坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

春一番?

2009年02月13日 | 坊主の家計簿
 2月13日
 
 雑費  ポカリ         150円 
 外食  ちゃんぽん       660円
 
 合計              810円
 2月累計          58191円

 二日酔いが。。。
 夕方に気力をしぼって通夜に行ったのだが、それまで延々と爆睡してた。
 疲れててんな、俺。

 通夜が終わって御近所温泉に行こうと考えていたのだが、小雨混じりの風が無茶苦茶強くて、さっさと断念。

飲み倒れ

2009年02月12日 | 坊主の家計簿
 2月12日

 雑費  秋鹿         3771円
     薬局諸々       6887円
     するめ         120円
     タンガクラブ会費   5000円
     飲み代       10000円ぐらいか?
     タクシー       1000円

 合計            26658円
 2月累計          57381円

 飲み過ぎた。。。
 お買い物してタンガクラブへ。で「次の日休み♪」っちゅう事で、『ら』に向う。後に『ら』の大将を誘って鶴橋『もみじ』へ。え~。。。すっかりベロンベロンになってしまって、『ら』の大将を残して帰る。
 とりあえずタクシーでミナミまで戻って来たが、電車がまだ走っていない。久々に道で寝てしまうという暴挙に。。。

逆チョコ

2009年02月11日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 2月11日

 雑費  諸々         726円
 食類  諸々         671円
 外食  ホルモンビール飯  2240円

 合計            3637円
 2月累計         30723円

 なんか今年から新しく日本の伝統文化に入るらしい『逆チョコ』という風習が出来たらしい。
 素晴らしい。。。素晴らしいぞ。。。これで10万円損した以上、儲ける事が出来るやないかい。

 バレンタインデーのチョコは3倍返しらしい。月300%の利率である。
 つまり、「御代官様、こちらの饅頭をどうぞ」「おお、越後屋そちも気がつくのぉ」「これからもなにとぞ宜しく御願い致します」「おや?越後屋。この饅頭は黄金色に輝いているではないか」「御代官様、ところで今度の抜け荷の件なのですが。。。」「わかっておる。いつも通りの手はずでいいのだな?」「なにとぞよしなに」「越後屋、お主も悪よのぉ」「御代官様こそ」「ワッハッハッハッハ!」の饅頭の代わりにチョコレートの中に万札を入れておけば、月300%の利率である。
 1万円が3万円
 10万円が30万円
 100万円が300万円になる。
 素晴らしい。。。こういう素晴らしい習慣を今まで女性だけの儲け話しにしていた事がダメだったのだ。この男女平等の世の中で、女性だけの儲け話しとしてバレンタインデーがあった事がおかしかったのだ。
 「御代官さま、それは『チョコレートだけに』というやつでございましょうか?」「越後屋、気づいてくれたか。チョコレートだけに『おかし』な話、っちゅうやつじゃ。ワッハッハッハ!」

 しかし、この儲け話しには当然危険がある。月に300%なんぞの暴利が法律で認められているわけではない。あくまでも『風習』の話である。『なんとなくそんな事になっている』だけの話である。恐らく本屋等で売られている『しきたり本』なんぞには『バレンタインデーのチョコは3倍返し』と書かれているのだろうが、そんなもんは他に一緒に書かれている『しきたり』なんぞと同じく根拠のない話である。つまり誰かが勝手に決めただけの事である。やれ、水引は葬儀の場合は何色だとか、結婚式の場合は何色だとかと同じく、誰かが勝手に決めた話でしかない。
 誰かが勝手に決めた事に従わなければならない義務は一切ない。よって、従わなくとも何ら問題はない。罰則はないのだ。
 罰則はないのだが、バレンタインチョコを3倍返しをしないと、「あの人は礼儀を解っていない」とか、「あの人は世間知らずである」なんぞと騒ぐ人がいるだけの話である。つまり独立者には通用しないのだ。

