京都芸術センターで地点の『ーーところでアルトーさん、』を観る。
自分のしていること、望んでいることを知りたい時に言葉がほしくなる。そういう、背骨を支える言葉を集めたノートに数年前アルトーに関するものを読んでアルトーのデッサンを張ったり、言葉を書き出したのを思い出し、押し入れの段ボールからノートを引っ張り出してみた。
以下アントナン・アルトーと書かれたページより抜粋
一本の毛にいたるまで すべてが 炸裂する秩序のうちに整えられなくては ならぬ
実存するには自分の存在をあるがままにしておくだけでいい
しかし生きるには 誰かでなくてはならない 誰かであるためには 一つの骨を持たなければならない
いまある私のからだが破片になって飛び散り明らかな無数の側面をあらわし、一つの新しいからだがまた凝結する
「血の演劇」
上演のたびに演ずるものも演技を見にくるものも等しく身体的に何かを達成することになる 我々は演じるのではなく行動するのだ
器官なき身体 身体は器官を必要としていない
器官は制度、形式、序列、拘束が身体に侵入したものにすぎない
裏返しになって踊る
身体はあらかじめ存在するものではない
実験し構築し獲得しなければならない何か
「音」は力のひしめきを肯定的に抽出しようとする
石 鉱物
アルトーにとっての言葉はそのまま舌
言葉(ラング)が崩壊するときふるえる舌(ラング)が露出する
舞台は身体的かつ具体的な場所であり そこで我々がこの場所をみたすことを必要とし、この場所みずからの具体的な言葉を話すことを必要とする
アルトーの著作をつぶさに読んだわけではなく、自分にとって必要と思われるものを断片的に抜き取ったものなので、私のアルトーのイメージは偏りがあるだろうと思うが、そういう言葉を起点に舞台を観るしかなかった。
真ん中あたりに座る。舞台上にはアルトーの写真がポスターのように張られていて、中央には灰色の艶のあるビニールのようなリノリウムが張られている。
開演して俳優がその上を歩こうとしたときに飛沫と水音と共に足が床にめり込んでおどろいた。
リノリウムに見えた床は灰色に白濁した水の張ってある、俳優の膝下くらいの深さのプールだった。
人工的な沼というような印象。
俳優は皆作業着らしきものを着ていて、舞台上は何か機械の部品製造過程の工場のような、地下の採掘場のような、何か作業の途中の場所のように思われた。プールは何かしらの洗浄層にも見える。
俳優はそれぞれに異なった発話の仕方でテキストを読む。
「言葉(ラング)が崩壊するときふるえる舌(ラング)が露出する」
まるでそのように舌を痙攣させるような発話をする俳優。
言葉を途中で切断しながら発話する。テキストのままでは含むことのできない、発話によるリズムが与えられ、言葉の意味の鉛に羽がついて客席に届けられる感じがあった。
ひとりの人間の言葉が数人の体で演じられる。言葉がそこで行われる演技を生んでいる。その言葉を口にすることによって。あるいは語るために。
テキストの意味をとる暇を与えられない量感と圧力があり、観劇後みぞおちの奥に疲労感が残った。俳優同士は具体的な関係性をもったり対話するところがほぼないのだが、そんなシーンを途中で観たいと思ったのは、客席を向いて話される言葉が直接観客に届き続ける状態に疲労したためかも知れない。これは悪い疲労感ではなく言葉の質にもよるのだろうし、そのように観客としての私には作用するところがあった。
自分のしていること、望んでいることを知りたい時に言葉がほしくなる。そういう、背骨を支える言葉を集めたノートに数年前アルトーに関するものを読んでアルトーのデッサンを張ったり、言葉を書き出したのを思い出し、押し入れの段ボールからノートを引っ張り出してみた。
以下アントナン・アルトーと書かれたページより抜粋
一本の毛にいたるまで すべてが 炸裂する秩序のうちに整えられなくては ならぬ
実存するには自分の存在をあるがままにしておくだけでいい
しかし生きるには 誰かでなくてはならない 誰かであるためには 一つの骨を持たなければならない
いまある私のからだが破片になって飛び散り明らかな無数の側面をあらわし、一つの新しいからだがまた凝結する
「血の演劇」
上演のたびに演ずるものも演技を見にくるものも等しく身体的に何かを達成することになる 我々は演じるのではなく行動するのだ
器官なき身体 身体は器官を必要としていない
器官は制度、形式、序列、拘束が身体に侵入したものにすぎない
裏返しになって踊る
身体はあらかじめ存在するものではない
実験し構築し獲得しなければならない何か
「音」は力のひしめきを肯定的に抽出しようとする
石 鉱物
アルトーにとっての言葉はそのまま舌
言葉(ラング)が崩壊するときふるえる舌(ラング)が露出する
舞台は身体的かつ具体的な場所であり そこで我々がこの場所をみたすことを必要とし、この場所みずからの具体的な言葉を話すことを必要とする
アルトーの著作をつぶさに読んだわけではなく、自分にとって必要と思われるものを断片的に抜き取ったものなので、私のアルトーのイメージは偏りがあるだろうと思うが、そういう言葉を起点に舞台を観るしかなかった。
真ん中あたりに座る。舞台上にはアルトーの写真がポスターのように張られていて、中央には灰色の艶のあるビニールのようなリノリウムが張られている。
開演して俳優がその上を歩こうとしたときに飛沫と水音と共に足が床にめり込んでおどろいた。
リノリウムに見えた床は灰色に白濁した水の張ってある、俳優の膝下くらいの深さのプールだった。
人工的な沼というような印象。
俳優は皆作業着らしきものを着ていて、舞台上は何か機械の部品製造過程の工場のような、地下の採掘場のような、何か作業の途中の場所のように思われた。プールは何かしらの洗浄層にも見える。
俳優はそれぞれに異なった発話の仕方でテキストを読む。
「言葉(ラング)が崩壊するときふるえる舌(ラング)が露出する」
まるでそのように舌を痙攣させるような発話をする俳優。
言葉を途中で切断しながら発話する。テキストのままでは含むことのできない、発話によるリズムが与えられ、言葉の意味の鉛に羽がついて客席に届けられる感じがあった。
ひとりの人間の言葉が数人の体で演じられる。言葉がそこで行われる演技を生んでいる。その言葉を口にすることによって。あるいは語るために。
テキストの意味をとる暇を与えられない量感と圧力があり、観劇後みぞおちの奥に疲労感が残った。俳優同士は具体的な関係性をもったり対話するところがほぼないのだが、そんなシーンを途中で観たいと思ったのは、客席を向いて話される言葉が直接観客に届き続ける状態に疲労したためかも知れない。これは悪い疲労感ではなく言葉の質にもよるのだろうし、そのように観客としての私には作用するところがあった。
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