初春のお慶びを申し上げます。
月暦元旦
寒牡丹 化粧を直し 春を明け
梅士 Baishi
今日は江戸の正月元旦、おおいにめでたい一日である。
小正月と言うより、大正月だとさえ思う。
ところが、節分に取って代わり、元旦のめでたさを見失った。
寺社は、除夜の鐘を鳴らし、掛取りを走らせ、元旦のめ
でたさを演出すべきである。
国民の祝日とするべきである。
年越しの そばなどすすり 夢枕
梅士 Baishi
小正月前の大晦日など、現代人はほとんど思うまい。
江戸の賑やかな大晦日は、この季節のことであった。
小春が梅に香る立春である。
昨日は38度の平熱に臥せった。
ひそかな大晦日の年越しそばでさえも、夢枕のつゆと消
えた。
今年の風邪は5ヶ月目を迎えた。
いったい、どうなっているのだろう。
ああ、めでたい初春だと言うのに・・・。
【 風流とは退廃ではない 】
司馬遼太郎の街道を行く「韓のくに紀行」を読んだが、
思い巡らせる味わいのほかに、多少の違和感を感じる。
飛鳥時代の大和の国をずいぶんとみすぼらしく、非文明
の部族集合体のように書いているからである。
中大兄の皇子が唐の侵略に対して百済救済の援軍数万
人を送ったこと自体が、部族集合体でやれることではない
し、造船技術にしても、唐の軍船ほど大きくなかったにせ
よ、劣るものではなかったはずである。
異議を唱えておきたい。
もう一つ、南北朝時代の南宋、六朝時代を倣ったとされ
る百済文化を仏教三昧、一言で言えば風流に堕したとい
う趣旨の表現についてである。
しかし、風流という文化的感性を、政治経済をないがし
ろにする貴族文化のようにいわれることには、風流の一角
に生息する自分としては異議申し立てしたいところである。
風流とは、いわば忙中閑ありのクリエイティブな遊び心
を言うのである。
論理だけで人間関係が成り立つわけではない。
文化とは、そもそも、退廃を意味するものでもない。
政治や仕事を放り出すような歌舞音曲ではむしろ無粋で
あろう。
武士の茶の湯のたしなみのような一時こそは風流と言
うのである。
司馬遼太郎という大先生に向かって、まことに恐れ多い
ことではあるが、後進の誤解とならないことを願うものである。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi