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流出雑記 

意図の位置を考えた日

2011年02月08日 | Weblog

10時半起床。
みかん、アーモンドは昨日食べ切ってもう無いのでくるみ、パンにアーモンドバター、黒糖きな粉ミルク。

11時半家を出る。手袋が行方不明。
コーポレアルマイムのクラスを受けにいく。大学のときに少し習ったことがあって、また継続的にクラスを受けようと思っている。コーポレアルマイムの技術を身に付けることは自分にとって理にかなっている感じがするからだ。
1時間半、バックワークという背中を動かすワークをやって、そのあと体を分節して動かすテクニック、そして最後にインプロをするが、ここでやるインプロはダンスのセッションなどでやるものと質が違っている。

まずパフォーマーは動きも台詞も持たないまま立ち、そこから椅子に座るなど簡単な動作をするよう指示される。そして出来るだけ何かしようとせずそれをすること。見られていることを意識しないように、自分を自分の中から追い出して空っぽになったところから動き出すこと、その動きは突飛なものでなくごく自然な、日常的なものであること、という状態を即興的にするワーク。

見せようとする体の身構えをまず解くことを言われている。何か為す前にそういうことを要するのは、身構えることによって覆われてしまうものがあるからだ。覆いを剥がす必要のない表現というのもある。しかしこのコーポレアルマイムの目指すところの体には、まず何もせず何もできないものとして在ること、舞台に立ち表現する者は特権的な体ではなく、観客席の人びと、街を行き交う人びとと同じであり、まずそこを飛び越えないでそれを踏まえて始めるということを意識的にしているのだと思う。

その考え方と意図はわかるのだが、実際視線に晒されながら見られていることを意識しないことや、自分を自分の中から追い出す、ということができるのだろうか。毎回このことに引っ掛かりを覚える。

まず意図して動作しないという初期設定はあるが、終始そのままではなくて実際動くのだから、自分を追い出しても内発的にアクションを起こす動力を生まねばならない。作為的にああしようこうしようと考えるのでなくて、フィジカルな状態の中に動きの発端を掴んでほしいということを言われるが、体が先攻して動く瞬間にその動きがごく自然な、日常的なものでなければならないということが私にとって矛盾に思える。フィジカルな状態に動きの発端を任せると日常的な動きにならないからだ。むしろそういったもの以外の動き、所作のうちに留まらないようなノイジーなものが出てくる。でもそれはこのインプロのワークの望むところではないのはわかっている。言うなれば最もプレーンな状態というものが目指されている。でもプレーンというのも単なるイメージでしかない。問いつめていると一歩も動けなくなる。

見られていることを意識せず、自分を自分の中から追い出して空っぽになったところから動き出すことを実際そうならないでやる、ということ、つまりトランス状態でコントロール不能ではない意識のある状態でそれをやるということは作為であり、だとすれば何をすれば良いのかだが、それはもちろん意図したものでしかない。

要するに見せ方を考えねばならないというところに帰結する。

それで今回のインプロは動きの発端を自分の中ではなく知覚に求めた。ちょうど部屋に西日が射して窓枠の影が視線の先に落ちていた。影は濃くなったり薄くなったりしている。それを見、それから窓の方に視線を移動させる、風で杉の木が揺れている。それを見ようとすると座っている椅子から立って窓の傍へ何歩か歩くことになる。 というふうにやったのだが、それでは見る側がパフォーマー自身を見るというより視線の先の見ているものの方が気になってくるので、そうではなくてその人自身が内側から自然に動き出すところが見たいと言われる。もう少し別のやりかたを考えねばならない。

クラスが終わって仕事へ向かう。出町柳に向かう途中の交差点にある丹波屋を通りがかると甘辛い餅の焼けるいいにおいがして堪らず自転車を止めて焼き団子を一個買う。醤油を練り込んだベージュの生地に中は白あんの粒。

東福寺で仕事を終えて8時過ぎに帰宅。

あるもので即座にできる夕食。冷凍しておいた豚バラの角煮1切れずつ、作り置きのきんぴら、キムチと納豆チヂミ、油揚げとわかめの味噌汁。

食後、夫が撮った写真の現像されたのを見せてもらう。小豆のまだ元気なところから弱っていって骨になるところまでが写っている。とても良い写真がいくつかあった。 いとしいかたちが無くなるということはどうあっても悲しい。


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