この頃描いている。
自分にとって重要なイメージを、やはりずっと肉眼で見たいと思っているのだと確信する。
体の内側に異質なものが結合し癒着し溶解しつつある、何かの萌芽の衝動と、諸要素が混在しながらある風景。
これは風景だったのだ。
画面を見ている目は外的に表出する色や線を捉えているが、具体的なモチーフも下絵もない。それでも何かに統率され、ぶらされながら表れてくる。
様々な段階からの意識の要請。私は朧げに何かを選んでいる。朧げなのは判断基準が外界に対するときの自我によるものではなく、もう少し薄暗い意識とのやりとりが含まれるからだろうと思う。
外界との関係性を編むと同時に、それと出来るだけ離れた自己と対面する時間を持つことに必要性を感じる。
普段この世界で社会的な役割を担い、接続しながら生きている。その接続先は資本主義経済であり、そこにつながるものに価値が置かれる。
資本主義が個人の心の領域に投資を始め、その構造に甘んじてこのような私的な言葉のネットワーク、氾濫に飛び込んでいる中で、息継ぎをするときにふとブログというものを書くことに疑問をおぼえる。
それでも書くことで気付くこと、また言葉を受けとるとき、そこからさらに言葉と思考が展開されるとき、こういう場所から耕された豊かさもある、と言える。
何でもそうだが、どういうものとして、ある対象と自分とを接続させるかでその意味は変わる。
もっと言葉を、広く支根をはるイメージをこの網状で展開出来ればと思う。
私にはまだ学ばなければいけないことがありすぎるが、常に幅広い振動を微細に感じとること、それを表出できる柔軟さを自分の精神にも肉体にも持っていたい。
体の内的なイメージと植物のイメージ、静脈や動脈に葉脈がはしる、光合成、太陽光を浴びる皮膚に日光と共に光速の言葉や図像が通過する。葉緑体の粒にそれらが一瞬映る。そんな光景が思い浮かんだ。
自分にとって重要なイメージを、やはりずっと肉眼で見たいと思っているのだと確信する。
体の内側に異質なものが結合し癒着し溶解しつつある、何かの萌芽の衝動と、諸要素が混在しながらある風景。
これは風景だったのだ。
画面を見ている目は外的に表出する色や線を捉えているが、具体的なモチーフも下絵もない。それでも何かに統率され、ぶらされながら表れてくる。
様々な段階からの意識の要請。私は朧げに何かを選んでいる。朧げなのは判断基準が外界に対するときの自我によるものではなく、もう少し薄暗い意識とのやりとりが含まれるからだろうと思う。
外界との関係性を編むと同時に、それと出来るだけ離れた自己と対面する時間を持つことに必要性を感じる。
普段この世界で社会的な役割を担い、接続しながら生きている。その接続先は資本主義経済であり、そこにつながるものに価値が置かれる。
資本主義が個人の心の領域に投資を始め、その構造に甘んじてこのような私的な言葉のネットワーク、氾濫に飛び込んでいる中で、息継ぎをするときにふとブログというものを書くことに疑問をおぼえる。
それでも書くことで気付くこと、また言葉を受けとるとき、そこからさらに言葉と思考が展開されるとき、こういう場所から耕された豊かさもある、と言える。
何でもそうだが、どういうものとして、ある対象と自分とを接続させるかでその意味は変わる。
もっと言葉を、広く支根をはるイメージをこの網状で展開出来ればと思う。
私にはまだ学ばなければいけないことがありすぎるが、常に幅広い振動を微細に感じとること、それを表出できる柔軟さを自分の精神にも肉体にも持っていたい。
体の内的なイメージと植物のイメージ、静脈や動脈に葉脈がはしる、光合成、太陽光を浴びる皮膚に日光と共に光速の言葉や図像が通過する。葉緑体の粒にそれらが一瞬映る。そんな光景が思い浮かんだ。
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