 そういや、ちょい用をしながらだったのでちゃんと見てなかったのだが、NHKでキング牧師の事をやってた。
 キング牧師の事は殆ど知らない。なんせ「39歳で死んだんか!」っちゅうレベルである。一度、ちゃんと本でも読んで勉強したいのだが、今の所はそんなもんである。
 差別が当り前の世の中で、「差別はおかしい」というとトラブルになる。問題を引き起こす。「また、あの人、要らん事いうて」である。
 だが、おかしな事はおかしいのだ。おかしな事に対して、「それはおかしい」と云うのは当然の事だと思うのだが、それが世の中で当り前の事であり、それを守っていた方が社会が混乱しなかったりする。それが差別秩序であっても。
 面白い事に、いわゆる『しきたり』なんぞを気にするのは男女関係なくである。個人的な経験でいうのならば女性の方が『しきたり』なんぞに煩かったりするイメージがある。それは『家庭の事は女の仕事』というある種脅迫された役割分担のせいでもあると思うのだが、それでも「これはこういう風にするのがしきたりだ」なんぞと。古くからの『しきたり』では「男がやる事に女が口答えするな!」っちゅうのも『しきたり』だったりするのだが(笑)
 三従とは古来よりのしきたりであるが、『幼少の頃は親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う。 』である。つまり、男がやる事に意見をする女は『しきたり』を守っていないのだ(笑)「奥に引っ込んでろ!」っちゅうのが『日本のしきたり』である。
 当然、そんな『しきたり』なんぞは間違っている。
 誰かが勝手に決めたしきたりなんぞに従わなければならない義務は一切ない。

 逆チョコは今年から出来たのか、今年から『広めよう』としているのかは知らないが、まあ、その内にお中元、お歳暮なんぞと同じく日本の伝統になったりするのだろう。
 所詮、そんなもんやね。誰かが勝手に決めただけの話。

 伊勢神宮の大麻の受け取りを「すいません。。。私、酒一本でんねん」と拒否したアル中、違うわ、え~。。。神宮大麻(お札)の受け取りを拒否した真宗門徒も居た。
 「神棚あるべからず、伊勢大麻を受くる必要なし」と説いてまわり、『神棚おろしの報専坊』と呼ばれた報専坊慧雲という方も居られる。

 差別が『しきたり』なら差別に従い、戦争が『しきたり』なら戦争に協力する。
 差別する事がマナーで、戦争協力する事がマナー。
 それが『世間で当り前』なら、そうするんだろう。
 それが『世間で普通』なら、そうするんだろう。

 誰の人生、生きとるねん。

オッさんの涙

2009年02月10日 | 坊主の家計簿
 2月10日

 雑費  缶ミルクティー     120円
 外食  ラーメン        714円
 食類  弁当          390円

 合計             1224円
 2月累計          27086円

 葬儀があったので、バタバタしてて仕事終わったのも遅く、京都が。。。
 ああ、信楽先生の法話が。。。
 卒業生の会報発送作業が。。。
 なんだが、仕事や、っちゅうねん。

 帰宅後、夕寝で爆睡。
 起きて、ちょいネット検索してたら、え~。。。衝撃の事実が。。。
 10万、損した。。。
 っちゅうか、小堀の人「DVDで出す予定は今の所はありません」とか云うてたやん。。。
 え?何の話や?ってか?
 オッちゃんが3年前、つまり2006年の1月15日に買った『大谷派の儀式』っちゅう全13巻のビデオがやな、当時『179400円!!!』で買ったビデオがやな、今はDVDになって75000円で売っとるねん。。。
 首、くくろかな、俺。。。
 っちゅうぐらいにショックやんけ!!!!!
 104400円も損しとるやんけ!!!!!
 倍額以上、損しとるやんけ!!!!!!!!

 まあ、んな事をいうても、しゃーないのだが、ああ。。。
 75000円でDVDを買った皆様。皆様が75000円で買えた裏には私の様に179400円でビデオを買った人がいる事を忘れるな!!!!!

 んが、まあ、歴史は、んなもんか。
 例えば私が使っているMacなんぞも、私が使っているMacよりも遥かに性能が劣るMacが100万ぐらいしたらしいし。
 そう考えると、私が使っているMacの裏側には100万円でMacを買った人たちがいる。ああ、ありがとう。
 と、私が感謝するような気持ちで、75000円でDVDを買った人たちは私に感謝しろ!!!出来たら直接「ありがとうございます」と御礼を云いに来い!!!

 ああ。。。

日本仏教能力検定協会

2009年02月09日 | 坊主の家計簿
 2月9日

 雑費  缶ミルクティー     120円
 外食  トンカツ定食      700円
 食類  黒霧島        1580円
     諸々          426円

 合計             2826円
 2月累計          25862円

 葬儀があって、夜には通夜もあった。。。
 んでもって、その間に諸々の雑用かまして、帰宅しても雑用かましたりして、ああ、落ち着かん。。。

 そういや、漢字検定の所が問題になっているらしい。詳しく知らんので何とも言えんが、あれの仏教版があったらオモロイのぉ。
 『日本仏教能力検定協会』なんぞがあってやな、仏教何級とかの検定書が発行されたりするわけだ。
 まあ、「誰に判断を下す資格があるねん」と、私は反対するが(笑)

