問う歌も 答えしありや 露の虫
馬糞 Bafun
外気温14度。
秋の虫の問答歌も、まばらになった。
秋冷の候である。
放生会以来、久しぶりに筥崎宮に出かけた。
七五三の準備ができていた。
これほどの由緒のある宮でも、鎮守の杜はすでになく、親
父のはげ頭に残る毛一本の体ではあるが、手入れの行き
届いた庭園が四季の楽しみを提供してくれている。
しかし、その庭園も、めっきり花が少なくなり、冬牡丹の植
え込み現場になっていた。
冬支度である。
その中で、桔梗が一輪挿しのような花を咲かせていた。
桔梗は夏の花であるが、「秋には桔梗」というように、花が
少なくなった秋には楚々とした趣で咲いているものだと感心
した。
かくして、夏衣の花が冬の花に衣替えして行くのである。
【大相撲の神聖を汚させるな】
一日の仕事を終えた帰路は、中州を横切って行く。
いつもは足を丸裸にした水商売の女がいそいそと出勤し
ているのだが、昨日は、駆け出しの力士がめだっていた。
九州場所の季節らしい。
それにしても、伝統の大相撲も、小汚いチンピラジャーナリ
ストや性質の悪い出版社に翻弄されている。
社会は人間関係であるから、名誉を汚す表現は、裁判の
手続きで証拠を示してなされるべきものを、「表現の自由」
とは性質の悪い出版社を守るためにあるらしいのだ。
モラルなき国家、亡国の憲法解釈が、殺伐とした世の中
に貶めている。
だから何度も言っている。
「表現の自由」ではない。
「表現の責任」こそが人権である、と。
社会的価値のないもの、社会的価値を貶めるものを人権
といってはならないのである。
お金のやり取り、勝負の駆け引きがあったとしても、勝負
の明暗をわけるものではなかろう。
ガチンコというが、本気で戦わせたら、死傷者がでるだろう。
そこに、相手に怪我をさせないためのフェアプレイの技能
があるはずである。
それは八百長ではない。
上位の力士が、対戦相手に祝儀を送ることがあるとしても、
下位を育てる資金提供の風習かもしれない。
滅多に横綱と取り組むことがない名誉な取り組みなので
ある。
まして、その相撲を汚そうなどとは思うまい。
薄汚いちんぴらライターの出る幕ではないのである。
大相撲にとって大切なことは、神聖な土俵で、神に奉納す
る神事であるということだ。
これを汚すことは断じて許されない。
ましてや、チンピラライターや悪魔的な出版社が相撲界を汚
すことは断じて許されないことである。
それが、「八百長相撲」事件の本質というべきではないか。
相撲協会よ、この災難に襟を正せ。
鎮守の、神聖な奉納相撲という原点に戻って、単なる興
行に堕してはならないのである。
梅士 Baishi