くるみとレーズンのパンを焼いていたらまたヒューズが飛んだ。また。今年に入ってこれで3回目。一階の居間と台所が真っ暗。その度に関電の人を呼びつけることになってしまう。
しかも3度目の今日は深夜1時前。そんな時間にパンを焼く私が悪い。2階の電気は生きており、夫の仕事の手を止めさせなかったことだけ幸い。真っ暗な底冷えの部屋にパンのにおいだけが皮肉のようにぬくい。
深夜でも関電の人は来てくれたが、替えのヒューズを切らしていると言って、来て見て帰って行っただけだった。一晩そのままになる。湯沸かし器の電源は生きていたのでなんとかお風呂に入ったが、風呂上がりの部屋が冷えきっているので素っ裸で走って2階の暖かい部屋に逃げる。
翌朝、町の電気屋に電話。ブレーカー自体を取り替えてもらうことなったが午後からしか来れないという。仕方ないので夫がホームセンターにヒューズを買いに走ってくれたが、しばらくして電気屋からやっぱり午前中でも行けると電話があった。
かごの下の方になっていたみかんは傷む手前で食べられなくはなかった。
例のパンはうまく焼けていて、薄く切ってクリームチーズを塗って食べるとさらに美味。
午後から山田うんさんやクラシック、ジャズのミュージシャンとインプロセッション。六甲へ向かう。
セッション一回目は特にルールを決めず音と体の間を渡る、ダンサーはソロでやる。
二回目は積極的に関係性を作ろうと意識しない状態でのセッションを試みる。
セッションしているときは出来るだけそこに発生しているものをキャッチするアンテナを立てている。場に対して耳を澄ますことは即興をするときにとても大切だが、待ち過ぎてしまうことがある。
誰かのアクションに展開のきっかけを待ってしまうと、そのときの行為自体が弱く、息の短いものになってしまう場合がある。
理想的なのはひとつひとつの要素が拮抗して場が立ち上がる状態であり、遠慮や様子見ではなくてそれぞれが展開を生み、時間を支える持続的集中力を持ちつつ自分の行為に埋没しないで、知覚は外側に向けた状態を維持すること。
まず空間の状態を把握しようとするときに、私は背骨を立てるようにしている。そうすると背後の空間があること、立体的に自分の周囲を感じることが出来ると思うからだが、二回目のセッションでは、まず即興の場に身を置くときの身構えのようなものを解いて、いつもとは違うところから始めてみようと思い、背骨の立たない、足の裏で立たない状態から始めてみた。
いつもならそろそろこの状態から脱した方がいいかなと場における要素として選択している転換点を、個人的な体感として納得のいくところまで、引き延ばしてやりたいだけうねうねしてみた。それでも音は聞こえているし、周りの様子も見えている。それに影響されまいとしつつ、うねうねも変化する。それはやはり内発的な変化だけではない、知覚する外的要因は意識で選別しきれない、どこか作用している。
積極的に同期するように体を持っていこうとするときにだけでなく、それぞれの意識の割合が幾分個々への集中に傾いていてもシンクロする瞬間というのは訪れる。むしろ即興において関係するということはこういうことでなければならないように思う。予定調和的に同期する瞬間を用意しないで共に在ることだと感じる。
見ていても、それぞれの輪郭がはっきりと見えてくる感じがあり、単に発散的でカオティックな状態にならない、外に向いた意識がベースに維持されている。
場に起こっていることに同期しないということは、自分の状態を故意に少しそこからずらしたり、裏にまわる意識をもつ必要があり、そういう設定があると自分のしていることにより意識的になる部分がある。現状に対して異なったものを、と思うと、体はルール無し踊っている時より明確な質感を提示しようとする。自分の動きの語彙がはっきりし、そんなにバリエーションがないことに気付く。出し尽くしてきたときに、同じ回路を反復したくないので息の仕方を探す様ように体で探す。まだ通ってない道筋があるはずだ、こんな低さは、ここまで捻ってみては、もっと軽やかでもいい、もっと粘質に、もっと、もっと、もっと というふうに。
今回の発見は、即興セッションで私は人に自分の矛先を任せ過ぎているところがある、ということだった。
こういう気付きは踊りの場のみに留まらない自分の状態、足りないものを包み隠さず教えてくれる。嘘がつけない。
予定のない時間を支えるには力がいるし、逃げ腰にもなる。完成された状態がないのだから誰でも未熟さを連れていかねばならない。そのまま選択しなくてはならない。うまくやることなんかできない。即興をやることは怖い。
だからやりたい。これからの自分になにが必要か、今はっきりわかる。