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すぶんろこ!のジャパニーズドリーム

■『すぶんろこ』とは、コロンブスの逆転の発想

■日本国独立宣言!「日本国憲法」無効宣言、日本軍再構築宣言!

+ 萩、ききょう・・・ 裁き心と教育  「もてなし」の心  サービス精神とは何か

2008年10月06日 07時35分07秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

  

 乱世にも しばし眺めよ 萩 桔梗

 

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 この世は悪霊との戦いでもある。

 現代は、目に見えない世界の乱世というべき状況がある。

 

 悪霊とは言っても、その魂には仏性が刻まれている。

  ところが、固体の自由が、人間関係としての本質を忘れると、排他

的自己保存の墓穴を掘ることになる。

 復讐、恨み、ののしり、悔やみ、嫉妬、自己嫌悪・・・。

 それが魂を汚すものの正体である。

 

 その多くは裁き心から出ているのであろう。

 それでも、花鳥風月の無償の愛は、ふとわれに返って、魂を癒す

のである。

 

 

 

 

 

 

 

 人は何ゆえに、魂を汚すのであろうか。

 裁き心を警戒しなければならない。

 裁きを勢いでしてはならない。

 裁きは、時間をかけて、慎重にしなければならないものである。

 

 裁くことよりも、信じる力のほうが、大きな教育効果を持つであろう。

 己を正し、危機管理を怠らず、黙々と働くことである。   

 黙々と、機嫌よく穏やかに、改革を進めてゆくとしよう。

 改革は、仲間の協力なくしてはできないことである。

 裁き心ではなく、信頼関係を大切にする大きな心が大切だ。

 

 未熟な者の代表は赤子であろう。

 長い目で、いたわり、いつくしむ心が大切であろう。

 それが、愛というべきかもしれない。

 だれもが、その愛にいつくしまれて育ってきたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

サービスについて


 

 サービスとは、相手から注文を取ってするものではない。

 相手がほしくないなら無駄になるではないか、というのが注文取り

の理屈である。

 しかし、サービスは無駄となることを恐れない。

 その心に思いがこもるものだからである。

 

 サービスとは、相手の意を汲んで、言われなくても進んで用意する

ものである。

 それを「もてなし」とも言う。

 「もてなし」の文化は、九州の、伝来の精神でもある。

 家族の中でも、職場でも、この「もてなし」の精神を磨きたいものである。

 

 指示待ち族の仕事には、このサービスの精神が欠けている。

 仕事に与えられる感謝とは、サービスへの感謝に他ならないであろ

う。

 家庭でも、職場でも、世の中でも、この気配りというべきサービス精

神を見失ってはならない。

 

                               梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 萩の滝の花しぶき・・・ 理想ありてこそ

2008年10月05日 11時50分44秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

  


 名月を 萩の葉に織り 花しぶき

 

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 秋の花はたくさんあるが、名月といえば、萩か薄をめでるのが、

日本伝統の感性である。

 これは、外国人の感性にはあるまい。

 そもそも観月会を楽しむという風流も、日本文明というべき感性で

はないか。

 

 西洋の文明が宮殿や城に象徴される石の文明であるとしたら、日

本の文明は、日本庭園に象徴される緑と土の文明というべきではな

いか。

 石は権威的であるが、緑と土は、上下を隔てない花鳥風月の楽し

みを与える。

 その花鳥風月の楽しみが、花見の宴、観月の宴に代表されて家

族的な親しみを育てる。

 それが、外国人には理解しがたい日本の企業風土であり、ビジネ

スの風習になっているのだろう。

 

 ところが、こうした伝統が失われ、家族が希薄になっているように

思う。

 日本企業が、国際的な強さを発揮するためには、外国にはない個

性的な感性、美意識をもった組織力を発揮するのが一番である。

 企業もビジネスマンも花鳥風月の宴を、大いに楽しみ、活用すべき

ではないのか。

 

 企業の組織力は、やはり仲間意識である。

 志を同じくする仲間であってこそ、苦境を乗り越えてゆける。

 その志と仲間をつなぐものが、正統性をもった権威である。

 カリスマ(リーダーの人徳)、伝統(ブランド)、信仰(神の正義)であ

る。

 

 理想あってこその花鳥風月である。

 なぜならば、花鳥風月とは神の世界の楽しみだからである。

 神こそは理想の所在である。

 

 

 

 

 

  名月を 漣Sazanami に寄せ 萩の海

 

    馬糞 Bafun

 


 

 

キリスト教信仰の不安


 しかし、未熟な人間であるからこそ、神の探求は難しい。

 まして、食品偽装などよりはるかに悪質で巧妙な偽装、すり替えが

宗教の世界にもある。

 だから、歴史あるブランド宗教であってもイノベーションができない

ままに風化して、偽装宗教化しているのだ。

 

 「私はクリスチャンです」といいながら、実は似て非なる韓国の統一

教会であったり、「ものみの塔」ないし「エホバの証人」などという偽装

キリスト教であったりする。

 

 彼らの「聖書」とは、いわゆる伝統のバイブルではない。

 偽造変造した偽聖書である。

 それでも騙されるのは、終末的「予言」による成功者の否定と、一

種の選民思想によるものだろう。

 「それでも私たちだけは特別です」という選民思想に乗ってはならな

いのである。

 