どうして私をそくばくするの

2009年02月08日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 2月8日

 雑費  缶ミルクティー      120円
     タバコ10(数日前)  3000円
 外食  かけ小          280円
 食類  八朔2          100円

 合計              3500円
 2月累計           23036円

 帰宅してメシ喰って爆睡。
 起きてから平野修先生の本を読む。固い方(笑)。
 『固い方』と書いたのは、平野先生に触れたのは『やさしい本』だったから。固い方は手元にあるけど放ったらかしになってた。

 専修学院と云う我が母校に入学した時に、確か『平野修先生に学ぶ会』やったっけな?そんな名称の会があった。とある先生が毎年立ち上げている会で、平野先生が子どもと一緒に砂浜に寝転んだ後に話された事とか、まあ、子ども相手に話された講義録なんかを参加者で輪読→座談する会。

 ふと思い出して、その時に頂いた資料をパラパラと読む。平野先生がこんな詩を子どもに紹介してた。
 

【 『狂人の宣言』 おれは生きている!

  俺を狂人と呼ぶ連中よ
  それでもきみらは生きている気なのか
  鼻の下へ 手をおっつけてみろ
  息をしているか 息を
  力強い呼吸をだ
  きみらがおれを狂人と呼ぶそのように
  おれはきみらを
  泥人形と呼ぶ
  おれはきみらに狂人と呼ばれるほども
  真剣にならなきゃあ
  どうしてこんな 虚偽と不義のみ横行する
  腐れきった<シャバ>に生きられるものか
  おお なんとオメデタイ泥人形諸君
  いま 狂人とからかわれている
  この生きたおれがだ
  はたしてなにをすることか
  十年 二十年
  墓穴のなかで
  まあゆっくり見てるがいい】

 なんちゅうパンクな詩やねん(笑)
 っちゅうか、小学生も参加してる会で何を過激な事を教えてるねん(笑)

 上記の詩を紹介した後に平野先生はこんな言葉を残されている。

【私達はいつの間にか「こんな風になっているから」とか「これが普通なんだから」ということで、言われた通りに動いていくとどうなっていくか。自分が生きているのではないのです。自分が生きているのではなしに、制度が生きていて、人間はただその制度の後を追いかけて生きているだけということになります。「おれは生きているのだ。」とは言えないのです。
 この詩の題名は『狂人の宣言』とあって、その下に「おれは生きている!」というサブタイトルが付けられているわけです。「おれは生きているのだ。だれかのために、この制度のために私は生きているのではありません。」というわけです。そしてその制度も、つごうのいい人につごうのいい制度、そんなもののためになぜ私は生きなければならないのか。「変わり者だ。」と言われたり、「おまえは少し狂っている。」と言われても、「おれは生きているんだぞ。」と、この人は言い切るわけです。】

 この講義のタイトルは『どうして私をそくばくするの』であるらしい。

 礼儀作法なんぞとよく言うが、私は『礼儀』と『作法』を分けて考える。
 『作法』は『しきたり』である。「こういう風にしなければならない」である。当然、『小笠原流』だとか、いわゆる『冠婚葬祭本』に書かれている様な事だろう。

 沖縄の人は、私の事を「ヤマトの人」と云う。まあ、『ヤマトンチュウ』っちゅうヤツやね。
 沖縄を例に出すと解りやすいから出したが、北陸は『越の民』である。蔑視表現であるが『熊襲』や、『東夷』なんぞもいる。名古屋辺りは『八の民』やったけな?
 まあ、バラバラなのだ。『日本』なんぞと云っているが、バランバランなのだ。
 『山の民』もいれば『海の民』もいる。サンカもいる。
 在日コリアンも居れば、在日ブラジル人も居れば、不法だろうがなんだろうが様々な形でこの『国』に入って来た方々も居られる。
 真宗門徒の独自の文化もある。
 それを非常に限定された『作法』に従わなければならない義務があるのだろうか?

