坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『坊主』と『同朋』

2009年02月15日 | 坊主の家計簿
 2月15日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 食類  唐揚げ弁当        575円
     諸々(野菜ジュース込) 1815円

 合計              2510円
 2月累計           64771円

 殆どどうでもエエ話なんだが、個人的には結構嬉しかったりする話。
 え~。。。大谷派内部業界新聞(?)に『同朋新聞』っちゅうのがある。
 じゃ~ん!それの今月号(2月号)と、来月号(3月号)に、VOWZBARの田口さんが大きく取り上げられている。なんせ表紙を開いてすぐの2ページ目、3ページ目の2面に渡ってデカデカと掲載されている。表紙にも田口さんの言葉が掲載されてある。
 
 あ、『VOWZBAR』とは、いわゆる東京四谷にある東京ボウズバーである。
 東京(千葉?)からわざわざ私が某機関紙に書いた文章に対して喧嘩を売りに来てくれた先輩と、今は大阪に帰って来ている本願寺派の先輩が田口さんと一緒にやった店だ。バラしてエエのかどうか知らんが(笑)『店』も『水商売』もそんな甘いもんやおまへん(笑)

 とは云え、田口さんが紹介され、東京ボウズバーの写真まで掲載されてある。
 これでようやく、これでようやく、大谷派教団で坊主バーが紹介された。。。

 大阪の坊主バーも『世間』では散々取り上げられた。新聞テレビ雑誌ラジオ、数えるのがイヤになって途中で辞めたが、最初の2年間だけでも『数百』である。
 海外にも共同通信を通じて報じられたし、あの『LIFE』とか云うアメリカの雑誌もわざわざ取材に来て写真入り名前入りで掲載されたし。
 テレビでもデカデカと、4大新聞にもデカデカと載って、まさに『名利に溺れるエロ坊主君』だったわけだ。

 んが、大谷派での反応は、あくまでも個人的なもん。あくまでも個人的な反応でしかなかったわけでんな。
 それが、田口さんという真面目な聞法者がついに写真だけではあるが坊主バーを大谷派デビューをさしてくれたわけだ。また、田口さんのプロフィールにも『東京ボウズバー会長』とあるし。

 あ、ちなみに『田口さん』は母校・専修学院の大先輩なんだが、あの人を称する時に一番的確な表現は『聞法者』だと思う。まあ、『鉄道オタク』という表現も的確だが、やはり『聞法者』である。なんか、『念仏者』よりも『聞法者』という言葉が私的にはしっくり来る。眼が見えないから録音する為かも知れないが、一番前で聞法されていた姿が印象深い。そして、様々な先生達のお話を聞いて居られるし。だから、『聞法者』という言葉が一番しっくり来る。まあ、なんちゅうんですか?『聞法熱心な門徒さん』っちゅうイメージである。

 ちなみに『坊主バー』という名称はあくまでも『ウケ狙い』である。『ウケ狙い』だったから『ウケた』だけの話である。まあ、当然、娑婆だし『ウケ』も大事なんだが、『ウケ』にハマり切ってしまうと、何がなんだか解らなくなる。
 真宗仏教に『坊主』は居ないのだ。『僧』も『俗』も共に『門徒(同朋)』でしかない。
 但し、厳密に云うのであれば『坊主=毛坊主』であり、『坊主』と『僧侶』は違うはずである。
 『毛坊主』とは
【俗人でありながら死者があれば導師となって弔う者を毛坊主という。】(http://www.tabiken.com/history/doc/F/F272L100.HTMより)である。
 故に、一時期『坊主』は差別用語であったはずである。俗人が死の穢れに触れるわけだから。詳しくないのだが、詳しい先生から聞いた話ではそんなはずだった。
 んが、しかし、今日での『坊主』はイコール『僧侶』である。私もそんなイメージしか持ってなかったし、恐らく殆どの人達も『坊主=僧侶』であろう。
 そして、『僧侶』と『俗人』を分け隔てる。これは縦である。縦のラインである。
 『教える人』と『教わる人』との縦のラインである。

 これが『いわゆる仏教』だったりする。当然、真宗仏教も今日ではそういうイメージで捉えられているのだろう。しかし、それは真宗仏教の堕落でしかない。
 あくまでも『共に門徒』でしかない。
 それが故に、大谷派では『法主』が『門首』になった。『法の主』から『門徒の首座』になった。

 ん?何を書いてるのやら。

 まあ、『法主』が『門首』になる時に議論に出て来た話でこんなのがある。

【この(大谷派宗憲)9章の問題は、『僧侶』と『門徒』と規定されていますね。僕は『門徒』と云う言葉には、いわゆる広義な意味で(広い意味で)『僧侶』も含んだ内容に置いて全部が『門徒』である、という考えと、それから『在家門徒』だけが『門徒』である、という表現があると思うんです。それは二つあってもいいんですけども、今度の宗憲の中に「門徒とは」「僧侶とは」と云う事を明確に分けてしまっていいのかどうか?やはり今までの『法主』を『門首』と改めている以上、基本的には『門首』『門徒』そういうのを含めて門徒、という形が望ましいのではないのかと?しかるに宗憲の中に「僧侶は僧侶」「門徒は門徒」と、いう別な規定というか制約が書いてあります。そうすると広い意味での『門徒』と云う意味があったのに、いわゆる宗憲の中で定義付けてしまって、それが大変な権威に成ってしまって、将来『僧侶』『門徒』とはこういうものだ、という方向に行ってしまうのではないかと。それが本当に同朋教団としての真宗なのか。だからこういう言葉を使っていいのか知れないけども、宗祖の精神に帰るという事であるならば『門徒』というのは、『僧侶』も『在家門徒』も含めて『門徒』であるという言葉の方がいいのではないかと申しあげて来たのです。】(某学習会で講師の先生がある門徒さんの言葉を紹介した聞き書きより)