 さらに難しいのは、正当なキリスト教であっても、共産主義にすり替

えられるという落とし穴である。

 私に洗礼を施した日本基督教団の牧師は、旱魃のひび割れた土

のような左翼思想に凝り固まっているようなのだ。

 

 ああ、いまだにも、開放を賛美し、日教組を擁護し、与党議員

の発言を権威主義だと批判し、憲法9条を憲法の魂のように守ろうと

しているようなのである。

 

 いったい、その信仰は、神の権威を否定する社会主義や共産主義

とどう折り合うというのか。

 神なき思想に、なぜそれほどに囚われるのか。 

 努力によって豊かになることが罪だというなら、人は生まれる必要

はなかった。

 人が神の子だというなら、なぜ、その子が生まれながらに罪を背

負っているなどというのか。

 

 

 

 

 

 キリストを処刑したのが人間の弱さから出た罪であるとしても、そ

のカルマを信仰の基礎とするべきではない。

 罪は、反省によって救われるからである。

 謙虚であることはよいが、他人の富を嫉妬し、罪だと考えてはなる

まい。

 

 自分が貧乏なのは、信仰の義ではない。

 単純に経済的知恵と努力が不足したからに他ならない。

 貧乏を、なんで誇ることができるだろうか。

 

 信仰とは、純粋に親を求め、神を求める愛であり、探究心である。

 人の魂に刻まれた愛の波長が、神の愛に共鳴するのが信仰で

ある。

 

 その信仰を、共産主義的貧乏の平等主義と等置してはならない。

 その信仰を、「原罪」で脅して正当化し、悔い改めよと支配しては

ならない。

 信仰を、罪や貧しさで汚してはならないのだ。

 

 信仰は、武士道精神のように、私利私欲を払拭した美意識である。

 地球的理想と使命感の根源というにふさわしいものでなければな

らないのである。

 

 偽装が横行しても、米の飯のようになくてはならないのが信仰で

ある。

 いったん騙されることがあっても、選別する目を養い、選りすぐれ

た信仰心を培うことが肝要である。

 

 文化文明を異にし、宗教の師をことにしても、共に神の国の花鳥

風月を楽しみたいものである。

 そのために、教育があるのではないか。

 

 学校だけではない。

 経営は教育である。

 政治は教育である。

 宗教もまた、教育の原点に戻らなければならないのではないか。

 

 人類史上の伝統的宗教の教祖は、親とも言うべき超人の師ではあ

るが、根源の仏神ではない。

 唯一の神ではないのである。

 

 選民思想を排除せよ!

 多くの仏神に学ぶべきである。

 

                                 梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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+ 秋津島・・・ 組織の求心力  企業の大義、国家の大義

2008年10月04日 08時19分59秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 


 秋津島 晴れ渡りたり 風の上

 

   馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 台風一過、空は宇宙の深さを湛えるようになった。

 長崎のおくんちが近づく頃には、朝晩の空気は結露するほどに

なる。

 もう、トンボもいなくなったかと案じたが、宇宙の青さのなかを飛

んでいた。

 秋津空というべきさわやかな朝である。

 

 

 

 

 

仕事の大義、国家の大義

 

 そんな青空の下ではあるが、人間社会は難しい。

 思うに任せない。

 自分の思いに任せようとするからいけないのだ。

 

 思いとは、公のもの、神の思いでなければならない。

 神の思いを発見して掲げれば、おのずと結束するものである。

 心を一つにしてこそ、組織力が大きな仕事をする。

 

 心を一つにするには、神の下された大義が必要なのである。

 神の下された大義を発見することこそは、経営力である。

 人生もまた、大義がなければ生きがいがない。

 

 麻生内閣が発足したが、国民の責任感、政治家の責任感に訴え

る大義を掲げることが肝要である。

 

 アメリカのベンチャーキャピタリスト、原丈二氏の掲げる大義は、明

快だ。

 『将来、日本があってくれてよかったと感謝される基幹技術、基幹産

業を生み育てることだ』という。

 

 『日本が、世界から感謝される仕事を追求して、国民も国家も努力

してゆこうではありませんか。世界から必要とされる国づくりこそは、

日本の誇りであり、幸福となるのであります。』 

 

 大義を掲げることことは、総理の政治生命をかけた仕事である。

 その大義が、公務員にも発されなければならない。

 

 心を同じくするもののみが残れ。

 しからざれば去れ、と。

 

 80兆円余の一般会計国家予算のうち、公務員人件費だけで32兆

余、天下り先の法人に投入される実質的な人件費をいれると、さ

に膨らむ。

 

 ※ 参考ブログ

 http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/fd922af65b1f939538587fef0f26fa9f

 

 

 社員は、本当に必要な人材なのか、会社は、本当に世の中になく

てはならない会社なのかが問われている。

 

 公務員は、本当に必要なのか、必要な人なのか、国家は、世界に

なくてはならない国なのかそれとも、中国の属領になってもいいよう

な国なのかが問われているのである。

 

 企業は社会の公器である。

 国家は国際社会の公器である。

 人もまた時代の公器である。

 

 人生の使命、企業の使命、国家の使命を誠実に追求したいもので

ある。

 

                                 梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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