 『礼儀』は、気持ちの問題である。
 『礼儀』が『形』になったのが作法であるが、その『形』が『形』であるが故に、限定され、排除の根拠になったりする。形であるが故に。
 『形』に囚われてしまっている。形に囚われてしまっているが故に、「あの人は行儀が悪い」だのなんだの。「作法を知らない」なんだのかんだの。

 ちなみに私は水割りを飲む時には『氷り抜き』で頼む。出来れば水も常温がエエのだが、そこまでワガママは言えないので「水割り氷ヌキで」と頼む。単に好きなのだ。
 んが、一応『作法』としては『冷たいものは冷たく出す』である。よって、私が作ってた水割りはキンキンに冷たかったはずである。
 んが、まあ、そんなもんは『相手次第』でっせ。
 『客』が「氷ヌキ」と頼んでいるのに、「それは作法と違う」っちゅうのは礼儀に反する。

 統一された『日本文化』なんぞは幻想の妄想にしか過ぎない。
 異文化交流は『ややこしい』のだ。簡単にいくわけがない。だって『他人』なんだし。
 そういう『他者』との出会いによって、自分のこだわりが、エゴが明らかになる。

 『バラバラでいっしょ 差異を認める世界の発見』という言葉があるが、それは同時に『差異を認められない愚かな私の発見』である。
 『差異』なんぞは認められないのだ。
 そして、認められない愚か者が、共に平等な地平に立って生きているのだ。全く対等な『煩悩具足の凡夫(ただの人)』として、高級な人でなく『無料(ただ)の人』として生きているのだ。

世間知らずの恥さらし

2009年02月07日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 2月7日

 雑費  缶ミルクティー      120円
 外食  ラーメン         418円
 食類  諸々(酒類込み)    1508円

 合計              2046円
 2月累計           19536円

 夕寝してたらオカンから電話あり。諸々喋っててビックリしたのだが、オカンの実家辺り(能登半島)では『祝儀は倍返し』であるらしい。さすがに今は大阪の方が長いので「うちの実家の方では」なんぞと云っていたが、ビックリである。
 当然、能登半島の全てがそうだとは思わんが、もの凄い利率やのぉ。。。バレンタインは3倍返しらしいが、これに匹敵する利率である。なんちゃらマルチなんぞよりも、どこぞの投機よりも利率は高いのではないか(笑)

 祝儀のお返しなんぞを調べてみると、半額であったり、3分の1であったり、礼状だけであったりと様々である。この中に倍返しも入って来る。
 これが『村』の内部だけの話なら問題はないのだろう。その村の風習があるのだろうし、村の風習が『半返し』なら『半返し』をしておけば問題はない。まあ、無難である。
 しかし、都市部はそうはいかない。都市部は『田舎者の集まり』である。よって様々な風習が入り乱れている。
 当然、憲法や条例で祝儀の相場や、祝儀のお返しの相場なんぞが決まっているわけではない。
 
 葬儀や法事でもそうなんだが、式典なんぞの時には年長者が威張りだす。「私の出番でっせ!」みたいなもんである。当然、その年長者が『物知り』ならともかく、大方は『世間知らず』である。だいたいの場合は個人的な体験、つまり、その地方の事を『当り前』と思い込んで居て、それを押し付けて来る。
 
 焼香の仕方だって様々なのだ。
 「皆さん、これからお焼香をして頂くのですが、お焼香の仕方は御存知ですか?」なんぞと聞いてみる。すると、結構バラバラだったりする。ただ、多くは『香を頂く』。つまり、香をつまんで眉間辺りにもって来る。この作法は大谷派ではしない。
 「一応、大谷派ではこうするんですよ」と説明したりする。すると、「え?」っと驚かれる方も多い。なんせ香を頂かないのだから。
 香を頂く事が『当り前』というのならば、香を頂かない作法は間違っている事になる。違うのだ。どちらもあるのだ。香を頂く作法をする宗派もあるだろうし、頂かない宗派もある。単にそれだけの話である。
 単にそれだけの話なんだが、これが認められない。単純な話だ「私が正しい」のだから。

 様々な人が集まると、様々な習俗がある。これが当り前なのだ。
 しかし、その『当り前』を無視して、各地の習俗、限定された習俗を『当り前』にされると、違う習俗の持ち主は困り果てる。
 「これはこうするのが当り前だ!」なんぞととは、非常に限定された社会の内部にしか通用しない事である。それを押し付けて来るのは単なる世間知らずなんだが、非常に残念な事にこの世間知らずが多過ぎる。
 自分の世間知らずを棚にあげて「これはこうする事が当り前だ!」と、世間知らずの恥さらしでしかない。しかも、そういう人に限って『世間』を気にする。世間を無視して、自分の狭い知識を『世間』と思い込んでいるにも限らず、その事が『世間』であると、世間全てに通じる事であると頑なに信じている事がどれだけ『恥さらし』なのかを全く疑わない。
 そして自分の狭い知識に従わない人を「あの人は世間知らずだ。これはこういう風にするのが当り前だ」等と云う。最早、爆笑もんの恥さらしなんだが、それを当人が『恥さらし』であると思っていない事が多い。

