坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

普通の異常人格者

2009年02月25日 | 坊主の家計簿
 2月25日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 外食  フライ蕎麦        313円
 食類  海鮮2種         200円

 合計               633円
 2月累計          104468円

 昨日の学習会での発表は親鸞の『愚禿悲嘆述懐』っちゅうやつ。これは今日我々大谷派では和讃として声明では読まない。読まないので標準の勤行本には載っていない。載っている本もあるが、まあ、多くの声明本には載っていない。当り前だ。勤行として使用しないのだから。
 読まない理由は不明である。不明ではあるのだが、とある先輩が「化身土巻があまり読まれなかった事に関連するのではないか?」と語っておられた事が印象的である。

 だって

<第七首>
五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり

<第八首>
かなしきかなや道俗の
 良時吉日えらばしめ
 天神地祇をあがめつつ
 卜占祭祀つとめとす

<第九首>
僧ぞ法師のその御名は
 とうときこととききしかど
 提婆五邪の法ににて
 いやしきものになづけたり

<第十首>
外道梵士尼乾志に
 こころはかわらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり

<第十一首>
かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す

<第十二首>
五濁邪悪のしるしには
 僧ぞ法師という御名を
 僕使となづけてぞ
 いやしきものとさだめたる

<第十三首>
無戒名字の比丘なれど
 末法濁世の世となりて
 舎利弗目連にひとしくて
 供養恭敬をすすめしむ

<第十四首>
罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

<第十五首>
末法悪世のかなしみは
 南都北嶺の仏法者の
 輿かく僧達力者法師
 高位をもてなす名としたり

<第十六首>
仏法あなずるしるしには
 比丘比丘尼をとして
 法師僧徒のとうとさも
 僕従ものの名としたり

 という辺りは、ヤバイやろ(笑)

 というか、元々仏教っちゅうのはヤバイ教えであり、法然→親鸞なんぞもヤバヤバである。
 大谷派だけでなく、本願寺系の真宗門徒は上記の和讃を声明で使わないのが慣例らしいが、使うとまあ、他の仏教教団との間に軋轢が生まれる。
 だが、それが法然→親鸞の真宗門徒の伝統だったはずなのだが、それが故に死罪・流罪されるような教団だったはずなのだが。
 ただ、それは、いわゆる『仏教者』に対するイメージとは違って来る。ほら、仏教をやってる人、まあ、坊さんなんかもなんとなく『穏やかなイメージ』でんがな。
 
 「不平不満や愚痴を言ってはいけません。与えられた現実の引き受け、満足して生きて行くのが仏教の教えです。それが今日、社会や世の中に対して不平不満を言う人が多過ぎます。そういう人達はもう少し仏教を学んで頂いて日々の生活を感謝し、不平不満を言わずに穏やかに満ち足りた人生を送って頂きたいものです。」

 なんぞと。

 これは地獄に堕ちる人(差別者)をそのまま放っておけ、という事である。
 現実を引き受ける事は肝心要であるが、現実を引き受けたが故に宣言があるわけである。現実を引き受けない限り宣言なんぞはあり得ない。水平と云う地点、つまり浄土という水平に立つが故に、差別社会の中で「こんな私はイヤだ!」「ああいう人はイヤだ!」でなく、現実を引き受けられるわけであって、当然、そこから水平を目指す歩みが始まらざるを得ない。
 差別世のままで現実を引き受けるのならば、それは『我慢』という慢心で引き受けているにしか過ぎない。我慢は「私さえよければそれで構わない」という事である。つまり、地獄状態にある差別者に対して『我慢』する事は、「私さえよければそれで構わない」という事である。

 宣言は、水平者の宣言である。
 それが故に

【夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。】(宣言より)

 であり、

【人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】(宣言より)

 である。

 仏教に人権思想はない。人権思想はないが、罪悪深重煩悩具足の凡夫として全くの平等である。
 罪悪深重煩悩具足の凡夫として、全く対等な、全く平等な、全く水平な人間でしかない。

