坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

斎場にて

2009年02月01日 | 坊主の家計簿
 先に1月〆

 一般会計          124343円
 医療保険            4740円
 家賃             32430円
 ネット代            4410円
 携帯              3786円
 電気代(12月分)       2172円
 ガス代(1月分)        3725円
 国民健康保険         30200円
 
 合計            205806円
 これに一括払いの年金の月割り14109円をプラスすると
 1月合計          219915円 


 2月1日

 雑費  缶ミルクティー     120円

 合計              120円
 2月累計            120円

 家計簿やねんし、ちゃんと月末決済せんかい!
 と、思いつつ、何ヶ月か放ったらかしになってたりするのだが。。。

 え~。。。今日は

 1 毎月1日は忙しい
 2 日曜日は忙しい
 3 葬儀のある日は忙しい

 と、忙しい×3=ワケ解らん。っちゅう事で。
 あ~、よう働いたぞ。っちゅうか、それでも前に居た寺の忙しさの半分やったりするのだが。。。
 んが、まあ、『あの時』とは違うわけであって、最近にしては忙しかったので、昨日休みやったにもかかわらず、今日は仕事が終わって、メシ喰って、部屋で爆睡と。昨日も爆睡、今日も爆睡と。

 気がつくと40だったりする。
 今日、仕事が終わってメシ喰ってると夕方の番組で過去の報道記録なんぞをやってた。途中から、っちゅうか、終わりの方しか見てないのだが、『朝まで生テレビ』の事なんぞもやってた。西部邁が『40代後半!』やったりしてビックリ。猪瀬が42ぐらい。
 え~。。。なんちゅうましょうか。。。

 私は1968年生まれなので、20年ぐらい上の人たちが赤軍世代。ん?全共闘世代か。18ぐらいから色んな所で『元全共闘』なんぞと議論したり、色んな事を教えて貰ったりしてたワケなんだが、え~。。。今の俺の年齢やんな。要するに。中核に入っていたあの人も、ブントのあの人も、え~。。。今の私と同じぐらいの年齢なのか。
 「うちのヨメはんとは三里塚に行くバスの中で知り合ってん。あいつ、ヘルメット被って、タオルを顔に巻いてたから顔が解れへんかってな(笑)」
 なんぞと云ってた人の年齢を越えてたりする。

 そう考えると、時代背景や個人の差なんぞを無視して考えると、真っ先に思いつく言葉は「大した事ないやんけ」である。『大した事ないやんけ』と書くと語弊を生むと思うが、「あ、同じ人間やってんな」と思ったりする。
 やっぱし、20の時の40なんぞは『大人』なのだ。圧倒的に『大人』なのだ。しかもその『大人たち』は、親や親戚なんぞと違って、自分が付き合いを選んだ人たちだったりするので尊敬の対象になったりする。尊敬の対象になって「うわぁ~。すんごいなぁ」なんぞと思ったりする。
 その期待は、幻想の期待が故に裏切られる。
 「この人、こんな人やなかったのに」なんぞと。
 なんちゅうんですか?期待がデカ過ぎて、生身の人間である事を忘れたりする。「私はこうやけど、あの人は違うはずである」なんぞと。
 まあ、期待された人たちも、えらい迷惑やったやろな、と今になって思ったりもするのだが、その分、刺激を与えられてよかったかも知らんが。

 年をとる事を『齢を重ねる』と云う。この『齢(よわい)』は『弱い』だと思う。
 強さを重ねて行くのでなく、弱さを重ねて行く。弱さと出会って行く。
 情けない事や、みっともない事に出会って行く。

 『ねたみ、うらみ、そねみ』が、人間の実態であると親鸞は云う。決して他人事でなく、親鸞自身の事であり、故に親鸞は『われ』『われら』と。
 有名学者のスーパーエリート僧だった法然は『愚痴の法然房』である。『智慧のないアホの私』が法然自身の名告りである。この辺が法然の厳しさなんだろう。智慧は如来側にしかないのだから。

 親鸞は法然から聞いた(受けとった)言葉として、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と云う言葉を残しておられる。
 私の真宗聖典のその言葉の横には「念仏はおろかな私、本当の私に帰る事」と書いてある。多分、恩師たちから聞いた言葉を書き留めたのか、その時に話しておられる事から感じた事をメモしたのかどちらかだと思う。何にしても『その場』で教えて頂いた言葉には違いない。

 年齢と共に『弱い』を重ねる事も当然自分の能力を誇る(自力)事である。
 私は20から40になった事を誇っているわけだ。
 「ふっふっふっふ。。。人間は年を重ねると自分や他人の弱さが解ってくるのだよ」
 なんぞと、誇っているわけだ。

 解ってしまうと、「隣の人が見えなくなる」(by狐野先生)である。それを専門用語で『菩薩の死』なんぞと云ったりする。

 今日は、葬儀だった。棺を運ぶ車の後に私の車がつく。火葬場がある斎場に来たら墓参りに来てたネエちゃんが頭を下げてた。
 なんでか知らんが、ひょっとして今までも体験したのかも知れないが、なんか初めてみたいな感動があった。
 当然、頭を下げたネエちゃんは、亡くなった人が誰かは知らないはずである。たまたま墓参りに来てたら、たまたまいわゆる『霊柩車』に出会った。
 でも、頭を下げられた。
 何を思って頭を下げられたのかは私は知らない。でも、『私と同じ独りの人間が亡くなられた事』に頭を下げられたのだと思う。どんな人生を送られて来たのかは解らない。でも、私と同じたった一度の掛け買いのない生涯をおくられた事に頭を下げたのだと勝手に思ったりする。
 偉い人の遺体だから頭を下げたのではない。きっと誰でも良かったんだと思う。
 誰でも同じ人間なんだし。
 だから、『仏さま』に頭を下げておられたんだと思う。