figromage

流出雑記 

2014/6/25

2014年06月25日 | Weblog

晴れ

無事5時半起床。サッカーを見るためではない5時起きだけれど、ちょうど日本対コロンビアの試合。前半1-1だったのが後半立ち上がりで素人目にも押されている感じがするなと思っていたら1点決めらた。
サッカーの中継を聞いていると「なんとかの時間帯」という言い方をよくするのが気になる。これはサッカーに特徴的な言い方なのだろうか。でもとにかくライブの試合は朝向きじゃない。家をでなければいけないタイムリミットまでにやることがあるのに目が縛られる。
家を出て移動中にツイッターをひらくと点数は1-3になり1-4になっていた。

時間通りに電車に乗って奈良へ。
眠気と共にポーズをやりきり日陰のない真昼の帰り道。学校を出てすぐの畑では、きゅうりや茄子やズッキーニを一袋百円で売っている。お金は置いてある箱に入れる。この大らかさが今もあることがうれしい。シソは予約制とあり、携帯番号がかいてある。

墓地がある。墓地の駐車場になっているところを囲むように戦没者の墓石が並んでいる。
故陸軍軍曹とか故陸軍歩兵長、故海軍海兵伍長、その下に名前があり、石碑の右面には碑を立てた人の名前、多くは父 なんとかとあった。軍曹の墓石は兵長などの墓石より倍ほど高い。低い墓石には骨壺を納めるところがないから、遺骨は戻らなかったのかも知れない。墓石の左面には亡くなった日付と場所、年齢、戦死と記されている。病死というのもある。年齢はほとんど二十代~三十代で、ニューギニア、ダガルカナル、マニラ、ボルネオなど南方の島で亡くなっている人が多い。ひとつの石碑に兄弟の名前が並んでいるのもいくつかあった。
石に彫られた最低限の情報だけで、この長閑な土地に生まれた人たちが、まったく縁のない南の島に連れて行かれた末にむかえた死がおそらく悲惨であったことは、持っている知識と重ね合わせて想像できる。
理性的な判断ができる状況なら、絶対に口にすることを選ばないものまで食べざるを得なかったほどの飢餓状態、不衛生な環境で蔓延する伝染病、ジャングルでワニに喰われ、爆弾で吹き飛び二十二、三の若さでこの人たちが死ななければならなかったことを思うと無性に腹が立ってきた。そんなふうに命をかり出していいはずがないのに。息子を奪われた家族や、夫を奪われた妻は、せめてもの弔いとこの碑を建てたのだろう。この石に刻まれた名前は、ある時期までは間違いなく体を伴って、話したり食べたり寝たり笑ったり怒ったりしていたのだ。 祖父母から戦争の話しを聞くことのない世代の子供たちも、ここを通ればこの碑を目にするだろうし、そこに刻まれていることの怖さをいつか理解するようになる。ここに住む人たちが普段通る道の方に向いて石碑が並んでいることが重要だと思った。情報としては学校や本や映画やネット上からでも得られるけれど、この場所に数十年前に生きていた人たちのこととして受け取ることは体験として違う。

総員玉砕せよをもう一度読もうと思った。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