日出る その紅kurenai の 曼珠沙華
馬糞 Bafun
田に紅の彼岸花を、今年はまだ見ていない。
田に真っ赤な彼岸花の光景は、神秘である。
あの鮮烈な紅色が、大好きである。
しかし、今日は、一歩も外には出なかった。
心が重かった。
電話で聞く、父の病状が、日に日に正気を失っている
からである。
シベリア帰還兵の父が、せっかく楽しみにしていた夏
休みのグランドゴルフの旅の直前に歩けなくなり、夏の
間にみるみる正気ともいうべき気力さえもが衰えてし
まった。
交通事故よりは緩やかであるが、突然という戸惑いが
ある。
母は、入院先で毎日付き添い、老いた手でマッサージ
までしてやっているという。
それでも、今は反応がなくなっているらしい。
悲しいことだ。
何れ、去るべきこの世であり、母もその覚悟はできて
いるであろうが、死ぬ直前まで、心の幸福を見失なわな
いで欲しいものだと思う。
【痴呆撃退!】
家族の寝たきりや痴呆症ほど、悲しいことはない。
こんな悲しいことを、もっと辛い痴呆症の看病の苦し
みを、身近な人々が背負っていたことを、その励ましの
言葉から気づかされる。
おもえば、亡くなった友人も、痴呆の母親の看病に活
路を見失い、どうしようもないよ、と電話をしてきたの
が最後だった。
父が、思いがけずこのようになってしまったのは、糖
尿病と、悲観的な考え方に誘引があったのではないか。
たしかに、人生はままならず、悲しいほどに未熟で、
悲しいほどに貧しい。
しかし、悲しくも、滑稽ではないか。
人生に悲観などいらない。
笑いながら、この世を旅立つことができるのだ。
人間は、所詮、無様に生きているのだから。
その無様がおかしくもあり、楽しくもある。
生活力が乏しく、老後が不安であっても、食えなくな
ったら安らかに死ねばよい。
最後まで努力してやまなければ、それもまた、寿命で
ある。
だから、老後に不安を抱く必要はないのだ。
寿命とは、目出度く、毅然としてこの世の命が尽きる
ことである。
祖母は、洗濯物をたたみながら、眠くなったと言って
横になったまま往生したのだと言う。
その祖母の面影の残る父のことである。
安らかに、旅立って欲しい。
明日は、かすかな父の正気に会いに行こうと思う。
全国の痴呆の老人たちよ、毅然として生き、笑ってこ
の世を去りたまえ!
あなたたちは、「生きがいがない、誰にも期待されて
いない、もう終わっている」などと悲観したに違いない。
その結果として、痴呆を招いたのではないか。
しかし、衰えて寝たきりになった老人であっても、他
人に何の貢献もできないのではない。
死に臨んで、その伴侶が、その子が望むのは、その安
らかな境地である。
慈眼愛言というが、最後まで輝きつづける、与える愛
の最大というべきではないか。
人間の存在とは、いかにも大きいのである。
痴呆とはいえ、魂は 正常に考えているはずである。
よくよく、反省することだ。
寿命の目出度さを悟ったならば、寿命尽きるまで、毅
然として生きると誓え。
その寿命尽きることを悟ったならば、潔く、この世を
去るべきである。
あの世こそは、本来の住処である。
帰るところがあり、待つ人がいる。
人間は、永遠の生命であるということを信じよ。
そして、再び、地上に生まれるときが来るのである。
生命が永遠であること。
この世を去ったところには、あの世と言われる心の世
界があること。
心の世界とは、幻ではなく、実在の、人間本来の世界
であること。
そして、魂修行のために、転生輪廻を繰り返している
存在であることを信じることである。
彼岸の入りに、悲しい人々に、愛と勇気の引導を渡し
たい。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi