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流出雑記 

seaweed log

2009年12月16日 | Weblog
ワカメのようにゆらゆらと、まとわりついて離れない思い出。
回想

中学生
特別な男の子だったS。
Sは人に好かれる明るさとそれなりの正義感とひょうきんさを兼ね備え、クラスでリーダーシップをとれるタイプで、勉強は出来なかったが、先生たちからの信頼も厚かった。
小さい頃から彼の父親の影響でヨットをやっていて、大会で賞を取り朝礼の時に全校生徒の前で表彰されることもしばしばで、表彰状の名前が読み上げられる前に、同級生から「どうせまたSやろー」と囃されても「そやで!」 と屈託なく返すような男の子だった。

3年生の夏休み、ある夕方、私のPHSが鳴った。Sと仲の良い男の子からだった。
いつものように男子数人で誰かの家で遊んでいたら、Sが突然泣き出したと言う。
それまで普通だったのに、泣いている理由も言わず、どうすればいいのかわからないので来てほしいということだった。
私もまるで見当のつかないことで、行ってどうすれば良いのかと考えながらとにかく自転車を走らせた。
それからどこでどういうふうに対面したのか詳細に覚えていないが、次に記憶にあらわれるのは、北大路橋近く鴨川の土手にふたりで座っている風景。
日は暮れていた。

そこでSは話しはじめた。
小学生の頃、友達の家で遊んでいた。
友達がトイレに降りて行ったが、すぐに戻ってきて鍵が開かないという。そのとき友達の母親は外出していて、家にいたのはふたりと友達の父親だった。最初は父親の冗談かとふたりでトイレのドアをノックしたり、呼び掛けたりしていたが、中からは物音ひとつしないのでだんだん不安になってきた。
もしかしたら中で倒れているのかも知れないと思い、ふたりでなんとかドアを開けようとした。
しばらくしてどうにかドアをこじ開けた。
トイレの中でSの友達の父親は首を吊っていた。
Sはそのときのことを思い出すと、自分の中で収集つかなくなってしまうようだった。受け止めきれないほどのことであったことは想像できる。
そんな死の姿を目の前で、大人たちのような気構えなく対面してしまった小学生の男の子ふたり。
パッケージ外の死の姿を目の当たりにした衝撃と、首を吊った父と対面する友人の傍ら、Sに押し寄せた高圧の禁忌の体感は、おそらく残酷なほど鮮明にその時を焼き付けたのだろう。
私は病院で亡くなった祖父を棺桶からのぞいたほかは、人の死というものを実際に見たことがなかった。
聞きながら、そのときの怖さを想像し、その表面を感じ取ることは出来たが、どうしても外側からの体感しか得られない私は静かに歯痒さも感じていた。
ただこういうときに、傍にいることを許され、話しを聞いている自分に異性としての存在意義も感じた。

記憶が人の心にどうしても消えず、完全に治癒しない傷口を残すことがあるのだということ、日常の風景に突然奈落のような穴があくことがあるのだということを、現実感を伴ったものとして初めて知った。そういうものと一緒に生きて行かねばならないのだと。
私は今も時々、私の立ち合うことのなかった場所での出来事を想像する。
どれほど想像したところでSの体験したことに届きはしないのだが、今やSの関知しないところで尚も私はそのことを、恐らくずっと繰り返し想像し続けるのだろうと思う。
Sが今どうしているかは詳しく知らない。友達伝手に聞いた話しでは、同窓会には顔を出していて元気そうだという。
私が最後に見かけたのは成人式のときだ。小柄だった中学の頃から思えば、肩幅なんかしっかりとして男性の体格になっていた。
そのうちSも結婚して、父親になるかも知れない。
朝トイレに入り父親になった身で、あのことを思い出すかも知れない。
でも、もうそれを暴れさせずしっかりとした体で制し、心の奥に納め朝食を食べて家族の為に働きにでるのだろう。



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