年越しの 遍路を行くか 石仏
梅士 Baishi
12月28日になった。
世間の大道は大手を振って年末休暇を決め込んでいる。
ならば遠慮なくと遍路の遊興に出かけた。
札所の寺も、なぜか押し迫った年末に慌ただしさを感
じた。
石仏も道を急いでいるかのようである。
ただ歩くだけの遍路では体が冷える。
今日は上りルートのはずが、新道に入って南蔵院に下
るルートに終わってしまったのである。
すっかり冷え切った体で電車を降りてお風呂に飛び込
んだ。
サウナと水風呂の陰陽がいかにも心地よい。
終わりよければすべて良し、人生、極楽、極楽。
今朝は妖怪系の続きで、『荘子の人生論』を読んだ。
老荘思想は一転語としての意味はあるし、避難場所の
ような役割もあると思う。
しかし、否定の哲学というか、よく言えば無関心によ
る関心というか、休息思想というか、そういうものであ
る。
それにしても、荘子の霊言は虚無主義に近いものだっ
た。
反抗期の息子というべきか。
ただ、美意識の取り方はなるほどと共感するところが
ある。
美意識は理屈ではなく、一瞬の悟りというか、感性で
あると思う。
老荘思想は、多様性の中に活かされた偏屈であろう。
なぜ、偏屈が歴史に名を残したのか、そこが不思議で
はある。
教養人ではあったのだろう。
人知れず努力し続けたのであろう。
しかし、人間への嫌悪感を感じる思想でもある。
エル・カンターレはまだ人間を見捨てない愛を貫いて
いるが、荘子は人間を見捨てる神の怒りの側に立ってい
ると感じられる。
勝手にすればあ・・・、というのである。
ただ、偏屈だというだけでは済まない神の怒りを代弁
しているのかもしれない。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党