朝起きたら少し喉に痛み。
2日前、怪しかったのをルル3錠で撃退したと思っていたが、まだ潜伏していたらしい。昨日の夜、やけに眠かったのは、治癒に専念しようとする強制シャットダウンだったのかも知れない。
夜にセットしておいた食パンが朝焼けている。また過発酵ぎみ。温かくなってきたせいか、上蓋にぶつかるほど膨らんで、焼き上がりがいびつになっている。焼き立てをスライスして半分そのまま食べて、半分トーストしてバターを塗る。焼き立ての至福とトーストした場合の本領を味わえる。
午後から大阪で仕事。午前の仕事から帰宅した夫と入れ違いで出る。マクドナルドを買って、ブルーのコークグラスをもらっていた。
自転車で出町柳。京阪に乗ってツイッターを見ていた。紫陽花革命と銘打たれた大飯原発再稼動抗議デモのことが多く流れてくる。あと、これも人様のFacebookに上がっていた新聞から拝借した知識だが、高濃度核廃棄物の最終処理施設を日本の地中に建設するのは不安定でムリだというのと、その廃棄物の側にいると12秒で人は死ぬそうだ。12秒で死ぬとはどういうことだろう。細胞、体組織が瞬時に生きていられないほど壊滅的に壊されるということだろうか。12秒後にぷつりと糸が切れる如くこと切れるのか、12秒間悶絶しながら紫色になって死に至るのか。いずれにせよとにかくそれの側では人は12秒で壊れてしまうらしい。
刹那的な利便性と局所的な利潤のために処理しようのないゴミをこれ以上作りだすことは、どう考えても愚行だし、末代のために今を生きているわけではないにしても、厄介でしかない廃棄物を山積することが命の連綿の中で為す行いとして正しいとも思えない。これ以上国土に立ち入れないような土地を作る可能性のあるものを稼働させるべきではなく、一度痛手を負ったからこそ改める機会だと認識すべきではないか。小学生の頃、原発というものの存在を知り、地図帳で原発のマークを探し、その数の多さに驚いた。しかも自分の住んでいる京都からも近い福井の海岸沿いに密集している。どうしてそんな危険なものを作ることを大人たちが許してきたのか疑問だったし、しばらく地図帳を見るのが怖かった。
デモ、運動というもの。それに参加しようという積極性が起こってくるかどうか、どうなんだいと自問していたが、やはり体が賛同しない。そんな悠長なことを言ってる場合かと言われる方もあるだろうが、デモとはそれに熱意をもって賛同していない体を義務的に引き連れて行くようなものではまずないだろう。ツイッター上でデモの呼びかけ拡散を促されても、まず自分が行けないのではなく行かないのに拡散するだけしておくというのが無責任に思えて出来なかった。再稼働について、あるいは瓦礫の受け入れについて、意見はもちろん持っている。しかし思っていることを行為として表さない限りそれは何も動かさない。表したからと言ってそれが現状を覆すには遠くおよばない微々たるものだとしても、ただ思っている、ということは何もしないこととやはりかわらない。それも無頓着で怠惰だと自分に釘を刺す。
次のデモのときには友達を一人連れてこよう、そうすれば倍の規模になる。関西の方わかってますか? といった呼びかけに反作用(反対ではない)的反応を示してしまう人間はまた別のやりようを考える他なく、そうなると抗議電話をかけるとか手紙を送るとか署名するとか個人で出来ることになってくる。
とにかく何かしないではいられなくなって首相と福井県知事に宛て再稼働について抗議の手紙を書いた。そういった手紙がおそらく日々届いていることだろう。本人ではないにしても目を通され、ちゃんと読まれるだろうか。でもこれだけの抗議の手紙が寄せられたという数の一通にはなるかも知れない。その山の一通に。
こうして言葉のかたちにしながら、自分にもまっとうな怒りがあるということにようやく気付ける。矛盾だと感じることに対して怒りが起こらないほど何かに慣らされているのだろうかと実のところ不安だった。何もしないでいることに抵抗感を感じたのは、人々の行動を受けたものだとしたら、私も動かされ、微力ながら動いたのだと思う。
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