名月を 萩の葉に織り 花しぶき
馬糞 Bafun
秋の花はたくさんあるが、名月といえば、萩か薄をめでるのが、
日本伝統の感性である。
これは、外国人の感性にはあるまい。
そもそも観月会を楽しむという風流も、日本文明というべき感性で
はないか。
西洋の文明が宮殿や城に象徴される石の文明であるとしたら、日
本の文明は、日本庭園に象徴される緑と土の文明というべきではな
いか。
石は権威的であるが、緑と土は、上下を隔てない花鳥風月の楽し
みを与える。
その花鳥風月の楽しみが、花見の宴、観月の宴に代表されて家
族的な親しみを育てる。
それが、外国人には理解しがたい日本の企業風土であり、ビジネ
スの風習になっているのだろう。
ところが、こうした伝統が失われ、家族が希薄になっているように
思う。
日本企業が、国際的な強さを発揮するためには、外国にはない個
性的な感性、美意識をもった組織力を発揮するのが一番である。
企業もビジネスマンも花鳥風月の宴を、大いに楽しみ、活用すべき
ではないのか。
企業の組織力は、やはり仲間意識である。
志を同じくする仲間であってこそ、苦境を乗り越えてゆける。
その志と仲間をつなぐものが、正統性をもった権威である。
カリスマ(リーダーの人徳)、伝統(ブランド)、信仰(神の正義)であ
る。
理想あってこその花鳥風月である。
なぜならば、花鳥風月とは神の世界の楽しみだからである。
神こそは理想の所在である。
名月を 漣Sazanami に寄せ 萩の海
馬糞 Bafun
【キリスト教信仰の不安】
しかし、未熟な人間であるからこそ、神の探求は難しい。
まして、食品偽装などよりはるかに悪質で巧妙な偽装、すり替えが
宗教の世界にもある。
だから、歴史あるブランド宗教であってもイノベーションができない
ままに風化して、偽装宗教化しているのだ。
「私はクリスチャンです」といいながら、実は似て非なる韓国の統一
教会であったり、「ものみの塔」ないし「エホバの証人」などという偽装
キリスト教であったりする。
彼らの「聖書」とは、いわゆる伝統のバイブルではない。
偽造変造した偽聖書である。
それでも騙されるのは、終末的「予言」による成功者の否定と、一
種の選民思想によるものだろう。
「それでも私たちだけは特別です」という選民思想に乗ってはならな
いのである。
さらに難しいのは、正当なキリスト教であっても、共産主義にすり替
えられるという落とし穴である。
私に洗礼を施した日本基督教団の牧師は、旱魃のひび割れた土
のような左翼思想に凝り固まっているようなのだ。
ああ、いまだにも、開放を賛美し、日教組を擁護し、与党議員
の発言を権威主義だと批判し、憲法9条を憲法の魂のように守ろうと
しているようなのである。
いったい、その信仰は、神の権威を否定する社会主義や共産主義
とどう折り合うというのか。
神なき思想に、なぜそれほどに囚われるのか。
努力によって豊かになることが罪だというなら、人は生まれる必要
はなかった。
人が神の子だというなら、なぜ、その子が生まれながらに罪を背
負っているなどというのか。
キリストを処刑したのが人間の弱さから出た罪であるとしても、そ
のカルマを信仰の基礎とするべきではない。
罪は、反省によって救われるからである。
謙虚であることはよいが、他人の富を嫉妬し、罪だと考えてはなる
まい。
自分が貧乏なのは、信仰の義ではない。
単純に経済的知恵と努力が不足したからに他ならない。
貧乏を、なんで誇ることができるだろうか。
信仰とは、純粋に親を求め、神を求める愛であり、探究心である。
人の魂に刻まれた愛の波長が、神の愛に共鳴するのが信仰で
ある。
その信仰を、共産主義的貧乏の平等主義と等置してはならない。
その信仰を、「原罪」で脅して正当化し、悔い改めよと支配しては
ならない。
信仰を、罪や貧しさで汚してはならないのだ。
信仰は、武士道精神のように、私利私欲を払拭した美意識である。
地球的理想と使命感の根源というにふさわしいものでなければな
らないのである。
偽装が横行しても、米の飯のようになくてはならないのが信仰で
ある。
いったん騙されることがあっても、選別する目を養い、選りすぐれ
た信仰心を培うことが肝要である。
文化文明を異にし、宗教の師をことにしても、共に神の国の花鳥
風月を楽しみたいものである。
そのために、教育があるのではないか。
学校だけではない。
経営は教育である。
政治は教育である。
宗教もまた、教育の原点に戻らなければならないのではないか。
人類史上の伝統的宗教の教祖は、親とも言うべき超人の師ではあ
るが、根源の仏神ではない。
唯一の神ではないのである。
選民思想を排除せよ!
多くの仏神に学ぶべきである。
梅士 Baishi