっている。仏師の方に魂について聞いてみたいと思った。


意図の位置を考えた日

2011年02月08日 | Weblog

10時半起床。
みかん、アーモンドは昨日食べ切ってもう無いのでくるみ、パンにアーモンドバター、黒糖きな粉ミルク。

11時半家を出る。手袋が行方不明。
コーポレアルマイムのクラスを受けにいく。大学のときに少し習ったことがあって、また継続的にクラスを受けようと思っている。コーポレアルマイムの技術を身に付けることは自分にとって理にかなっている感じがするからだ。
1時間半、バックワークという背中を動かすワークをやって、そのあと体を分節して動かすテクニック、そして最後にインプロをするが、ここでやるインプロはダンスのセッションなどでやるものと質が違っている。

まずパフォーマーは動きも台詞も持たないまま立ち、そこから椅子に座るなど簡単な動作をするよう指示される。そして出来るだけ何かしようとせずそれをすること。見られていることを意識しないように、自分を自分の中から追い出して空っぽになったところから動き出すこと、その動きは突飛なものでなくごく自然な、日常的なものであること、という状態を即興的にするワーク。

見せようとする体の身構えをまず解くことを言われている。何か為す前にそういうことを要するのは、身構えることによって覆われてしまうものがあるからだ。覆いを剥がす必要のない表現というのもある。しかしこのコーポレアルマイムの目指すところの体には、まず何もせず何もできないものとして在ること、舞台に立ち表現する者は特権的な体ではなく、観客席の人びと、街を行き交う人びとと同じであり、まずそこを飛び越えないでそれを踏まえて始めるということを意識的にしているのだと思う。

その考え方と意図はわかるのだが、実際視線に晒されながら見られていることを意識しないことや、自分を自分の中から追い出す、ということができるのだろうか。毎回このことに引っ掛かりを覚える。

まず意図して動作しないという初期設定はあるが、終始そのままではなくて実際動くのだから、自分を追い出しても内発的にアクションを起こす動力を生まねばならない。作為的にああしようこうしようと考えるのでなくて、フィジカルな状態の中に動きの発端を掴んでほしいということを言われるが、体が先攻して動く瞬間にその動きがごく自然な、日常的なものでなければならないということが私にとって矛盾に思える。フィジカルな状態に動きの発端を任せると日常的な動きにならないからだ。むしろそういったもの以外の動き、所作のうちに留まらないようなノイジーなものが出てくる。でもそれはこのインプロのワークの望むところではないのはわかっている。言うなれば最もプレーンな状態というものが目指されている。でもプレーンというのも単なるイメージでしかない。問いつめていると一歩も動けなくなる。

見られていることを意識せず、自分を自分の中から追い出して空っぽになったところから動き出すことを実際そうならないでやる、ということ、つまりトランス状態でコントロール不能ではない意識のある状態でそれをやるということは作為であり、だとすれば何をすれば良いのかだが、それはもちろん意図したものでしかない。

要するに見せ方を考えねばならないというところに帰結する。

それで今回のインプロは動きの発端を自分の中ではなく知覚に求めた。ちょうど部屋に西日が射して窓枠の影が視線の先に落ちていた。影は濃くなったり薄くなったりしている。それを見、それから窓の方に視線を移動させる、風で杉の木が揺れている。それを見ようとすると座っている椅子から立って窓の傍へ何歩か歩くことになる。 というふうにやったのだが、それでは見る側がパフォーマー自身を見るというより視線の先の見ているものの方が気になってくるので、そうではなくてその人自身が内側から自然に動き出すところが見たいと言われる。もう少し別のやりかたを考えねばならない。

クラスが終わって仕事へ向かう。出町柳に向かう途中の交差点にある丹波屋を通りがかると甘辛い餅の焼けるいいにおいがして堪らず自転車を止めて焼き団子を一個買う。醤油を練り込んだベージュの生地に中は白あんの粒。

東福寺で仕事を終えて8時過ぎに帰宅。

あるもので即座にできる夕食。冷凍しておいた豚バラの角煮1切れずつ、作り置きのきんぴら、キムチと納豆チヂミ、油揚げとわかめの味噌汁。

食後、夫が撮った写真の現像されたのを見せてもらう。小豆のまだ元気なところから弱っていって骨になるところまでが写っている。とても良い写真がいくつかあった。 いとしいかたちが無くなるということはどうあっても悲しい。