 世間には様々な人が生きている。それが『当り前』なのだ。
 違う事が『当り前』なのだ。
 それを認められないのは『世間知らずの恥さらし』にしか過ぎない。

除かれたもの

2009年02月06日 | 坊主の家計簿
 2月6日

 外食  回転寿司       439円
 食類  諸々         832円
 雑費  切手         560円

 合計            1831円
 2月累計         17490円

 仕事終わって溜まってた所用を済ます。よし、これで学習会発表への準備完了!って、え~。。。発表に向う気持ちの準備が出来ただけなのだが。。。ホンマの準備なんぞ1ミリもしてないし。資料も1枚も用意してないし。
 しかも、

 2月9日   京都でナムナムに仕事終了時間次第で行けたら行きたいし。
 2月10日  京都で大谷派九条の会&青草発送作業に、仕事終了時間次第で行けたら行きたいし。

 と、連ちゃんで京都遊びなのだ。
 「エエのか?ホンマに遊んでてエエのか?」なんぞと、ネットでブログで遊びながら書いてるねんから、まあ、エエのやろう(笑)
 
 学生時代に竹中先生から「あなたは自分の部屋が燃えているのにも関わらず、燃えたぎった部屋の中で傍観者になってますね」と指摘された事がある。つまり、そのままだと間違いなく焼け死ぬ。焼け死ぬのは他の誰でもなく私なんだが、それにも関わらず私は私の事に対して傍観者になっている。
 それが私なのだ。

 昨晩よりちょっとしたマジ切れモードに入ってたりする。
 煩悩の火で燃えたぎっている状態である。火をつけて燃えているのは私である。焼け死ぬのも私である。にも関わらず、私は私が『焼け死ぬ』事を考えない。考えられない。

 ふと今、タイトルに惹かれて本棚にある和田先生の『除かれたもの』を読む。

【一生懸命他を除いたもの、それが今如来の本願から除かれている。】(『除かれたもの』35ページより)

 怒りの煩悩に任せて他を排除しようとする。追い込もうとする。もう、無条件である。それが私なのだ。反射的に相手を追い込む事を考える。考えてしまう。 
 救いなんぞ一切求めない。自分さえよければ構わない。「俺の邪魔をするな!」である。
 単なるエゴである。ワガママである。傲慢極まりない、他者、『そこに生きている人』という存在を一切無視してしまい、排除しようとする。
 それを肯定する考えを散々持ち出す。理屈は得意である。様々な理屈を持ち出し、自分が如何に正しいのかを証明しようとする。排除する事を肯定しようとする。
 それも煩悩にしか過ぎない。煩悩の火に燃やされている状態にしか過ぎない。

 『本願を信じ念仏申せば友だちが出来る』と語った人がいた。
 また、『釈自在』という法名を名告った人は、その法名の意味を「誰とでも友だちになれる」と語ったらしい。

 『一切衆生』と云う言葉の中にセクト色はない。『家』も『国家』もないのは当然だが、『仲良しグループ』もない。あくまでも『一切衆生』である。
 思想の違いも越える。だが思想の違いによって生じる意見対立の中で排除してしまう。

 『除かれたもの』
 煩悩の火中に居ながら、「あいつが悪い」と、相手の煩悩のせいにするのが私である。

 「謝らなあかんなぁ」と恩師は語った。
 すぐにキレる私は損である。
 「そうやねん。損やねん!」と恩師は語った。
 でも、他に私は居ない。どこにも居ない。

 『除かれたもの』が私である。
 煩悩の火中に居ながら焼け死ぬ事を傍観しているのが私である。
 そういう私を見捨てずに指摘してくれた。

 排除は力(暴力)の世界である。自分がイヤな排除の論理を肯定してしまう。イヤなら自分から辞めればイイだけの話である。
 『念仏はエゴとの格闘技です』と竹中先生は語った。

 当然、はっきりさせないといけない問題ははっきりさせないといけない。きちんと対決しなければならない。
 でも、『敵』ではない。たまたま御縁があったのだ。
 「縁とは因果がはっきりしたから云える言葉です」と恩師は語る。
 『因』は『仏性』であり、『果』は仏である。共に求道する御縁である。
 同朋である。
 友だちである。
 はずである。
 言い切りたいのだが、言い切れない。

【あなたは自分の部屋が燃えているのにも関わらず、燃えたぎった部屋の中で傍観者になってますね】(竹中先生)
 
【如来の本願とは、「みんなと一緒に生きたい!」という事なんですよ】(竹中先生)

 指摘された言葉。
 教えて下さった言葉。
 何を学んでいたのか解らんが、でも、思い出す事が出来る。
 そんな事が、有り難い。

休め!

