菊の花 見れば墓参が 気にかかり
中村 梅士 Baishi
もう、墓参に行かないまま、一年以上が過ぎた。
長崎の親戚の好意に甘んじてもいられない。
別に、墓に亡父の霊がいるわけではなかろうが、気持ちの
問題である。
長崎ちゃんぽんや雲竜亭の餃子も食べたい。
11周忌も過ぎたが、寺の仕来たりなどは関係ない。
亡父の葬儀はプロテスタント教会で行ったが、そこに挨拶
する義理も敬意も感じない。
今日はオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』を途中まで読んだ。
地獄に堕ちている鈴木大拙が禅の代表者のように書かれて
いるが、まあ、それは大過ないだろう。
武道はドイツ人から見れば神秘主義の興味を引くらしい。
たしかに、スポーツとは違う精神文化である。
弓道の師と仰ぐのは、東北帝大で弓道指南をしていた、阿
波研造である。
見識はないが、弓道の極致を行く人のようだ。
弓道には関心があったが、機会がなかった。
的に当てることではなく、そこに至る作法の美しさが問わ
れるのだと聞いたことがあったが、それ以上の無我の境地が
求められている。
的を射ているのではなく、仏と一体になる境地だという。
もう一つ、トルストイの『光あるうちに光の中を歩め』
という古典も読み始めた。
トラヤヌス帝のローマ時代、まだ、キリスト教が迫害を受
けていた原始キリスト教の時代に、放蕩な青春時代に身を持
ち崩したユリウスと、かつて同学の友であったパンフィリウ
スの煩悩を巡る対話が続くのである。
なるほど、トルストイはイエス・キリストの分身だったん
だなと分かる作品である。
しかし、キリスト教の信仰を堅持しつつ、この世的には共
産主義的価値観で共同生活をしているパンフィリウスの考え
方には賛同しかねた。
まさに共産主義のにおいがプンプンとする。
現代のキリスト教が共産主義に親和性を持っているルーツ
であろうと思う。
もちろん、共産主義は信仰を否定し、迫害する暴力思想で
あるが、キリスト教徒は共産主義に染まりやすいのである。
確かに、愛欲は野獣的であるが、煩悩はこの世の仕組みと
して神が作った本能である。
キリスト教は潔癖にこれを拒絶するのであるが、無理をし
ている。
トルストイは思想的にもキリスト教的無欲を称賛するのだ
ろうが、煩悩との折り合いの付け方は仏教の方がはるかに優
れている。
それでも、煩悩は悩ましいものではあるのだが、だからこ
そ、修行の意味がある。
そんなことを問答しながら、つづく・・・、ということに
した。
苦楽中道、これがこの世の修行課題である。
今日は寒くて、鼻水が垂れた。
右足の蝶番が不具合で痛んだ。
もう、ロコモなのかあ。
股関節の痛みは不快である。
読書で正解だった。
この世は欲望と信仰、善と悪が相克する難行苦行の場であ
る。
しかし、理想を描き、希望を実現しようとするのもこの世
の活力である。
あと、二カ月近く、トランプ大統領の試練が続くが、それ
は支持者にしても同じである。
既成事実のように、バイデン大統領として外交を始めてい
る国もある。
日本もバイデンとの外交を開始した。
恥ずべき国である。
保険をかけているのだろうが、確定していない被疑者を大
統領と認めるのは良識に反しているだろう。
あれほどの不正選挙を容認するというのは、同じ穴の貉な
のだろう。
マスコミはこぞって不正体質であるらしい。
まあ、そういう不正義をしっかりと見ておきたい。
もちろん、トランプ大統領はしっかりとみていることであ
ろう。
不正につくった数字を信じるという悪弊が、マスコミを増
長させてきたのだ。
統計はだましのテクニックと思った方が無難である。
世論調査などはその典型である。
苦楽中道の基本には信仰と正義がある。
神に恥じない、間違ったら反省するという謙虚である。
質素に生きることの中に、苦楽中道の生活もあるだろう。
共産主義は悪魔の思想であるが、欲望の資本主義も悪魔で
ある。
やはり、地上人類の削減は、嵐の船の荷を捨てることに等
しいように思われる。
悪人に請われれば、全てを与えるという原始キリスト教は
一種の無我の境地であろうが、悪に抗わないのは武道の心得
ではあるまい。
現代の増殖した不信仰は、神を冒涜するものであり、滅ぼ
すべきであると思う。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party