藍走る 一番山は 恵比寿かな
馬糞 Bafun
博多祇園山笠の今年の一番山は恵比寿流れである。
恵比須顔というが、笑う門には福来る、博多は初夏か
ら縁起がよさそうである。
恵比寿といえば商売の神様である。
豊かさの象徴であり、鯛を抱えるほどに幸に恵まれた
開運の神様と言えるだろう。
ところが、商業というと、オリンピックの商業主義化
とか、卑しく私利私欲丸出しというニュアンスで言われ
ることが多い。
キリスト教も仏教も、商売は俗世の卑しい欲望として
下等に扱ったといえるであろう。
アメリカンドリームの波及は商業と信仰の調和を認め
たカルバンのおかげでといってよい。
《商売目的の公益性と兵站の営利性について》
たしかに、商業の役割はこの世の資源流通の適正化、
適時化にある。
必然、有用な商人には金と物が集まる。
この世の富が集まるのである。
そこにあの世的なリスクが高まる。
この世的な執着、支配欲である。
だから、商業者は気をつけなければならない。
商業は公益事業であるということを。
謙虚と貢献の精神である。
商業の神が建てた倉には、この世の富がうなっている
のではない。
智慧と人々の感謝から得た喜びが積まれているのであ
る。
この世の事業が隆盛するということは、商業化するこ
とを意味している。
智慧と富が集まってくる。
それは繁栄の形である。
問題は、財貨を私物化し、横取りしようという悪徳も
また目をつけるということなのだ。
「オリンピックの商業化」というのも、悪い意味で言
われるのだが、営利は活動継続の兵站である。
非営利事業というのは継続事業にはありえないことな
のである。
ノーベル財団であっても、元本の資産運用(金貸し)に
よって賄われているといえる。
まさに、ノーベル財団の商業である。
この世の企業活動、商人の活動は、反社会的でない限
り、公益事業を営み、評価されて発展するものなのだ。
商業を卑しいことのように考えるのは軽薄である。
企業の目的を営利というのは、本質を見誤った定義と
いわざるを得ない。
その悪影響は計り知れない。
正されるべきである。
この誤った商業蔑視、公益信仰の悪徳がはびこってい
るのが役所である。
木っ端役人である。
たとえば、福岡市役所は、天神の一等地にあって、役
所前広場を企業主催イベントには貸さない。
目的の公益性ではなく、主体が私企業か、公益法人か
で一律に判断するのである。
それで、大半、一等地が遊んでいる。
市役所の無駄遣い体質の典型であろう。
その過剰な給与とボーナスはどこから出たのか・・・。
役所が税金の無駄遣いに依存するのではなく、自ら公
益事業を営んで営利を図ったらどうなのか。
役所ほど私利私欲を貪り、公益から遠い団体はないと
いうことに気がつかなければなるまい。
Bafun