千代流れ 櫛田参りの 縄を張り
馬糞 Bafun
博多祇園山笠の名門、千代流れが縄張りをした。
千代の縄張りは、商売の神、十日恵比寿神社のお膝元でもある。
笹に渡した一筋のしめ縄であるが、いよいよだなあ、と心が走る。
このところは、日中の風もひんやりとしているが、飾り山が立つ頃
には、飾り山の前で夕涼みをする夏場となる。
この勇壮な神事の気概が、なぜ国家の政治からは失われてしまっ
たのかと、残念に思う。
政治もまた、神事であるものを・・・。
博多祇園山笠の始まりは、疫病の禍を祓う神事であった。
願わくば、この国の鬱の病を吹き払い、新型の病魔を退散させた
いものである。
【 『性同一性障害』の問題提起 】
女の体でありながら、男の自覚のために、性の矛盾に苦しんでい
る人がいる。
性とは何かという心の問題を背負った人たちである。
医学的にも科学的にも、「障害」の原因はわかっていない。
当然である。
唯物論科学に心の所在がわかろうはずもない。
なぐさめに、ホルモン投与や性転換が行われている。
しかし、肉体の性を勝手に変えるというのは、性に対する冒涜で
はないかとさえ思う。
前向きに、自分に与えられた人生修行の課題として受け止めてい
ただきたいと思う。
この試練を受けている人は、意外に多いようである。
さまざまな分野で活躍している著名人も少なくない。
社会で活躍することの本質的な妨げではないことを証明していると
も言える。
しかし、さらに重要な意義は、性の区別が、単純な肉体的区別では
なく、魂の領域に本質があることを示唆しているということである。
現代の「科学」や「医学」といわれている唯物論科学や人間機械論
医学では説明のつかないことであっても、『人間の本質が肉体ではな
く、その肉体をまとっている「自分という意識」、すなわち魂としての
存在にこそ本質がある』という仏教哲学ないし、霊界科学の立場か
らは明快に説明ができる。
天動説と地動説の優劣が、単純に説明できるか否かの違いで地
動説が通説になっているように、単純明快に説明できるということが、
説の合理性ないし正しさの証明であるとも言えるであろう。
しからば、霊肉二元論の正しさを認めるべきである。
天動説が地球中心というものの見方に縛られていたように、唯物
論は五感中心のものの見方に縛られた、現代の天動説というべきも
のである。
現代日本はまさに、唯物論科学が中世の天動説的権力を振りかざ
す、不合理な社会といえるであろう。
この意味では、『性同一性障害』を背負った人々は、肉体とは別存
在である心の存在こそが、自分の存在の本質であることを証明して
いる人々であるといえる。
性同一性障害は、本来、病気や障害というべきものではない。
生まれ変わりの仕組みの中で、男のエネルギーをもった魂が、何
らかの事情ないし計画で女の肉体に入って生まれたということである。
男と女では、魂の性質が違うということでもある。
人生計画としての覚悟があれば、混乱したり悩むことはないのであ
ろうが、物心がついてみると、男の意識にかかわらず、体が女だとい
うことになると、戸惑うのであろう。
肉体と霊体は別物であり、霊としての意識こそが自分の本体だとい
うことに気づかなければならない。
霊としての存在に気づいたならば、霊的生命の永遠性と転生輪廻
という仕組みを受け入れることもそれほど難しいことではあるまい。
肉体の性が異なる人生であっても、永遠の時を生きる霊的人生の
中の貴重な一幕であり、貴重な経験である。
性の本質、魂の本質、性と社会的人生などの課題を学ぶための
人生を見事に演じて生きればよいのだ。
過去にもさまざまな人生を経験しており、未来にも別の人生を生き
るのである。
こうした、霊的人生観を持つことができれば、肉体と心の性の不
一致は、障害ではなくなる。
女の肉体をまとったのであれば、その役を演じきればよいのだ。
男勝りの女として生きれば、現代ほど有利な時代はないであろう。
女性の社会進出を開拓する役割があるのではないのか。
男の精神力を持った女性でなければできないのが、政治や経営で
ある。
繊細で感情的であっては、政治や経済という統治業務はこなせな
いからである。
男の肉体をまとったのであれば、男としての役を演じながら、男と
して生きることの厳しさを学べばよいのだ。
あるいは、男社会の中で、女の感性を生かした仕事をやれば、お
おいに成功するチャンスがある。
肉体と心の性の不一致に悩む人々よ、心の本質に目覚め、まとっ
た肉体の性を役柄と心得て演じきってほしい。
性の不一致は、一つの修行であり、チャンスでもある。
肉体を改造するというのでは、逃避であり、障害に終わってしまう
のではないか。
使命感と勇気をもって、生きてほしい。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi