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+ 今は昔の大晦日・・・ 信仰と信心の違い  師と仰ぎつつも、日下公人批判  成功者よ信仰に目覚めよ

2010年02月13日 18時35分37秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 

    今昔imamukasi   大晦日ootugomori  下駄の音

 
     馬糞 Bafun 

 

 

 

 

 

 「良いお年を」、そう言って金曜日の職場を辞した。

 今日はおおつごもり、旧暦の大晦日である。

 アジア諸国は世間胸算用よろしく、あわただしく土煙をたて、荷物を

引きづって新春の大詰めを楽しんでいることであろう。

 

 そんな伝統の新春元旦が日本から失われてしまったことは、なんと

も残念のきわみである。

 寺社こそは、伝統の正月行事を伝えるべきではないか。

 如何、旧暦の除夜の鐘を打たないか。 

 月には月齢のけじめがあるのだ。

 

 さて、大晦日の土曜日、たまりにたまった借金のような本の山を、遠

くシナ寺の除夜の鐘までにはなんとか工面しなければなるまい。

 それが、わが胸算用である。

 そして、明日の元旦には、めでたく新春初出社である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信心は利己であり、信仰は利他である】 


 信仰と信心の違いが分からない人が多いように思う。

 「神様の世話にならんでも、ちゃんと成功してゆけますけん」という

問題ではないのである。

 

 信仰とは、仏神に誓う使命の自覚というべきものである。

 ならば、志ある者、一家をなしたる者こそは、信仰に目覚めるべ

あろう。

 まして、現代日本に仏陀が再誕しているのである。

 「太陽の法」「黄金の法」「永遠の法」という、古典とも言うべき三部作

を読んだだけでも、その奇跡とも言うべき叡智を認めざるを得ないと思

うのだ。

 それがわからんようでは、成功は表向きの虚栄にほかなるまい。

 

 

 日下公人氏の「日本人の覚悟」を読んでいて、彼の宗教論にさしか

かると、論旨を理解しつつも読むに耐えなくなる。

 氏は物事の本質に簡潔ずばりと切り込む人であり、愛国の啓蒙家で

ある。

 しかし、どうも育ちが良すぎるせいか、信仰ということが分からないら

しい。

 

 理性に偏ってはいけないのだといいながら、「理屈っぽい」という理

性が、信仰の理解を妨げているのだろう。

 尊いという感情がわからない人なのだろうかと懐疑的にもなる。

 

 そもそも、氏が神仏という存在を認めていないことは確かである。

 信仰ではなく、道徳までしか分からないようなのである。

 その道徳のルーツを日本人の優れた伝統文化でごまかしている。

 だから、政治批判でもあるかのようにキリスト教や仏教を軽口で論評

しようとするのだ。

 惜しいことだ。

 

 確かに、坊主の解釈に帰依することは嫌だという気持ちは分かる。

 しかし、哲学とて坊主のレベルにおける仏心神意の解釈なのだ。

 そもそも仏陀の直説金口の法であれば帰依するに不足は無いは

ずである。

 だが、再誕の仏陀を認めようとはしないようなのだ。

 

 煩悩なのであろう。 

 悟性においては二流どまりということなのであろうか。

 師と仰ぐ人物ではあるが、仏陀再誕の時代にその存在に気がつか

ないとは愚かである。

 氏が、「精神」論の殻を破って信仰に目覚めることを願う。

 

 そのときこそ、氏の知性と直観力が翼を得て本来の死に甲斐を見出

すにちがいあるまい。

 そうでなければ、使命を果たしたとはいえないであろう。

 仏陀再誕の時代に、宗教論で小理屈をこねるのはみっともないです

よとご注進申し上げたい。

 

 

 「同様に、知性の時代に財を成し、名を上げた多くの成功者のみなさ

ん、いざというときの今こそ、再誕の仏陀の奇跡とも言うべき偉業に

素直に驚いて帰依すべきではないですか。

 貧者の一灯とはいえ、世の中を広く照らすには頼りないものです。

 成功者の「成功」とは使命ゆえの人々の賛同あればこそとではない

かと謙虚に考えていただきたいと願います。」

 

 幸福の科学の「出家」は、このトップ伝道をこそ必死に努めることだ。

 仏陀自ら獅子奮迅しているときに、儀式坊主に安住してはなるまい。

 

 どうも、口が過ぎましたようで・・・。

 

 最後に、「貧者の一灯」とは、富者がどうあれ、信仰とは自分の生き

様であり、命の輝きであるという意味である。

 富者の不信仰を口実に植福、分福、惜福を怠ることは、不信仰に他

ならない。

 

 信仰とは、貧しさを言い訳に怠ることを得ない魂の問題である。

 信仰とは利他に生きる覚悟である。

 信仰は、聖書にもあるように、他人と比較して不公平だと文句を言う

べきことではない

 信仰の純粋を清清しく受け止めたいものである。

 

 

          立憲女王国・神聖九州やまとの国

           梅士 Baishi

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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