2月8日
雑費 缶ミルクティー 120円
タバコ10(数日前) 3000円
外食 かけ小 280円
食類 八朔2 100円
合計 3500円
2月累計 23036円
帰宅してメシ喰って爆睡。
起きてから平野修先生の本を読む。固い方(笑)。
『固い方』と書いたのは、平野先生に触れたのは『やさしい本』だったから。固い方は手元にあるけど放ったらかしになってた。
専修学院と云う我が母校に入学した時に、確か『平野修先生に学ぶ会』やったっけな?そんな名称の会があった。とある先生が毎年立ち上げている会で、平野先生が子どもと一緒に砂浜に寝転んだ後に話された事とか、まあ、子ども相手に話された講義録なんかを参加者で輪読→座談する会。
ふと思い出して、その時に頂いた資料をパラパラと読む。平野先生がこんな詩を子どもに紹介してた。
【 『狂人の宣言』 おれは生きている!
俺を狂人と呼ぶ連中よ
それでもきみらは生きている気なのか
鼻の下へ 手をおっつけてみろ
息をしているか 息を
力強い呼吸をだ
きみらがおれを狂人と呼ぶそのように
おれはきみらを
泥人形と呼ぶ
おれはきみらに狂人と呼ばれるほども
真剣にならなきゃあ
どうしてこんな 虚偽と不義のみ横行する
腐れきった<シャバ>に生きられるものか
おお なんとオメデタイ泥人形諸君
いま 狂人とからかわれている
この生きたおれがだ
はたしてなにをすることか
十年 二十年
墓穴のなかで
まあゆっくり見てるがいい】
なんちゅうパンクな詩やねん(笑)
っちゅうか、小学生も参加してる会で何を過激な事を教えてるねん(笑)
上記の詩を紹介した後に平野先生はこんな言葉を残されている。
【私達はいつの間にか「こんな風になっているから」とか「これが普通なんだから」ということで、言われた通りに動いていくとどうなっていくか。自分が生きているのではないのです。自分が生きているのではなしに、制度が生きていて、人間はただその制度の後を追いかけて生きているだけということになります。「おれは生きているのだ。」とは言えないのです。
この詩の題名は『狂人の宣言』とあって、その下に「おれは生きている!」というサブタイトルが付けられているわけです。「おれは生きているのだ。だれかのために、この制度のために私は生きているのではありません。」というわけです。そしてその制度も、つごうのいい人につごうのいい制度、そんなもののためになぜ私は生きなければならないのか。「変わり者だ。」と言われたり、「おまえは少し狂っている。」と言われても、「おれは生きているんだぞ。」と、この人は言い切るわけです。】
この講義のタイトルは『どうして私をそくばくするの』であるらしい。
礼儀作法なんぞとよく言うが、私は『礼儀』と『作法』を分けて考える。
『作法』は『しきたり』である。「こういう風にしなければならない」である。当然、『小笠原流』だとか、いわゆる『冠婚葬祭本』に書かれている様な事だろう。
沖縄の人は、私の事を「ヤマトの人」と云う。まあ、『ヤマトンチュウ』っちゅうヤツやね。
沖縄を例に出すと解りやすいから出したが、北陸は『越の民』である。蔑視表現であるが『熊襲』や、『東夷』なんぞもいる。名古屋辺りは『八の民』やったけな?
まあ、バラバラなのだ。『日本』なんぞと云っているが、バランバランなのだ。
『山の民』もいれば『海の民』もいる。サンカもいる。
在日コリアンも居れば、在日ブラジル人も居れば、不法だろうがなんだろうが様々な形でこの『国』に入って来た方々も居られる。
真宗門徒の独自の文化もある。
それを非常に限定された『作法』に従わなければならない義務があるのだろうか?
『礼儀』は、気持ちの問題である。
『礼儀』が『形』になったのが作法であるが、その『形』が『形』であるが故に、限定され、排除の根拠になったりする。形であるが故に。
『形』に囚われてしまっている。形に囚われてしまっているが故に、「あの人は行儀が悪い」だのなんだの。「作法を知らない」なんだのかんだの。
ちなみに私は水割りを飲む時には『氷り抜き』で頼む。出来れば水も常温がエエのだが、そこまでワガママは言えないので「水割り氷ヌキで」と頼む。単に好きなのだ。
んが、一応『作法』としては『冷たいものは冷たく出す』である。よって、私が作ってた水割りはキンキンに冷たかったはずである。
んが、まあ、そんなもんは『相手次第』でっせ。
『客』が「氷ヌキ」と頼んでいるのに、「それは作法と違う」っちゅうのは礼儀に反する。
統一された『日本文化』なんぞは幻想の妄想にしか過ぎない。
異文化交流は『ややこしい』のだ。簡単にいくわけがない。だって『他人』なんだし。
そういう『他者』との出会いによって、自分のこだわりが、エゴが明らかになる。
『バラバラでいっしょ 差異を認める世界の発見』という言葉があるが、それは同時に『差異を認められない愚かな私の発見』である。
『差異』なんぞは認められないのだ。
そして、認められない愚か者が、共に平等な地平に立って生きているのだ。全く対等な『煩悩具足の凡夫(ただの人)』として、高級な人でなく『無料(ただ)の人』として生きているのだ。
雑費 缶ミルクティー 120円
タバコ10(数日前) 3000円
外食 かけ小 280円
食類 八朔2 100円
合計 3500円
2月累計 23036円
帰宅してメシ喰って爆睡。
起きてから平野修先生の本を読む。固い方(笑)。
『固い方』と書いたのは、平野先生に触れたのは『やさしい本』だったから。固い方は手元にあるけど放ったらかしになってた。
専修学院と云う我が母校に入学した時に、確か『平野修先生に学ぶ会』やったっけな?そんな名称の会があった。とある先生が毎年立ち上げている会で、平野先生が子どもと一緒に砂浜に寝転んだ後に話された事とか、まあ、子ども相手に話された講義録なんかを参加者で輪読→座談する会。
ふと思い出して、その時に頂いた資料をパラパラと読む。平野先生がこんな詩を子どもに紹介してた。
【 『狂人の宣言』 おれは生きている!