2009年02月05日 | 坊主の家計簿
 2月5日
 
 雑費  缶ミルクティー     120円
 外食  かけ小         280円
 食類  諸々          766円
 
 合計             1166円
 2月累計          15659円

 体調悪かってんなぁ、俺。
 っちゅう事で、朝から胃が痛い。。。タバコ吸い過ぎや、っちゅうねん。
 地味にお粥なんぞを喰いつつ、体を休める。とりあえず『休め!』っちゅう感じでんな。

真宗の酒

2009年02月04日 | 坊主の家計簿
 2月4日

 雑費  タバコ        300円
     切手          80円
     中華料理屋     5000円
     バー        1000円
 外食  ハンバーグ      880円

 合計            7260円
 2月累計         14493円

 所用、っちゅうか、会議。
 のちに麻婆豆腐が無茶ウマの中華料理屋で飲み放題コース。え~。。。酔うたぞ。。。ついでに2次会?のバーにも行く。
 帰りの電車が同じ先輩たちと帰ったはずなんだが、記憶が危うい。。。
 帰宅して、そのまま爆睡。

 年齢、性別、キャリア、役職なんぞ関係なくの酒は美味いのぉ。。。

鬼が福を追い出す

2009年02月03日 | 坊主の家計簿
 2月3日

 雑費  缶ミルクティー     120円
 外食  かき揚げ蕎麦      347円
 食類  諸々          616円

 合計             1083円
 2月累計           7233円

 昨夜、酒量に比べてやたらと酔っぱらったのと、酔い方が変だったので「体調悪いや」とは思っていたんだが、今日悪化。仕事終わって雑用かまして、外出しようと思てたら「アカン、アカン、フラフラやんけ」っちゅう事で断念。「さっさと寝よ」と思うが寝れない。。。けど、マシになったし、熱も下がった(と思う)。
 っちゅう事で、テレビを見てたら報道ステーションのトップニュースが大阪・心斎橋にある『そごう本店』が、隣の大丸に売却されるニュースをやってた。
 「え!あっこって、そごうの本店やったんけ!」
 と、驚く。
 え~。。。勝手に東京系の百貨店だと思い込んでました。

 ニュースを見てると、百貨店自体売り上げは下がりっぱなしらしい。代わってコンビニの売り上げが上昇しているらしい。何やら全部の百貨店の売り上げが、全部のコンビニの売り上げに追い越されたらしい。んで、解説のオッちゃん曰く「百貨店という経営方式自体が終焉を迎えているのではないか」みたいな事を云ってはった。
 ニュースを見ながら百貨店業界は伝統教団に似てるのぉ。。。なんぞと勝手に思ったりする。

 過剰包装が目の敵にされている現在、エコバックなんぞがもてはやされる現在、高級百貨店の包み紙を有り難がる人たちは少なくなって来ているのかも知れない。
 また『百貨店』自体のブランドよりも、個別のブランドだったりする。でも、まあ、『セレクトショップ』のデッカイのが百貨店なんだから、カリスマ性があればまた人気が出たりするのだろう。

 今の大谷派教団は同朋会運動である。
 本堂内に『御代前』っちゅう、だいたい蓮如の絵像が掲げられている所がある。
 その割に今の大谷派は蓮如の評判はよくなかったりする。教団が大きくなったのは蓮如様々のはずなんだが、なんかイメージが良くない。どちらかと云うと清沢満之の方が人気があったりする気がする。なら、『御代前』に清沢満之の絵像が掲げられたりすると、きっと本願寺派や、大谷派から離脱した教団なんぞからはボロクソに云われたり、あるいは大谷派からまたまた離脱する寺院が増えたり、あるいはその時の与党が次の選挙で負けたりするのだろうが、『解りやすい』と思ったりするのだが。

 伝統教団っちゅうのはデカイのだ。デカイ分だけ身動きが取り難い。多くの人たちの意見があり、また、伝統がある。「今まではこうだった」である。オッさんになって来て段々と解るようになって来たが、今までと同じなのが楽なのだ。新しい事はしんどい。急に「これからはお経を現代語で読みます」となれば、現代語のお経の練習をしなければならなくなったりする。「今までやって来たのでエエやんけ」である。故に身動きが取り難い。
 
 今までのやり方を貫こうをする人たちを『鬼』にする。
 あるいは、今までのやり方を変えようとする人たちを『鬼』にする。

 「鬼は外!福は内!」
 と、自分の思いを中心に都合良く生きたいと「鬼は外!福は内!」と迷いを深める。

いわし亭

2009年02月02日 | 坊主の家計簿
 2月2日

 雑費  ノリ&ピンセット    200円
     電車往復        420円
     自転車         120円
     タバコ         300円
     居酒屋        4000円
 外食  めし          610円
     カレーうどん      380円