 差別するのは煩悩のなせる技である。差別してしまう事が凡夫の証明でもある。

 差別を『当り前』だと云う方々も多く居られる。
 まあ、「世の中はこういうもんや」と、差別世での現状肯定である。故に我慢する。我慢して「私さえよければそれで構わない」である。鬼畜の所行である。決して仏の所行ではない。
 当然、仏弟子の所行でもない。
 
 ただ、『敵』ではない。『敵』とする所には『私は正しい』という前提がある。『私たちは正しい』という前提がある。
 違うのだ。共に煩悩を抱えた存在でしかないのだ。地獄一定でしかないのだ。
 『私は正しい』『私たちは正しい』は、煩悩の自覚がない。凡夫(ただの人)ではない。正しい、悟った『御上人様』である。
 正しいが故に平気で人を差別する。
 「世間ではこれが当り前だ」なんぞと、道を求める事もなく、『世間のしきたり』を知ろうともせずに、御自分が知っている『世間のしきたり』という狭い知識だけが『正しく』、それ以外の『世間のしきたり』は「間違っている!」なんぞと平気で人を差別する。
 まさしく、これが『凡夫(ただの人)』の証明である。後は、御本人が仏との関係で『凡夫(ただ人)』であるかを認められるかどうかだけの話である。

 『普通』という言葉を使ったりするが、『普通』とは『普く通じる』という事である。
 『日本文化』なんぞはない。あるのは『それぞれの地域の文化』である。んな事は、別に難しい本なんぞを読まなくともテレビで『秘密のケンミンSHOW』を見れば解る話である。
 『世間のしきたり』なんぞもあるわけがない。んな事は『秘密のケンミンSHOW』を見れば解る。
 
 『普通』とは『普く通じる』である。つまり、個々である。個々を尊重する所に初めて『普通』が成り立つ。『罪悪深重煩悩具足の凡夫』という所に『普通』が成り立つ。
 しかし、多くの場合の普通とは、御自分が知っている狭い知識でしかなく、他を排除する為の『普通』である。
 それは普通ではない。異常である。
 つまり、「普通世間ではこういう風にするもんや」とは普通でなく異常であり、御自分のエゴに従わない人達を「普通ではない」「常識ではない」「世間のしきたりに反している」「世間知らずである」とは、異常なのだ。異常の全くおかしく、恥さらしの世間知らずの傲慢なわがままだけのファシストであり、かつ、御本人がその事から逃れたいなんぞと全く思わず、全く1ミリたりとも思わず、要するに「救われたい」などと全く思えない。
 そして、批判されたら泣き喚く。あるいは、その場から逃げる。

 最近出来た友人から『口先妖怪 ソノバシノギ』という非常に面白い言葉を教えて頂いた。
 『口先妖怪 ソノバシノギ』とは、エゴを抱える凡夫たる由縁である。

 『凡夫』とは『ただの人(普通の人』である。『普通の人に還る』のが凡夫である。

 【普共諸衆生 往生安樂國(普く諸々の衆生と共に 安楽国に往生せん)】(願生偈より)
 
 である。
 多くの他を無視して「世間では普通である」「これが世間のしきたりである」とは、『世間知らずの恥さらし』『無知蒙昧』『人格障害』だけでなく、安楽国に行きたいと思えない人である。行きたいと思わん人が行けるわけがない。

 『世間知らずの恥さらし』『無知蒙昧』『人格障害』でない人は居ない。仏以外には居ない。
 居るのは、世間知らずの恥さらしの無知蒙昧の人格障害の煩悩具足の凡夫だけである。
 
 煩悩を肯定すると煩悩は煩悩でなく『当り前』になる。仏との関係性が無くなれば『当り前』になる。
 差別や、個々を無視する事が当り前になる。
 戦争も当り前になる。

 殺されようが、流罪になろうが、伝えなければならない場面では伝えなければならない。

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