俺を狂人と呼ぶ連中よ
それでもきみらは生きている気なのか
鼻の下へ 手をおっつけてみろ
息をしているか 息を
力強い呼吸をだ
きみらがおれを狂人と呼ぶそのように
おれはきみらを
泥人形と呼ぶ
おれはきみらに狂人と呼ばれるほども
真剣にならなきゃあ
どうしてこんな 虚偽と不義のみ横行する
腐れきった<シャバ>に生きられるものか
おお なんとオメデタイ泥人形諸君
いま 狂人とからかわれている
この生きたおれがだ
はたしてなにをすることか
十年 二十年
墓穴のなかで
まあゆっくり見てるがいい】
なんちゅうパンクな詩やねん(笑)
っちゅうか、小学生も参加してる会で何を過激な事を教えてるねん(笑)
上記の詩を紹介した後に平野先生はこんな言葉を残されている。
【私達はいつの間にか「こんな風になっているから」とか「これが普通なんだから」ということで、言われた通りに動いていくとどうなっていくか。自分が生きているのではないのです。自分が生きているのではなしに、制度が生きていて、人間はただその制度の後を追いかけて生きているだけということになります。「おれは生きているのだ。」とは言えないのです。
この詩の題名は『狂人の宣言』とあって、その下に「おれは生きている!」というサブタイトルが付けられているわけです。「おれは生きているのだ。だれかのために、この制度のために私は生きているのではありません。」というわけです。そしてその制度も、つごうのいい人につごうのいい制度、そんなもののためになぜ私は生きなければならないのか。「変わり者だ。」と言われたり、「おまえは少し狂っている。」と言われても、「おれは生きているんだぞ。」と、この人は言い切るわけです。】
この講義のタイトルは『どうして私をそくばくするの』であるらしい。
礼儀作法なんぞとよく言うが、私は『礼儀』と『作法』を分けて考える。
『作法』は『しきたり』である。「こういう風にしなければならない」である。当然、『小笠原流』だとか、いわゆる『冠婚葬祭本』に書かれている様な事だろう。
沖縄の人は、私の事を「ヤマトの人」と云う。まあ、『ヤマトンチュウ』っちゅうヤツやね。
沖縄を例に出すと解りやすいから出したが、北陸は『越の民』である。蔑視表現であるが『熊襲』や、『東夷』なんぞもいる。名古屋辺りは『八の民』やったけな?
まあ、バラバラなのだ。『日本』なんぞと云っているが、バランバランなのだ。
『山の民』もいれば『海の民』もいる。サンカもいる。
在日コリアンも居れば、在日ブラジル人も居れば、不法だろうがなんだろうが様々な形でこの『国』に入って来た方々も居られる。
真宗門徒の独自の文化もある。
それを非常に限定された『作法』に従わなければならない義務があるのだろうか?
『礼儀』は、気持ちの問題である。
『礼儀』が『形』になったのが作法であるが、その『形』が『形』であるが故に、限定され、排除の根拠になったりする。形であるが故に。
『形』に囚われてしまっている。形に囚われてしまっているが故に、「あの人は行儀が悪い」だのなんだの。「作法を知らない」なんだのかんだの。
ちなみに私は水割りを飲む時には『氷り抜き』で頼む。出来れば水も常温がエエのだが、そこまでワガママは言えないので「水割り氷ヌキで」と頼む。単に好きなのだ。
んが、一応『作法』としては『冷たいものは冷たく出す』である。よって、私が作ってた水割りはキンキンに冷たかったはずである。
んが、まあ、そんなもんは『相手次第』でっせ。
『客』が「氷ヌキ」と頼んでいるのに、「それは作法と違う」っちゅうのは礼儀に反する。
統一された『日本文化』なんぞは幻想の妄想にしか過ぎない。
異文化交流は『ややこしい』のだ。簡単にいくわけがない。だって『他人』なんだし。
そういう『他者』との出会いによって、自分のこだわりが、エゴが明らかになる。
『バラバラでいっしょ 差異を認める世界の発見』という言葉があるが、それは同時に『差異を認められない愚かな私の発見』である。
『差異』なんぞは認められないのだ。
そして、認められない愚か者が、共に平等な地平に立って生きているのだ。全く対等な『煩悩具足の凡夫(ただの人)』として、高級な人でなく『無料(ただ)の人』として生きているのだ。