 合計             6030円
 2月累計           6150円

 所用で外出。
 今日は永年の憧れだった『いわし亭』っちゅう鰯料理専門店へ。
 鰯は『いし、かわら、つぶて』である。その専門店である。しかも、今みたいに鰯が高くなかった時代からやっている店である。まさに『いし、かわら、つぶて』を黄金にする店である。
 つまり

【如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。】(親鸞)

 である。
 
【他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。】(歎異抄より)

 である。

 鰯は『魚』に『弱』である。まあ、すぐに腐るのだ。それが故に『弱』である。
 強さを求めざるを得ない弱い人間もすぐに腐る。「どうせ私なんか。。。」になる。

 しかし『いわし亭』である。
 『いわし亭』は、雑魚であり肥料でもある『鰯』が「本当はこれだけ美味しいんだ」と、鰯料理の専門店である。

【「不簡貧窮将富貴」というは、「不簡」は、えらばず、きらわずという。「貧窮」は、まずしく、たしなきものなり。「将」は、まさにという、もてという、いてゆくという。「富貴」は、とめるひと、よきひとという。これらを、まさにもてえらばず、きらわず、浄土へいてゆくとなり。「不簡下智与高才」というは、「下智」は、智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は、才学ひろきもの。これらをえらばず、きらわずとなり。「不簡多聞持浄戒」というは、「多聞」は、聖教をひろく、おおく、きき、信ずるなり。「持」は、たもつという。たもつというは、ならいまなぶことを、うしなわず、ちらさぬなり。「浄戒」は、大小乗のもろもろの戒行、五戒八戒、十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、、六万の斎行、梵網の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」という。かようのさまざまの戒品をたもてる、いみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに、真実報土には往生をとぐるなり。みずからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては、実報土にはうまれずとなり。「不簡破戒罪根深」というは、「破戒」は、かみにあらわすところの、よろずの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらわずとなり。「罪根深」というは、十悪五逆の悪人、謗法闡提の罪人、おおよそ善根すくなきもの、悪業おおきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かようのあさましき、さまざまのつみふかきひとを、「深」という。ふかしということばなり。すべて、よきひと、あしきひと、とうときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかいには、きらわず、えらばれず、これをみちびきたまうをさきとし、むねとするなり。真実信心をうれば実報土にうまるとおしえたまえるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。「総迎来」は、すべてみな浄土へむかえかえらしむといえるなり。「但使回心多念仏」というは、「但使回心」は、ひとえに回心せしめよということばなり。「回心」というは、自力の心をひるがえし、すつるをいうなり。実報土にうまるるひとは、かならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」ともうすなり。「多」は、大のこころなり。勝のこころなり。増上のこころなり。大は、おおきなり。勝は、すぐれたり。よろずの善にまされるとなり。増上は、よろずのことにすぐれたるなり。これすなわち他力本願無上のゆえなり。自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、みずからがみをよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやますという。屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。摂取のひかりともうすは、阿弥陀仏の御こころにおさめとりたまうゆえなり。】(親鸞)

 ちゅう事で、『いわし亭』で飲んで来たのでさっさと寝ます。昼寝も夕寝もしてないし。

斎場にて

2009年02月01日 | 坊主の家計簿
 先に1月〆

 一般会計          124343円
 医療保険            4740円
 家賃             32430円
 ネット代            4410円
 携帯              3786円
 電気代(12月分)       2172円
 ガス代(1月分)        3725円
 国民健康保険         30200円
 
 合計            205806円
 これに一括払いの年金の月割り14109円をプラスすると
 1月合計          219915円 


 2月1日

 雑費  缶ミルクティー     120円

 合計              120円
 2月累計            120円

 家計簿やねんし、ちゃんと月末決済せんかい!
 と、思いつつ、何ヶ月か放ったらかしになってたりするのだが。。。

 え~。。。今日は

 1 毎月1日は忙しい
 2 日曜日は忙しい
 3 葬儀のある日は忙しい

 と、忙しい×3=ワケ解らん。っちゅう事で。
 あ~、よう働いたぞ。っちゅうか、それでも前に居た寺の忙しさの半分やったりするのだが。。。
 んが、まあ、『あの時』とは違うわけであって、最近にしては忙しかったので、昨日休みやったにもかかわらず、今日は仕事が終わって、メシ喰って、部屋で爆睡と。昨日も爆睡、今日も爆睡と。

 気がつくと40だったりする。
 今日、仕事が終わってメシ喰ってると夕方の番組で過去の報道記録なんぞをやってた。途中から、っちゅうか、終わりの方しか見てないのだが、『朝まで生テレビ』の事なんぞもやってた。西部邁が『40代後半!』やったりしてビックリ。猪瀬が42ぐらい。
 え~。。。なんちゅうましょうか。。。

 私は1968年生まれなので、20年ぐらい上の人たちが赤軍世代。ん?全共闘世代か。18ぐらいから色んな所で『元全共闘』なんぞと議論したり、色んな事を教えて貰ったりしてたワケなんだが、え~。。。今の俺の年齢やんな。要するに。中核に入っていたあの人も、ブントのあの人も、え~。。。今の私と同じぐらいの年齢なのか。
 「うちのヨメはんとは三里塚に行くバスの中で知り合ってん。あいつ、ヘルメット被って、タオルを顔に巻いてたから顔が解れへんかってな(笑)」
 なんぞと云ってた人の年齢を越えてたりする。

 そう考えると、時代背景や個人の差なんぞを無視して考えると、真っ先に思いつく言葉は「大した事ないやんけ」である。『大した事ないやんけ』と書くと語弊を生むと思うが、「あ、同じ人間やってんな」と思ったりする。
 やっぱし、20の時の40なんぞは『大人』なのだ。圧倒的に『大人』なのだ。しかもその『大人たち』は、親や親戚なんぞと違って、自分が付き合いを選んだ人たちだったりするので尊敬の対象になったりする。尊敬の対象になって「うわぁ~。すんごいなぁ」なんぞと思ったりする。
 その期待は、幻想の期待が故に裏切られる。
 「この人、こんな人やなかったのに」なんぞと。
 なんちゅうんですか?期待がデカ過ぎて、生身の人間である事を忘れたりする。「私はこうやけど、あの人は違うはずである」なんぞと。
 まあ、期待された人たちも、えらい迷惑やったやろな、と今になって思ったりもするのだが、その分、刺激を与えられてよかったかも知らんが。

 年をとる事を『齢を重ねる』と云う。この『齢(よわい)』は『弱い』だと思う。
 強さを重ねて行くのでなく、弱さを重ねて行く。弱さと出会って行く。
 情けない事や、みっともない事に出会って行く。

 『ねたみ、うらみ、そねみ』が、人間の実態であると親鸞は云う。決して他人事でなく、親鸞自身の事であり、故に親鸞は『われ』『われら』と。
 有名学者のスーパーエリート僧だった法然は『愚痴の法然房』である。『智慧のないアホの私』が法然自身の名告りである。この辺が法然の厳しさなんだろう。智慧は如来側にしかないのだから。

 親鸞は法然から聞いた(受けとった)言葉として、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と云う言葉を残しておられる。
 私の真宗聖典のその言葉の横には「念仏はおろかな私、本当の私に帰る事」と書いてある。多分、恩師たちから聞いた言葉を書き留めたのか、その時に話しておられる事から感じた事をメモしたのかどちらかだと思う。何にしても『その場』で教えて頂いた言葉には違いない。

 年齢と共に『弱い』を重ねる事も当然自分の能力を誇る(自力)事である。
 私は20から40になった事を誇っているわけだ。
 「ふっふっふっふ。。。人間は年を重ねると自分や他人の弱さが解ってくるのだよ」
 なんぞと、誇っているわけだ。

 解ってしまうと、「隣の人が見えなくなる」(by狐野先生)である。それを専門用語で『菩薩の死』なんぞと云ったりする。

 今日は、葬儀だった。棺を運ぶ車の後に私の車がつく。火葬場がある斎場に来たら墓参りに来てたネエちゃんが頭を下げてた。
 なんでか知らんが、ひょっとして今までも体験したのかも知れないが、なんか初めてみたいな感動があった。
 当然、頭を下げたネエちゃんは、亡くなった人が誰かは知らないはずである。たまたま墓参りに来てたら、たまたまいわゆる『霊柩車』に出会った。
 でも、頭を下げられた。
 何を思って頭を下げられたのかは私は知らない。でも、『私と同じ独りの人間が亡くなられた事』に頭を下げられたのだと思う。どんな人生を送られて来たのかは解らない。でも、私と同じたった一度の掛け買いのない生涯をおくられた事に頭を下げたのだと勝手に思ったりする。
 偉い人の遺体だから頭を下げたのではない。きっと誰でも良かったんだと思う。
 誰でも同じ人間なんだし。
 だから、『仏さま』に頭を下げておられたんだと思う。